民営ドラゴン 第4章:大家と家賃
俺が息を切らして駆け込んだのは、市役所から続く古い商店街の一角にある、小さな駄菓子屋だった。
カラカラ、と乾いた鈴の音が鳴る。
「ごめんください!」
店番をしていた老婆が、ちびまる子ちゃんに出てきそうな顔で俺を見た。
「あら、翼くん。そんなに慌てて。JDMは火事かい?」
「トメさん、こんにちは! 田宮さん……いや、田宮のじいちゃん、いますか!?」
店の奥、万年床のような座布団の上で、仙人のような白髪の老人が、小さなブラウン管テレビで高校野球を眺めていた。
田宮 善治。
御年88歳。元・竜災対策課の課長にして、この沼田市の「生き字引」と呼ばれる人物だ。
「……おお、翼か。やかましいぞ。今、いいところだ」
「じいちゃん! それどころじゃ……!」
俺はカウンターを乗り越えんばかりの勢いで、座布団の前に滑り込んだ。埃っぽい畳の匂いがする。
「これ! これ、じいちゃんが書いた日誌だろ!? 昭和五十八年! 『地元古老のT氏』って、あんたのことだ!」
俺が黄ばんだ業務日誌を突き出すと、田宮のじいちゃんは、分厚い眼鏡の奥の目をゆっくりと細めた。
「……ほう。まだ残っとったか、そんなもんが」
テレビから目を離さず、彼は呟いた。
「ソフィアとかいう、あの派手な西洋娘が、全部捨てさせたんじゃなかったのか」
「捨てられた中から見つけてきたんだよ! じいちゃん、教えてくれ! 『お囃子』って何だ!? ヌシは、祭りの音楽がないとメシ食わないのか!?」
俺の切羽詰まった声に、田宮のじいちゃんは、ようやくテレビから視線を外し、俺の顔をじっと見た。
そして、ため息をついた。
「……翼、お前、公務員になって何年だ」
「え? あ、いや、市役所には10年いて、JDMに出向して……」
「10年いて、まだそんなことも分からんのか」
彼は、傍らにあった湯呑みを持ち、冷え切った番茶をすすった。
「あのな、翼。わしらは、ヌシに『餌』をやっとったんじゃない」
「え……?」
「わしらはな、『家賃』を払っとったんだよ」
家賃?
「ヌシはな、ペットでも管理対象でもない。あれは『大家』だ。この赤城山っていう土地の、とんでもなくデカくて、とんでもなく気難しい、大家様だ」
じいちゃんは、日誌の「お囃子」という文字を、節くれだった指でなぞった。
「わしら人間は、その大家様の土地で、リンゴだのコンニャクだのを作らせてもらって、商売させてもらってる。だから、感謝の気持ちを込めて、この土地で一番上等なモン……つまり和牛を、『家賃』として納めてきた」
「それが、あの給餌……」
「そうだ。そして、『お囃子』。あれは、ただのBGMじゃない」
じいちゃんは、店の壁に貼られた色褪せたポスターを指差した。
『沼田まつり』と書かれた、天狗の面が踊る写真だ。
「あれは、『契約更新』の儀式だ」
「契約……更新?」
「年に一度の沼田まつり。あれは本来、ヌシ様のための祭りだ。あの囃子の音は、『今年も一年、よろしくお願いします、大家様。これが今月分の家賃です』っていう、わしらからの挨拶状だ。和牛は、その挨拶状に添える『熨斗』だ」
俺は、言葉を失った。
給餌だと思っていた行為は、餌やりなどではなかった。
それは、土地の神に対する、神聖な「儀式」だったのだ。
田宮のじいちゃんは、忌々しそうに続けた。
「昭和五十八年。あんたが生まれた年だ。あの時も、東京から来た新しい役人が、『合理化だ』っつって、真っ先にあのうるさいだけの『お囃子』を止めさせちまった。そしたらどうだ。3日で霜が降りて、リンゴが全滅した」
じいちゃんは、俺の目をまっすぐに見据えた。
「翼、よく聞け。あの西洋娘……ソフィアだか何だか知らんが、あいつがやったことは、『コストカット』じゃない」
「……」
「『家賃の不払い』と、『契約更新の拒否』だ」
ゴクリ、と喉が鳴った。
「ヌシは今、腹を空かせてるんじゃない。……怒っとるんだ。契約を一方的に破棄されてな。あの霜は、ただの異常気象じゃない。あれは、『即刻退去勧告』だ」
即刻退去勧告。
その言葉の持つリアリティに、俺は背筋が凍る思いがした。
俺たちは、この土地の「大家」を、最悪の形で怒らせてしまった。
「じいちゃん……どうすればいい。今、霜だけじゃなく、ドローンまでやられて……」
「当たり前だ。家賃も払わん奴が、無断で大家様の寝室に土足で踏み込んだんだ。ドローンで済んで、儲けもんだ」
「じゃあ……!」
「決まっとる」
田宮のじいちゃんは、テレビのリモコンを掴み、高校野球の音量を上げた。
まるで、もう俺との話は終わりだ、とでも言うように。
「滞納した家賃は、きっちり払え。それも、一番上等な和牛でな」
「……それだけか?」
「それから」
じいちゃんは、テレビの画面を睨んだまま、ボソリと言った。
「契約更新の儀式を、やり直せ。お囃子つきでな」
俺は、業務日誌を強く握りしめた。
理由はわかった。解決策も示された。
だが、最大の問題が残っている。
(ソフィア所長を、どうやって説得する……?)
「データ」と「エビデンス」を金科玉条のごとく信奉するあの上司に、「大家様が怒ってるから、祭りの音楽かけて和牛を奉納しましょう」なんて、どう説明すればいいんだ?
「……じいちゃん、ありがとう」
俺は座布団から立ち上がった。
「やるだけ、やってみる」
「翼」
店を出ようとする俺の背中に、じいちゃんが声をかけた。
「……あの西洋娘にも、分からせてやれ。わしらが相手にしてんのは、動物園のトカゲじゃない」
「……」
「『神様』だってことをな」
俺は無言で頷き、炎上するコールセンター――JDM出張所へと、再び走り出した。




