3話
翌日、7時頃に目を覚ますと、窓から朝日が差していた。
朝日?と思いながらベランダに出ると、
東の方向のドームの一部が広く光っている。
時間の景色も、この月では人工なのだな、と1人ごちる。
そういえば昨夜は風呂に入らなかったな、と思いシャワールームを覗く。
中にはon、off のスイッチがあるだけで、シャワーヘッドもない。
シャワールーム、とは…?
使い方もわからないものは仕方がない。
釈然としない気持ちのまま、電気ケトルを仕掛けて昨日のうちに買っていた菓子パンを齧る。ご丁寧に冷蔵庫の中には2lペットボトルの水が二本備え付けてあったので、それでお湯を沸かしているが、なくなったら流石に補充は自分で、という感じなのだろうか。
念の為菓子パンと一緒に二本水を買ってきていたので冷蔵庫は水でパンパンになってしまっている。
お湯が湧いたのでスティックのコーヒーをマグカップに入れて、お湯を注ぐ。
淹れたコーヒーを持ってもう一度ベランダに出る。
昨日は終わりがない、と思った田園風景の先には、確かにドームの壁らしき「終わり」が見て取れる。
狭い空間に作られた箱庭のような楽天地。何というのだったか、中国の故事でそのようなものがあった気がするのだが。
そんなことを考えているうちに飲み終わっていたコーヒーカップを洗おうと、室内に戻りシンクに立つ。
蛇口、というよりシャワーヘッドに近い。横にプッシュボタンがある。恐る恐る押すと、プシュッと強めの音が聞こえる。水は出ない。
もう一度手のひらを添えて試す。少し水を含んだ強い風が手に当たる。つまり、ものすごく水分の少ないミストシャワーみたいな感じか。
もう一度コーヒーカップをあてがいながらボタンを押す。風圧と少ない水分でコーヒーの汚れは驚くほどすぐ落ちた。
カップの方も汚れが付着しにくい素材なのかもしれない。
同じく備え付けてあったダスターでカップを拭き終えた頃にインターホンが鳴る。ドアを開けると職場の先輩、橋野氏が立っていた。
「おはようございます。よく眠れましたか。」
「はぁ。」
「出られそうですか?」
「あ、はい。大丈夫です。」
昨日玄関においたままのボディバッグを肩がけにすると靴を履く。
職場までの移動は徒歩らしい。
「自転車は買えますよ。ステーション前に自転車屋さんがあります。」
並んであるきながら橋野氏が言う。昨日考古学者の澤口氏が言っていたとおり、バイクや車という選択肢はやはりないらしい。
しかし、まだ給料も入っていない現状、買うとなると少し勇気がいる。
「他になにか困ったことはありましたか?」
橋野氏に聞かれ、やはり今朝のシャワールームの事が頭に浮かぶ。
「その、お風呂の入り方がわからず。」
なにせシャワーヘッドもなかった、という話をすると、
「ああ、陸からはじめて上がってきたらたしかにわかりませんね。スイッチがついていたでしょう。あそこを押すと壁の穴からエアミストが出ます。先に体を液体石鹸で洗って、それをそのエアミストで洗い流す感じですね。」
SF漫画で見たことがある気がする。そういえばシンクの蛇口もエアミストだった。
「基地が開いてすぐはそのミストシャワーもありませんでしたよ。昔の宇宙ステーションでも風呂は入れてたぞ、と苦情をいれた人のおかげですね。」
「月に水がないから、ですか?」
考えてみれば当たり前の話のような気もしてきた。月で地球と同じように水が使えるわけがない。
昨日澤口氏がストレートの酒ばかりを飲んでいたのも、水が貴重だったからなのかもしれない。
「ない、わけではないですが。月でも氷の埋没資源なんか見つかっていたりもしますから。しかしながら、やはり水は貴重なので。たっぷり湯船にお湯を張った風呂やら、シャワーやらの贅沢はできませんね。まあ、月に一回は陸に戻りますから。」
橋野氏はフフ、と笑う。
「地上に戻ったらね、私絶対に銭湯いくんですよ。たっぷりのシャワーで頭を洗ってね。広いお風呂に浸かって。自分がなんだかお大尽になった気がするもんです。」
その他、諸々の雑談をしているうちに、
橋野氏がふと顔を上げる。
「おや、もうつきましたね。」
目の前には工場然とした建物が見える。
ここが、今後の自分の職場、ということだろうか。
更衣室に案内され、作業着に着替える。
着替えて出てきた先は、工場、と言おうか。
広いスペースにエリアごとにところ狭しと外部活動装備、俗に言う宇宙服が並べられ、人の立つ場所はむしろ一人分くらいか。
外部活動装備と呼ばれるスーツは思っていたよりスマートだった。
子供の頃に見た宇宙飛行士、その宇宙服のイメージからすると、かなり動きやすそうに見える。
というか、自分の中にあるイメージがそんな昔のものであること、その自分の不勉強が恥ずかしい気がした。
「では、仕事の手順をやっていきますね。大丈夫、作業自体は単純です。」
そう言って橋野氏は、「確認」と書かれたエリアに立ち、足元のコンプレッサーから伸びた管を、背中の穴に差し込む。
「外装を触ったこと自体初めてですよね?この穴にエアーポッドから出るコードを差込むんです。」
酸素ボンベ的なものを接続する穴、という認識か。
橋野氏は、コンプレッサーの電源を入れる前に、スーツの腕、足、胴体部分になにか小さな機械を取り付ける。
「圧力モニターです。」
そう説明すると、コンプレッサーのスイッチを入れる。
スーツは少し膨らみ、一定のところで止まる。
「はい、オッケーです。この外装は良品のエリアに。この一巡をを繰り返していってください。エラーがあればエラー音が出ますので、その際にまたお声がけください。」
橋野氏は、コンプレッサーのノズルと圧力モニターを外し、こちらに渡す。
言われたままに、次のスーツに先程橋野氏がやったようにノズルとモニターを付け、スイッチを入れる。
これだけ?という判然としない気持ちを抱えながら繰り返すうちに、エラー音がなる。
「あ、エラー出ましたね。」
エラー音を聞いて橋野氏が来る。
「エラーが出たモニターの近くを確認してください。」
言われて、顔を近づけると、微かに空気の漏れたような風が当たる。
その先を見ると、小さな穴が見つかる。
「穴が。」
「空いてましたか。」
橋野氏は自分の言葉に返しながら、マスキングテープを持ってきて穴にバッテンを貼る。
補修…?
