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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

響と霧の館

作者: 折田高人

 深い霧には気を付けろと彼は言った。

 霧は現世と幽世の境界線。その帳を潜ってしまえば、見知らぬ世界に放り込まれるのだと。

 物静かな部屋で、彼は紙を捲り続ける。

 生気のない横顔は、まるで同じ事を繰り返し続ける自動人形のよう。

 響く時計の針の音。

 窓の外では木々が蠢いていた。


 宮部響は逃げていた。

 周囲を取り巻く奇形の木々を縫うように走る。

 騒めく木々が、響の後ろから迫ってくる。

 比喩などではない。文字通り、蠢く木々が彼女の跡を追いかけてきていた。

 灰色の樹木……否、それを思い起こさせる紛れもない生き物だ。

 一匹二匹の話ではない。数えきれないほどのそれが、駆ける響を付け回す。

 怪物たちが覗かせる鋭い牙。

 響は命の危機を感じていた。

 如何に魔術の心得があるとはいえ、この物量相手にはとても対処できない。

 そもそも、魔術を使うには精神を落ち着かせ、正確に呪文を唱える時間が必要だ。

 息も絶え絶えになって闇雲に走り回っているこの状況下では、魔術を使用している暇など全くない。

 薄暗い森の中を行く時間の間彷徨っていたのだろう。

 突如、響の視線に微かな灯が飛び込んできた。

 響は迷わなかった。元より進める場所など分かっていないのだ。ならば、例え火中に飛び込む虫になろうとも、目印のある場所に進んでやろう。

 覚悟を決めて、灯の下へと走り続ける。少しずつ輪郭を現す古ぼけた洋館。

 門は空いていた。躊躇なく飛び込む。

 庭の半ばまで走って後ろを振り返り……響の足が止まった。

 怪物達が追ってこない。障害が有るかのように開いた門の前で立ち止まっている。

 塀の側には無数の怪物が頭を覗かせていた。立ち去る様子はない。

 怪物に囲まれた状況というのは変わらないが、取り敢えずは危機を脱することができたようだ。

 妃はようやく一息つく。限界を超えて酷使した脚が震えていた。

 何故こんなことになったのだろうか。見知らぬ森の屋敷の庭で、響は今日の出来事を思い返していた。


 怪異渦巻く堅洲町。町の怪異達は休み知らずであるが、人間達にとって今日は待ちに待った休日であった。

 見た目は小学生、その実高校生の加藤環に誘われて、響達はいさぬき公園に足を運んでいた。

「壮観ですわ~!」

 広場を埋め尽くす露店の数々を見て感嘆の声を上げるのは、金髪蒼瞳の女神のような美少女、滋野妃。

「ねっねっ! すごいでしょ~!」

「うん。こんなに規模が大きいなんて思ってもなかったよ」

 自慢げな様子の環の姿にくすんだ金髪の少女、来栖遼が頷く。

 鯖江道住民の憩いの場所である広い広いいさぬき公園。ここでは定期的にフリーマーケットが行われており、今日がその日であった。

「早速、掘り出し物探しに参りましょう! 宝探しみたいでワクワクしますわ~!」

 会場の熱気に充てられた妃のテンションは何処までも高まっていく。今にでも走り出しそうな様子である。

「待て待て。単独行動するなとは言わんが、せめて集合場所と時間くらいは決めておくべきだろ」

 はしゃぐ財閥令嬢の手綱を操りながら、響は落ち合う場所と時間を決める。

 正午になったら公園に備えられた大時計の下で落ち合うことを決め、各々が散っていく。

 大時計の下で楽しげな彼女達を見送りつつ、さてどうしたものかと響は思案する。

 自信満々に此処に案内してくれた環には悪いと思ったが、フリーマーケットを堪能するつもりなど響には微塵もなかった。

 そもそも、彼女には莫大な借金がある。その返済に金を使いたい響にとって、無駄な出費はできる限り避けたかった。

 とはいえ。気分転換くらいはしていこうと響は広場を後にする。向かう先は溜池方面。散歩コースとして用意された道を、響は気儘に散策する。

 溜池の縁取りに咲く無数の花々。花はいい。種類問わず心癒される。見るだけならタダで済むのも響にとっては嬉しい所だった。

 ふと気付く。陽光が地に届かない。よくよく見ると、いつの間にか周辺に霧が出ていた。

 水場の近くだし珍しくはないのか? そんな感想を抱きつつ、散策を続ける響。

 霧はどんどん濃くなっていく。もう足元しか見えない。下手をすると溜池に落ちかねないと危惧する響の前で……急に視界が開けた。

 霧はない。花の彩もない。静かな水面を称える溜池も存在しない。

 有るのは見渡すばかりの木、木、木。

 見知らぬ森に響は迷い込んでいた。


 響は困惑していた。

 此処は何処だ?

