民営ドラゴン 第5章:合理的でない稟議書
JDM出張所は、戦場と化していた。
「だから! 原因は調査中だと何度言えば!」
「霜害の補償!? JDMは保険会社じゃありません!」
「市長がお怒り? 知事にも連絡が行ってる!?」
鳴り止まない電話。飛び交う怒号。
職員たちは、迫り来る「非合理な現実」に対し、マニュアル通りの「合理的な回答」を繰り返すことしかできず、完全に疲弊していた。
その混乱のまっただ中、司令塔であるはずのソフィア所長は、自席でタブレットを凝視し、必死に何かを計算していた。
「……ダメだ。気象庁のデータに異常値はない。赤城山頂の気温低下も、ドローンの残骸から送られてくる映像も、この広範囲の霜害を説明する物理法則が見つからない……」
彼女は、自分の理解できない現象を前に、フリーズしていた。
俺は、そのソフィアのデスクまで一直線に進み、昭和五十八年の黄ばんだ業務日誌を、彼女のタブレットの上に叩きつけた。
バサッ、という乾いた音。
「……赤城さん? 持ち場に戻りなさい。今、私は……」
「所長。あんたの探してる『物理法則』は、それです」
「……は?」
「昭和五十八年七月十日。現出張所の前身、竜災対策課の業務日誌。状況、霜害の発生。原因、給餌内容の変更(和牛の停止)。……まったく同じでしょう」
ソフィアは、怪訝な顔で手書きの日誌をめくった。彼女の目が、ある一点で止まる。
「……『お囃子』? 祭りの音楽を再生……? 何です、これは。オカルトですか?」
「オカルトじゃありません。『前例』です」
俺は、ソフィアの目をまっすぐに見据えた。もう、いつもの事なかれ主義の公務員の顔はしていなかったと思う。
「俺たちは、管理対象に餌をやってたんじゃなかった」
「何を言って……」
「この土地の大家に、『家賃』を払ってたんです」
俺は、田宮のじいちゃんから聞いた話を、ありのまま叩きつけた。
和牛は家賃。お囃子は契約更新の儀式。ペレットは契約違反。霜は、退去勧告だと。
ソフィアは、話が終わる頃には、こめかみをピクピクと痙攣させていた。
「……赤城さん。あなたは本気ですか?」
低い、怒気を含んだ声だった。
「家賃? 大家? 儀式? あなたは、JDM(日本ドラゴンマネジメント)の職員として、その非科学的で、迷信に満ちた、非合理な(・・・)たわごとを信じろと?」
「信じてくださいとは言いません。だが、実行する必要がある」
「却下します」
ソフィアは即答した。
「私が承認できるのは、データとエビデンスに基づいた対策のみです。そんな『神様ごっこ』に、会社の予算を割くことは、絶対にできません」
「予算が下りないなら、俺が立て替えます」
「そういう問題ではない!」
ソフィアが立ち上がった、その時だった。
一番偉いベテラン職員の田沼さんが、受話器を握りしめたまま、震える声で叫んだ。
「しょ、所長! 国土交通省からです……! 赤城山頂付近で、微弱な振動を観測……気象庁は『火山性微動の可能性』と……!」
ソフィアの顔色が変わった。
「火山性微動? 赤城山は休火山のはず……!」
俺は、田宮のじいちゃんの言葉を思い出していた。
『ドローンで済んで、儲けもんだ』
「……所長。それは火山性微動じゃない」
俺は、自分の声が乾いているのを感じた。
「大家様が、本気で怒り始めたんですよ」
「……!」
「このままじゃ、霜害じゃ済まない。山が動く。そうなったら、麓の町が全部吹き飛ぶ」
ソフィアは、俺の顔と、日誌の「お囃子」という文字と、そして「火山性微動」と表示されたモニターのテロップを、数秒間、激しく見比べた。
彼女の額に、汗が浮かんでいる。
彼女は、合理主義者だ。
だからこそ、理解したはずだ。
コストカット(ペレット)の「利益」と、火山噴火の「損失」。
その天秤が、今、決定的に傾いたのを。
「……赤城さん」
ソフィアは、絞り出すような声で言った。
「和牛を調達した場合の、コストを試算してください」
「もうしました。ペレットの年間予算の、およそ50倍です」
「……」
「お囃子の音源は?」
「対策課時代のオープンリールが、まだ資料室にあるはずです。再生機材は……給餌ポイントに放置されてる古いスピーカーが、まだ動けば……」
ソフィアは、目を閉じた。
数秒の沈黙。
やがて彼女は目を開けると、俺を射抜くような目で睨みつけた。
「……稟議書を上げてください」
「え?」
「『アカギノヌシの鎮静化、及び火山性微動(と推定される事象)の停止を目的とした、緊急給餌(和牛)と、伝統的音響(お囃子)の再生について』。……理由欄には、『昭和五十八年の前例に基づき、コスト度外視で実行する』と書きなさい」
それは、彼女の合理主義者としての、全面降伏の言葉だった。
「ただし」
彼女は付け加えた。
「この『非合理な賭け』が失敗した場合。……赤城さん、あなたは責任を取る覚悟があるんですね?」
俺は、黄ばんだ業務日誌を握りしめた。
昭和の公務員が残してくれた、たった一つの「前例」。
「もちろんです。これが、俺の仕事ですから」
俺は、人生で最も奇妙な稟議書を書くために、自分のデスクに向かった。
事務所の喧騒は、まだ止まない。
だが、俺の頭の中は、妙に静まり返っていた。




