もうすぐ、さくらもさくし。
ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ」
といひければ、よめる。
唐衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
『伊勢物語』
萌えるような春の気配が日ごと濃さを増してゆく3月も半ばの世界が、予期したほどの感慨深さもないままに去りつつある、そんないつも通りの昼下がり。
うぐいすが鳴くことこそないものの、ひと眠りするには十分なほどあたたかな木漏れ日が、三方を校舎に囲まれたこの狭い中庭にも降りそそいでいる。
涼やかな風が、あちこちに咲いた校長先生ご自慢の……なんでも外来種のせいで激減しつつある貴重な固有種らしく、全校集会のたびに話のネタにさられていた……黄色い蒲公英を揺らしながら芝生を駆けぬけてゆく。
グランドからは、誰が弾いているのか知らないけど入学したころからずっとそうだった通りに、名前も知らない弦楽器の澄みきった音色が響きつづけていた。
さくら さくら。
もともと音楽に造詣の深くない僕でも知っているその曲は、同じような丁寧さで何度も繰り返されていいかげん飽きがきそうになった今この瞬間に、ガラッと雰囲気が変わった。
さっきまでとは比べものにならない轟音は、入学してこのかた聴いたことがないような叩きつけるような勢いを秘めている。
狂ったような音程がギリギリのところでバランスをとりながら次へ次と進み、あくまで軽快なリズムに込められた激しさは震えが走るほどで、つまりなんていうかその、聴いていて本当にスカッとするような、もうすぐ僕らは卒業で志望校に合格できていようが出来ていなかろうがこの学校を去っていかないといけなくて、そして僕は合格しなかったんだけれどそんなこともどうでもよくなるような演奏だった。
しかたがない、と僕は二日前に両親と担任から言われたその一言を繰り返してみて、第二希望にしてはいたもののあまり乗り気ではなかった県外の学校に行くのも案外悪くないんじゃないかなんて昨日の僕が聴いたら耳を疑いそうなことを考えながら、体についた草を払い落して職員室に向かう。
もうすぐさくらもさくし、何を考えたのかよくわからないどころか誰かも知らない奏者がたった今そうしたように、少し新しいことをしてみようと思った。
『伊勢物語』が好きです。
言葉の風雅な選び方も素敵ですが、やはり人の心の機微がおもしろいなと思います。
その『伊勢物語』にならって、この作品には仕掛けが一つあります。
前書きでネタバレしているので僭越かとは思いますが、読み解けた方は感想混じりに知らせていただけると嬉しいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。