 霧に迷って公園にある雑木林にでも足を踏み入れてしまったのか。その考えは即座に否定された。

 後ろを振り返ってみても公園は姿を現さない。

 散策の間も遠くから聞こえてきた露天商達の活気のある声が、ここでは全く聞こえてこなかった。

 日の光すら届かない暗い森だった。

 このまま考えなしに進んでも、いい結果にはならないだろう。

 携帯電話を確認する。電波は届いていなかった。

 さて、どうしたものか。悩む響の後ろで、深い茂みが揺れる。

 振り返ると、そこにいたのは……灰色の樹木だった。

 否。よくよく見ると、樹木のようなナニカだ。枝のように別れた複数の腕。根のような蠢く脚。顔には目も鼻もない。唯一有るのは牙の生えた大きな口だけ。

 しばし沈黙。

 対面した響は、何故かそののっぺらぼうの存在するはずのない視線と目が合ったような気がした。

 ずりずりと歩み寄ってくる怪物に合わせて後退る。

 響が身を翻して走り出すと同時に、怪物も駆け出した。

 暗い森の中を遮二無二に走る。時折後ろを確認しながら逃げる響の顔に驚愕の表情が浮かんだ。

 増えている。初めは一匹。次に振り返った時には二匹。後ろを振り返る度、怪物の数が増えていく。

 恐らく森に紛れていたのだろう。周囲を徘徊する樹木怪物達は逃げ惑う響を目にするや否や、次々と蠢く森の軍勢に加わっていく。

 響を追い掛け回す木々の群れ。

 脚が悲鳴を上げる中、響は己の限界を超えて唯々走り続けたのであった。


 ようやく脚が落ち着いてきた。

 蠢く木々達は、相変わらず門の外側で待ち構えている。こちらに侵入する術がないらしい。

 響は塀をなぞって館の外周を回ってみた。

 何処も彼処も荒れ果てている。手入れのされていない庭木の枝が、四方八方に伸びていた。

 ぐるりと一周。

 響は頭を抱える。塀の向こうにはぎっしりとあの化物達が詰まっている。瞳のない視線が、響を監視しているようだった。

 結局、逃げ場所は一つしかない。

 玄関には灯が灯っていた。

 こんな怪しい森の中、真面な人間が住んでいるのだろうか。そんな疑念を抱きながらも、響は扉をノックする。

 しばらくして扉が開いた。

 姿を現したのは眼鏡をかけた穏やかそうな男だった。ただ、少しやつれているようにも見える。こんな場所に住んでいるというのならば仕方ないが。

 男は響を一目見ると、この場に相応しくない呑気な声を上げた。

「やあお嬢さん。いらっしゃい」

「あんた、この館の住人か?」

「君と同じで迷い込んだ人間だよ。ただ、迷い込んだのは結構前になるから、此処の住人と言えなくもないかな?」

 響を館に招き入れると、扉を閉める前に男は門の側に屯する怪物達に視線を投げる。

 鍵を掛ける。

「もう安全だ」

「何なんだよ、あれ?」

「さあ? 私も詳しくは分からない。どういうわけかこの館の敷地には入ってこないのは確かだ。最も、此処から逃げ出すにはあいつらをどうにかしないといけないって事だけは分かるけどね」

 薄暗い館の廊下を、か細くも柔らかな電気の光が照らしていた。どうやってこの屋敷が電気の恩恵を享受できているのか。響には皆目見当もつかない。

「それにしても、今日は千客万来だな。日に二人も迷い人が来るなんて」

「先客がいるのか?」

「ああ。二時間程前にふらりとやってきてね。今は客間で調べ物をしているよ」

 そう言って、客間の扉をノックする男。

「失礼。新しい迷い人だよ」

 返事を聞くこともなく、男は客間に入っていく。

 通された響の瞳に映る、和装の少女が一人。背丈は環より若干背が高い程度だろうか。無機質な黒い瞳で会釈した少女は、ソファに座りながら分厚い本を捲っている。

 響は息を呑む。目の前の少女の美しさに。

 瀧のように流れる艶やかな黒髪が腰にまで伸びている。肌は白雪のごとく白い。

 まるで生人形だ。作られた人工的な美貌。意思を持って動いている事自体が不自然に思える無機質な美しさ。否。ここまでくると、人は美しさよりも悍ましさを感じるのではないだろうか。

 響は彼女とは初対面だった。しかし、知っているある顔でもあった。

「武藤雅……だったか、あんた?」

 本に目を通したまま、首肯する雅。

 その姿は、かつて真宗秋水の誘いで赴いた訳あり物件で見つけた写真の人物そのままであった。

 武藤雅。この町の住人の守護者である武藤の一族の魔王。そして級友、加藤環の幼馴染。

「タマの奴から聞いていたが、本当に男には見えないな……」

「男? 君、男だったのか?」

 目を丸くする男。

 その言葉に、雅は漸く本を読むのを止めて響と向き直る。

「タマ? どうにも私についてお詳しいようですが、何処かでお会いになりましたでしょうか?」

 鈴の音のような軽やかな声。紛れもない少女の声だ。環から情報をもらっていなければ、例え会話したとしても男とは気付けないだろう。

「いいや。こっちが勝手に顔を知っているだけだ。あんたの事はタマから……加藤環から聞いた」

「あなたは?」

「響。宮辺響だ。タマとは級友でな。あんたの事はあいつから聞いた。幼馴染なんだってな?」

 雅の顔に微笑が浮かぶ。

「はい。とても大切な友達です。環様、元気にしていらっしゃるでしょうか?」

「元気も元気。今日もあいつに引っ張られてフリマに来ていたんだが、何の因果かこの様だ」

「それは……災難でしたね」

「あんたも巻き込まれたのか?」

「いえ。自発的に此処に赴きました」

 雅の視線が再び本に落とされる。

「最近、この公園辺りで失踪者が多いので調べていたのです。霧の境界が見えたので、これが原因と踏んで飛び込んでみたのですが……」

「霧の境界?」

「響様。あまりにも深い霧には努々お気を付けください。霧は世界を隔てる境界線。帳を超えれば異界が姿を現しますから」

「……ここから出る方法は? あんた、魔王なら何とかできないか? すごい魔術とかなんとか」

「残念ながら。魔王は魔力を生み出し土地を潤すだけが取り柄の存在でして。環様の嗜むゲームのように第二形態でもあればよかったのですが……」

「じゃあどうやって出るんだ? まさか片道切符上等なんて心構えで特攻した来たわけではないだろ?」

「ええ。見当は付いています」

 雅の視線が本から離れた。パタンと音を立てて閉じられる分厚いノート。

「英語は読めますか?」

「ああ。主要な海外語はクソ親父に叩き込まれた。魔導書読むのに必要だってな」

「では、こちらを。必要な事はこのノートに記されています。時間が惜しければ最後の辺りのページに重点的に目を通してください。和水さん?」

「何だい雅さん……くん?」

「少し、この屋敷を探索してきます」

「分かった。でも地下には……」

「承知しております。地下室にはあなたと共に向かう。それで宜しいですね?」

「宜しいです。気をつけて」


 雅が客間から去った後。響は目の前に置かれたノートを手に取った。

 表題はない。A・ホプキンスとの著名だけが記されていた。

「このノート、何なんだ?」

「この館に迷い込んだ外人さんの持ち物だよ」

「そいつはどうなった」

 和水と呼ばれた男は首を横に振る。

「残念だけど、亡くなったよ。地下室で変わり果てた姿の彼を見つけた。本当に惜しい。どうにもこの館について、何か知っているようだったんだけどね」

「和水さん……でよかったか?」

「そういえば自己紹介がまだだったね。私は後藤和水。この館に迷い込んでもう三年になるよ」

「三年も閉じ込められていたのか……」

「何度か迷い人がこの館を訪ねてきたんだけど、そのことごとくが失踪した後に地下室で見つかって……彼らは皆首だけになっていた。一人で地下室に行ってはならないのはそのためだ。幸い、二人で赴いた場合は何もなかった。一人でいると気が狂いそうになるから、君達がいてくれると心強いよ」

「これまで生きてこられたなんて運の良い奴だな。私達が失踪する可能性もあるんだぜ」

 響はノートを開く。

 初めの頁には「聖受難教会、使徒アラン・ホプキンスの私的なまとめ」と記されていた。

 聖受難教会。キリスト教以外の宗教を認めず、異教徒達に迷惑をかけまくっていると噂の組織の名であった。

 正義感に駆られて特攻したのか? そんな偏見を抱きつつ、時間が惜しい響は雅の助言の通り、後ろ側から記述を探し始めた。


『今、この館で今までの事を日記に纏めている。この場所に赴いたのは異様に濃い霧を見かけた為だ。こういった霧の中には、魔女が……そうでなくても何某かの怪異が巣喰っている事が多い。人間の害になる前に排除する必要があった』


『飛び込んだ霧の中。予想だにしない連中と出くわした。蠢く妖樹の群れ。こいつらが此処にいるという事は、この霧はあのクソ虫共が生み出した物なのだろうか? クソったれな御先祖様の因果の糸がこんな極東の地で繋がるとは思ってもいなかった』


『古ぼけた館を見つけた。館には一人、男が住み着いていた。後藤和水と名乗ったこの男は、もう二年もの間この館に閉じ込められているらしい。妖樹共はこの館に入ってくる様子がない。だが、安全とは言い切れない。このクソ共がこの館に誘導する為に追い掛け回していた可能性がある。今も奴らは館の前に屯して、俺を館から出さないように監視している。ならば、目の前の男が虫憑きの可能性も否定できない』


『虫除けの魔術を用いて男を精査した。聖受難教会には魔術を使用する事を苦々しく思うクソ信徒共が多い。馬鹿々々しい。のろ火なんぞで魔女が殺せると本気で信じている頭花畑野郎共が。使えるものは何だって使う。そうでなければ只の人間が魔女に……怪異になど立ち向かえるものか。クソ御先祖様のやらかしの罪滅ぼしとして、人類の敵を滅ぼす事だけが俺の使命だ。此処にしか居場所がないから入信しただけ。信仰心など端から持ち合わせていない』


『男に虫は憑いていなかった。これで多少は信用ができるだろう。二年も住み着いているだけあって、男は随分とこの館に詳しい様子だ。男の案内で館を見回るが、たった一ヵ所、鍵が掛かって開かない扉があった。男も入った事がないらしい。力任せでも扉は開かない。鍵が必要だ』


『残ったのは地下室だけだ。あのクソ虫共が屯している可能性があるのは。男は一人で行ってはいけないと何度も引き留めてくる。過去に館を訪れた連中も、一人で地下に向かった結果、首だけになって発見されたとの事だ。妖虫共は人の頭に住み着く。何かの実験なのだろうか』


『必死になって引き留める男を説得した。此処の怪異の正体に心当たりがある。クソ虫共に憑依される危険性がある以上、この男を同行させるわけにはいかない。俺にはメギドの剣がある。この剣の加護さえあれば虫共に頭を乗っ取られる事はない。こちらの決心に、ついに男が折れた。無事に帰ってくるのを祈るとの言葉の後、沈黙を守っている。その心遣いだけ頂いておこう』


『少しはこの男に報いてやらねばなるまい。この世に絶対などありはしない。万が一俺が戻ってこられない時の事も考えて、忠告の意味も込めて此処の怪異の正体を書き記しておく』


『此処の怪異は十中八九、過去のイギリスで目撃された人憑虫共だ。俺のクソ祖先、彼の偉大なる強欲な人でなし、魔女狩り将軍様がこの連中と遭遇しており、その記録は代々家に語り継がれてきた』


『こいつらは鳩ほどの大きさの奇怪な虫で、非物質化した後に接触した人間の頭に寄生し、その人間の精神を弄びながら行動を支配する。その精神的な拷問によって心を壊され、宿主に相応しくなくなったと判断しない限り、中々憑依者から離れる事はない厄介な質のサディスト共だ』


『この館に赴いてからも姿を確認できていないが、このクソ虫共が存在する明確な証拠がある。表で蠢いているあの木の化け物共は、この虫共の奴隷なのだ。今までクソ虫を見て妖樹が存在しなかった事はあったが、妖樹を見てクソ虫が居なかった例は殆どない。ましてや、明確にこの館に獲物を追い込むように動くとなれば、あの妖樹共が妖虫の指示に従っているのが目に見えている』


『虫そのものは物理的に殺せる存在だ。魔術も使用するが、例え同時に三つの魔術を行使できるクソ虫と言えど呪文は必須。それが最大の隙となる。不死身に近く、呪文もなしに魔術をバンバン行使する魔女連中よりは余程与しやすい連中だ。無論、寄生されないような対処を取った上での話だが』


『この館は牢獄だ。元の世界に戻るには鍵となる存在を探さねばならない。そいつが話を聞き入れて鍵を開けてくれるならば御の字だが、相手があの虫共では不可能だろう。鍵となる存在を……妖虫を殺さなければならない。そうしなければ、永遠にこの館に留まる事になる』


『以下に魔術を二つ記しておく。最初の魔術はあのクソ虫共を宿主から追い出す魔術。その次の魔術は一定期間クソ虫に寄生されないようになる防御魔術だ。ただし、この防御魔術はとにかく魔力を消費する。少なくとも、俺のしみったれた魔力では一人に掛けるだけで戦闘どころではなくなる程の疲労に襲われる羽目になった。この魔術を真面に使えたならばメギドの剣もいらず、男の力を借りる事も出来たのだが』 


『この日記には他の頁にも魔術をいくつか記してある。切れる札は多い方がいい。時間に余裕があったなら目を通して欲しい。もし俺が此処に戻らなかった場合、この日記を手にした者の健闘を祈る。クソったれなこの世界に祝福有れ!』


 日記はここで終わっていた。

 結局、この日記の主が戻ってくる事はなかったようだ。

 響は記された呪文を頭に叩き込む。

「どうでした?」

 柔らかな鈴の音が耳に届く。

 何時の間に戻ってきたのだろうか。白い肌と黒い髪、モノクロームの少年が、音もなく其処に立っていた。

「……気配消して近づくな。夜中に気味の悪い日本人形に出くわしたようで心臓に悪い」

「ふふ。此処から出たらお化け屋敷で仕事でも探してみましょうか?」

 不気味な館で危機的状況にありながら、冗談を飛ばす雅。流石は堅洲町を守る魔王様。このような出来事には慣れている様子だ。

「そうだ。雅、和水さん、ちょっと並んでくれ」

「何をする気だい?」

「日記の魔術、使えるのですね?」

「ああ。まずは虫除けだ。雅は単独行動中に虫に憑りつかれていないとも限らないしな。次に防御魔術。念には念を入れておく方がいいだろう」

 

 息も絶え絶えに響はソファに寄り掛かる。いかに心得があるとはいえ、唯の人間の響にとって連続での魔術行使は流石に堪えた。

 虫除けは不発。憑りつかれてはいなかったようだ。

「大丈夫かい?」

「御苦労様です、響様」

「ああ。礼はいい。それで雅、館の様子はどうだった?」

「どうにもこうにも。妖虫はおろか、普通の虫一匹見かけませんでした。日記に書かれていた通り、二階に鍵の掛かった部屋が一つ。残りの部屋は書斎と物置でしたが、目ぼしいものは見つからず。一階の寝室や厨は使われた形跡がまるでありませんでした」

「となると、残りは……」

「……地下室ですね。後藤様、案内お願いできますか?」

 後藤が身を震わせる。地下室には良い思い出がないのだろう。

「……分かったよ。今回は魔術の加護もある。危険は大分減ってると信じよう」

「できれば、あの鍵の掛かった部屋を探索したいのです。地下に鍵があるかもしれません。見つかったら一度戻りましょう。」

「見つけるのには骨が折れるなあ。かなり広いよ、此処の地下室」

 響の手が力なく上げられる。大分呼吸は落ち着いてきたようだ。

「私はどうすればいい?」

「雅様にはもう一度、二階の探索をお願いいたします。見落としがあるかもしれません。では、御武運を」

「気を付けて、響さん」

 地下へと向かう二人を見送る。

 時計の鐘が鳴り出した。

 窓の外。相も変わらず木々が蠢いていた。


「虫、虫、虫ってか。と言っても普通の虫だが……」

 書斎。

 一息ついてから二階の探索を始めた響だったが、雅の言う通り、目ぼしい本はなさそうだった。

 昆虫に関する数々の論文。ジャン・アンリ・ファーブルの「昆虫記」。フランツ・カフカの短編集「変身」。イラスト満載な小学生向けの「楽しい昆虫生活」や「昆虫大図鑑」。「昆虫標本の作り方」「昆虫採集の勧め~体と脳が鍛えられる最強スポーツ!~」「虫の神秘」等々。

 大半が現実の虫に関する著書らしく、この館に巣食うという妖虫の手掛かりにはなりそうにない。

 そもそも、この館の主たる虫共が集めた本だというのならば、自分達の手掛かりを残すようなことはしないだろう。だとすればこれらは純粋に妖虫共の研究資料なのだろうか?

 机や本棚の上下を隈なく探すも、物が何一つ収められていない。

 此処には何もない。そう判断した響は書斎を後にする。

 物置に移動する途中に別の扉が目に入る。鍵が掛かっていて開かないという例の扉だった。

 怪しいとは思うが、現状では放っておくより他にない。

 物置に入る。

 一見した所でガラクタばかりに見えた。

 壊れた置時計、古ぼけたラジオ、年代物のダイヤル式テレビ……遼が見たら狂喜乱舞する事だろう。

 流石に物が多い。ここに鍵があるとすれば、探すのは随分と骨が折れる。

 ふと、響の目に飛び込んできた物があった。

 細い針金だ。

 曰く付き物件のアルバイト。三上の言葉が思い起こされる。

 幸いこの館は古めかしい。それ程セキュリティも強固でないだろう。試してみる価値はある。

 響は針金を手に、開かずの扉の前に戻ってきた。

 開錠を試みる。

 初めてのピッキングは、拍子抜けする程あっさりと成功した。


 真っ暗な部屋。締め切られた窓はカーテンで覆われている。この暗い森の中、部屋を照らす程の光が届くか怪しい所だが。

 電灯のスイッチはすぐ側にあった。穏やかな光が部屋の中を照らす。

 悍ましい光景に響は息を呑んだ。

 棚の上に鎮座するのは首、首、首。人間の生首がずらりと並んでいた。

 これは後藤の言っていた犠牲者の首なのか。しかし、彼はこの部屋を開けたことがないような素振りを見せていたが。

 近付いてみると、その生首が随分と瑞々しい物に思える。少なくとも、長期間放置されたにしては、腐敗した様子が微塵もない。

 作り物なのか? 響は恐る恐る手を伸ばす。あと一歩で手が触れる。その時だった。

「……して……れ」

 閉じられた瞳がゆっくりと開く。死者の首の口が開いた。

「出してくれ! 此処から出してくれ!」

 生首が叫び出す。鬼気迫る表情で、繰り返し同じ言葉を吐き出し続ける。

 その叫びに反応して、部屋中の生首が声を上げ始めた。一様に此処から出せと喚きたてている。

 生きている生首。しかし、響の呼びかけには反応しない。恐怖と狂気に支配された瞳が、唯々助けを求めてぎらついていた。

 いい加減気味が悪い。響は部屋を後にしようとすると、ふいに声を掛けられた。

「其処の人間」

 生首達の輪唱の中にあっては異質な、落ち着いた声だった。

 響は声の主を探る。呻く生首の中にあって唯一、理性を湛えた女の首が響を見据えていた。

「どうやって此処に忍び込んだ? 鍵はあの男が手放さずに持ち歩いているはずだが……」

「あんた、話が通じるようだな。こいつらは……いや、あんたらは何なんだ?」

「……あいつから話を聞かされていない、か。ならば迷い込んだ哀れな犠牲者ということか。いいだろう、色々と教えてやる。その前に……この部屋から出してくれ。イカれてしまった同胞の声が五月蠅くて、落ち着いて話も出来ん」


 物静かな客間。聞こえてくるのは時計の針の音だけだ。

 気味悪そうにしながらも、響は空かずの部屋から持ち出した女の生首を机に置く。

「漸く落ち着けるな。さて、質問に答えてやろう。何から知りたい?」

「……まずはあんたらについてだ。何で首切られても生きていられる?」

 生首はカラカラと笑う。

「死んでるさ。外面はな。この首は我々を捕らえておく為の虫籠だ」

「虫籠? あんたら、もしかして人に憑りつく妖虫って奴か?」

「御名答。若そうなのに中々博識だ」

「この日記に色々書かれていた。閉じ込められているって事はお前らがこの館の主ではないって事か?」

「その通り。嘗ては此処を拠点に活動していたのだが、乗っ取られた。奴隷共の支配権まで奪われるとは思ってもいなかったよ」

「誰に?」

「元宿主さ。確か名前は後藤和水と言ったか?」

 響の瞳が驚愕に見開く。

「あの男に憑りついて色々実験をしていたんだがな。精神が壊れたので別の人間に……今のこの首の持ち主に憑りついた。ところがだ。あの男は壊れたままの状態で私の居場所を突き止め上げた。奴に憑りついていた時に与えた知識を逆に利用され、この有様という訳だ」

「復讐されたのか? 自業自得で同情できないがな」

「復讐……復讐か。残念ながらそれは違う。あの男は私を崇拝していた。精神が壊れていく度に人外の知識を与える私を神の如く崇め始めたんだ。だが、残念ながら私は神ではない。与えられる知識にも限界がある。奴に全ての知識を与えてなお、未知なる情報を私に求め続けた。知識というのは麻薬だな。薬漬けになり果てた男はもう私の支配下に納まらなかった。故にこの狂人を見捨てた訳だが……私は人間の狂気を甘く見すぎていたらしい。奴は私がまた新たな智慧を与えてくれると信じて手元に置いているようだが、本当にネタ切れだ。黙っているより他に何ができる?」

「……お前、其処から出られないのか?」

「あの男の執念には驚愕するよ。私を手元に置いておく為だけに、与えられた知識を駆使してこんな虫籠を独学で作り上げたんだ」

「……一応、其処の日記に虫除けの魔術が記されているんだが」

 日記を開いて生首の前に持っていく。

「……ああ、これか。この魔術なら私も心得があるよ。何度も試したさ。まさか自分に対してこの魔術を使う羽目になるとは思ってもいなかったが……見ての通りだ。それより人間。君は如何する?」

「如何するって……」

「捕らわれているのは君とて同じだろう。この日記に書いてある事は紛れもない真実だ。此処から出るには鍵となる存在を排除しなくてはならない。君、あの狂人を……同族たる人間を殺せるかな?」

 沈黙。響の心臓が嫌悪感で早鐘を打つ。

「あの男は私に執着しているが、それでも新たな知識の開拓は忘れていない。私の同胞達を見ただろう? あの男に誘い込まれて捕らわれた哀れな連中の末路を。精神を崩壊させる側だったはずが、逆に人間によって捕らえられて心を壊された連中の惨めな姿を。奴が生き続ける限り我々も、そして虫籠の材料となる人間も危害に曝され続ける事になる。最も、虫籠となる僅かな犠牲だけで大勢の人間を我々の被害から救えると考えるならば話は別だがね」

「……それしか此処から出る手段はないんだな?」

「覚悟を決めたようだな。以前の私ならば同族殺しの嫌悪に震える様を嬉々として眺めていたのだろうな。だが、今は同情を感じているよ。私も自身の生み出した怪物の御蔭で随分と同胞に害をなした。正直反省をしている。故にだ……君の罪悪感、嫌悪感を多少ではあるが取り除く方法を教えよう。それは……」


 広々とした地下室を、雅は丹念に見て回る。

 怪しげな実験室があった。得体のしれない資料室があった。腐敗していない奇妙な生首が保管された部屋があった。

 そして最後の一室。

 足を踏み入れると、夥しい血痕が空虚な部屋の彼方此方に見て取れる。

 雅が部屋を散策している中、後藤は扉の鍵を閉めた。

 部屋の隅に放置してあった布に包まれた物体を手に取る。

 雅に気付かれないように布を外す。柄に五芒星をあしらった剣が姿を現した。

 無防備に背中を向ける雅の首に対して後藤は狙いを定める。

「……後藤様。一応警告しておきます。剣を離してすぐに此処での凶行を止めてください」

 突如の警告に、後藤の手が止まった。

「……驚いたな。私が怪しいと気付いていたのか」

 振り返る雅。其処に恐怖も嫌悪も微塵もない。無機質な瞳を後藤に向けながら無防備に佇んでいる。

「それがメギドの剣ですか……何か不思議な力を感じます」

「うん。それに斬れ味も凄くてね。何度も使ってみたんだけど、まるで空気を斬っているような感じだよ」

「興味深いです。私も武士の端くれ。名刀の類には縁がありませんが、やはり気になります」

 穏やかな微笑。この屠殺場にてそのようなものを向けられたことのない後藤は些か困惑していた。

「……何時から気付いていたんだ?」

「初めから警戒はしていました。日記を眺めていて疑惑が深まった感じです」

「私が偽造したとでも? あの日記は本物だよ?」

「本物だから利用したのでしょう? あの日誌には犯人が虫だという情報と貴方が迷い込んだ人間だという記載しか載っていません。それを見せれば、貴方が迷い込んだ犠牲者……味方だと印象付ける事が出来ますから。虫を犯人だと決め付けていたホプキンス氏の不意を突くのはさぞ容易だった事でしょう」

 後藤は照れ隠しのように頬を掻く。

「そんなに怪しかったかい?」

「あの日記を読んだだけではあくまで疑念を抱く程度でした。確信を得たのはまるで使用された形跡のない厨を覗いた時です。一人で向かってはならない地下室で、貴方は如何にして首を確認できたのでしょうか? 犠牲者となった方々の首から下は何処へ? 何より……貴方は三年の間、何を食して生き永らえてきたのですか?」

 後藤の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。

「雅くん。君は随分察しが良いようだ」

 不意打ち気味に放たれる横薙ぎの一閃。雅の首を狙ったそれは、何ら抵抗もなく振り斬られる。

 雅の首が落ちる……はずだった。

 僅か半歩。たったそれだけの後退。刃が首をギリギリ掠めない程度の精緻な見切り。

 体勢を崩す後藤。その無防備な鳩尾に、雅の拳が鋭く、そして正確に叩き込まれた。

 水月から拳に伝わるゴムのような弾力。

 驚きはない。即座に後方に飛び退る。

 人体の急所を突かれたのにも拘らず、後藤に堪えた様子はない。

「後藤様。偏食は如何なものかと。肉だけでなく野菜も取るべきです。偏った食生活をしているから身体に変調をきたすのですよ」

「そうは言うけど、この館では肉くらいしか捕れないんだよねえ」

「森があるでしょうに。探せば果実の一つや二つ、見つかるのでは?」

「館を無人にする訳にもいかないしなあ」

「出不精ですね。外で運動するのも身体に良いですよ? 鍵をしっかり掛ければ大丈夫でしょうに」

 命の取り合いを行っている最中としては余りにも異質な和やかな空気。

 そんな遣り取りの中、後藤は冷静に思案していた。

 こちらには武器がある。体格もリーチも圧倒的に有利だ。

 相手は相変わらず無防備に見える。だというのに、後藤の脳裏には首を刈れるビジョンが全く浮かんでこない。

 先ほどの身のこなし。無駄な動きを一切省いた殺意に満ち満ちた一撃。効果が無いと見るや否や即座に距離を取る判断力。

 正直、何故自分があの拳を受けて全く堪えていないのか、後藤には見当もつかない。

 だが、今重要なのは如何にして雅を首が刈れる状況に追い込むかだ。

 一方、雅も現状で打つ手が無かった。

 相手は戦闘に関しては素人だ。あの凶刃を回避し続けるのはそれほど難しい事ではない。

 問題なのは、半分食屍鬼化している後藤に対して肉弾戦は効果が薄い事だ。

 如何な一撃を放っても、あのゴムのよう肌に吸収されてしまう。

 元より体格と筋力に大きく劣る雅にとって、急所狙いの攻撃すら効果が薄いとなると手の打ちようがない。

 何か武器が必要だが、この部屋には何も無い。外に出て探そうにも、鍵は後藤が保有したまま。

 両者が攻め倦むこの状況。それを打ち破ったのは第三者の乱入だった。

 扉が勢いよく吹飛ばされる。

 舞い落ちる埃の中、それは姿を現した。

 太い枝のような腕。地面に突き刺さる根のような脚。のっぺらぼうな顔には牙の生えた裂けた口。

 館を取り囲んでいたはずの妖樹の一匹だった。

 後藤の瞳が驚愕に見開かれる。

 一瞬の隙。

 それを逃すまいと突撃してきた妖樹の突進を真面に食らって壁に叩き付けられる。

 地面を転がるメギドの剣。それを気にする余裕は、今の後藤からは消え去っていた。

 妖樹と共に部屋に入ってきた人影に、後藤は釘付けになる。

「見つけたぜ、元凶野郎」

 宮部響が其処にいた。明確な敵意を後藤に向けている。

「手前をやらなきゃ帰れないんだ。悪く思うな」

 後藤との間。妖樹が響を守るように立塞がっている。

 妖虫から教えられた妖樹を支配する魔術の効果だった。

 妖樹に後藤を殺させる。さすれば、響の手が血で染まる事はない。妖虫はそう言った。

 詭弁だ。殺す指示は響が出すのだ。妖樹は武器。それを振るうのは響だ。ならば、自分が殺した事にはならないなど、戯言に他ならない。

 だが、後藤が如何なる抵抗を見せるか分からない以上、この魔術は確かに有用だ。怪物を己が配下に置く事が出来るのだから、戦力としては申し分ない。

 館の外に出て、室内を歩き回れる程度の大きさの個体に対し魔術を行使する。後藤の支配から解き放たれた妖樹。犠牲者を館に追い込み、逃がさぬよう命令されているというホプキンスの推測は正しかった。新たな命令に従った妖樹は、他の妖樹が躊躇するのを気にせず、いともあっさりと門を越えて館の庭に侵入してきた。

 心強い味方を得た響は後藤と共に地下に潜った雅を救うべく、すぐさま地下室へと駆け付けたのであった。

 壁に叩き付けられていた後藤が立ち上がる。

 しかし、様子がおかしい。呆然とした顔で妖樹を……そして響に向けている。

 突如、後藤の感情が爆発した。

「何故です……何故ですか、神よ! 何故こんな小娘に知恵を与えたのです! 何故私にではなく、こんな小娘に! 私を……私を見捨てたのですか!」

 天を仰ぎ慟哭する狂人。その狂態に気圧され、立ち竦む響。

「神よ! 私を見捨てないでください! またあの時のように私と一つとなって、偉大なる啓示を与えてください! 神よ……神よ! 神……」

 嘆願の声は続かない。

 後藤の首が地に落ちた。

 屠殺場の床を、新たな血が染めていく。

「隙だらけです」

 倒れ伏した後藤の肢体を見下ろしながら、メギドの剣を手にした雅が呟いた。


「ああ。上手くいったようだな」

 客間。机に備えられた生首が響と雅を出迎えた。

 一緒に入ってきた妖樹は、生首を見て警戒の色を見せている。散々奴隷として扱き使われたのだろう。嘗ての主人に対して恨み骨髄に徹しているようだ。

「そっちの娘は?」

「同じく迷い人。あと、こいつは男。後藤に止めを刺したのもこいつだ」

「ふむ。礼を言うべきだろうね。ありがとう。ついでにもう一つ、頼み事を聞いてくれないか?」

「何だよ」

「私を……否、我々を処分してくれ」

 思ってもいなかった言葉に響は困惑する。

「言っただろう? この虫籠からは出られないと。奴がくたばってもそれは変わらないようだ」

 響は躊躇した。

 この妖虫が人類の敵だという事は理解している。この事態を招いた元凶だとも。

 それでも。響は此処からの脱出に尽力してくれた相手を殺す気にはなれなかった。

「……ここを死に場所と定めたのですね?」

 穏やかな鈴の音。吸い込まれるような黒い双眸が生首を見つめている。

「響様。後始末は私が。こういった事には慣れています故」

「……お前、本当にそれでいいのか? まだ絶対に抜け出せないと決まったわけじゃないだろう?」

 生首は苦笑する。人類の怨敵を相手に、何とも慈悲深い言葉だと。

「このまま生恥をさらし続けたくはなし……何より生きるのに疲れた。同胞達は狂ってしまって再起不能。その責任を取る意味合いもある」

「だけどさ」

「……自由を奪われて久しい身だ。自分の生き死にくらい自由にさせてくれ。何、気にする事はない。お前達にとっては虫を踏み潰すようなものだ。罪悪感など抱く必要が何処にある?」

 妖虫の意志は固いようだ。説得は出来ない。

「霧が出てきたな。霧の深い場所へと森の中を進んで行け。そうすればこの世界から出る事が出来る」

 響は肩を落としながらも了承する。

 客間を後にする響を見送り、生首は溜息をついた。

「はあ。これがこの星の征服を目指した我々の末路とはな……諸行無常。雅とか言ったか。介錯を頼む」

「任されました」


 荒れ果てた庭を薄い霧が包んでいた。

 館を振り返る。

 得るものも失うものもあった。

 響の心は晴れなかったが、これもまた怪異と付き合うという事なのだろう。

 門の外は静まり返っていた。

 あれだけ群がっていた妖樹達の姿はない。

 後藤の支配が解けて、森の中に帰ったのだろうか。

 彼女に言われた通り、霧の深い方へと歩みを進めていく。

 視界が白く染まる。響の肢体に霧が纏わり付いていく。

 やがて……。


 溜池をなぞる夜風が湿った空気を運んでくる。

 色鮮やかだった縁取りの花々も、今は花弁を閉じて微睡みを楽しんでいた。

 月明かりが地を照らすいさぬき公園。

 響は元の世界の戻っていた。

 途端、携帯に連絡が入る。妃からだ。

『あっ! 繋がりましたわ! 響さん御無事で?』

「ああ。お前は今何処に?」

『まだ公園ですわ! 皆であなたを探していたんです! もう、何処に行っていたんですの? 連絡も全然つながらなくて心配したんですのよ?』

「あ~。悪い。怪異に巻き込まれていた」

『まあ! こんなに皆を心配させたのです。御土産話はたんと弾んでもらいますわ! それで、今何処に?』

「公園の溜池。悪いが訳あって迂闊に動けない。こっちに来てくれないか?」

『承知しましたわ!』

 電話が切れる。

 さて、どうしたものか。

 響は側に佇むそれを見つめて考える。

 妖樹が一体其処に居た。支配の魔術が掛かっているとはいえ、館を後にする響の跡を律儀にも付いてきたのである。

 目や耳が無いのにも拘らず、その頭は初めて訪れた場所を見渡すかのように、キョロキョロと興味深そうに蠢いている。

 夜の公園は人気が無いとはいえ、流石にこれを大々的に連れ歩くわけにもいかない。

 異世界からの闖入者の楽しげな様子に、響は頭を抱えるのだった。

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