「これで、返送のエリアに持っていってください。ちなみに、穴も見つからなかったら、そこの付箋に要確認と書いて、このマスキングテープで貼り付けて同じところに。」
「えっと、」
「ここでやるのは、確認と選別です。修理補修は地上の工場でやります。なんせ、命を預かるものなので、ちゃんとした設備でやらないことには。」
なるほど、と思うと同時に拍子抜けする。
「午前中はこの作業を繰り返しです。」
そう言われ、確認コーナーにズラリと並ぶスーツを眺める。
「これを、午前中ですか?」
少しげんなりする。
「あのBの紙が貼って有るまでが1週間分ですね。焦るより、確実に一つずつお願いします。間違うと人が死にますからね。」
サラリと怖いことを言われてしまった。
気を引き締めつつ、次のスーツに取り掛かる。
昼食は配達のお弁当が来て、それを食べた。
「頼む際は、出社時に電話を入れてください。依頼している業者さんが用意してくれますので。」
今日は橋野氏が頼んでおいてくれた、ということらしい。
ご飯におかず、玉ねぎの和え物に、インスタントのスープがついている。なんだか、昭和の町工場のようだ。
「献立も貼ってますのでそちらも参考に。サンドイッチボックスの日もあったりしますよ。」
あらシャレオツ。
ともあれ、献立を見ながら、何があり、何がないのか、昨夜の澤口氏との会話を思い返すのも悪くないかもしれない。
「たしか、柴田さんはエンジニアでしたね。」
「エンジニア、というほどのことかどうか。前職がコンプレッサーの補修とかを細々やってる小さな会社だったんで。」
「とはいえ、拍子抜けしたでしょう。修理なし。」
「はぁ、まあ、正直。」
溶接は自信が無いながらもやらなきゃいけないのかなぁ、と思っていたし、少なくともハンダ付けぐらいはすると思っていた。
「昔はね、ここで補修も多少してたんですよ。穴の空いた部分にレジンで補修したりとか。でもまぁ、どこまでもヒューマンエラーは出るものなので。とはいえ全設備月に持ってくるだけのコストもかけられない。」
確かに。圧力チェックも、空気穴の点検も最新の技術を使えば人力を経ずにできるだろうが、コスト面を考えるとそうだろう。
「チェックと選別に関しては、月に一人おいといてその分のコストを払うほうが現実的だって話ですね。」
橋野氏の言葉にふと違和感を覚えたところで、
「再開しましょうか。」
橋野氏の言葉で、午後の業務が始まった。
午後からは、先程チェックしたスーツの梱包だった。エラーが出たスーツを、一定のたたみ方はあるものの、基本的にはダンボールのカートンに2着ずつ詰めていく作業に特別なことは何もなかった。
できたカートンを、エラー分と書かれたかご台車に積み終わると、次は良品分。
また、一定のたたみ方で畳み、良品と書かれたかご車に積んでいく。
「あ、ちなみにここで積み間違えるとまた一人死にます。良品と返送の作業は必ず別々で行ってください。」
また怖いことを言われる。
積み終わったかご車はちょうど一台ずつ。
良品の台車を押しながら、工場を出て、「壁」の方に向かう。壁際のゲートの下に、プレハブ状の建物。
中に入ると、沢山のかご車が並んでいる。エアーポッド、飲料水、レーションなどなど様々なモノが山積みになっている中に、持ってきたかご車を納める。
橋野氏は、ぶら下がっているボードにサインをする。
「このサインで納品です。明日の朝イチに外部活動の責任者が確認してくれますので。」
「はぁ。」
担当者不在でメモでやり取りとは。
橋野氏と工場に戻り、次は返送のかご車、と押そうとすると、
「こちらは、返送なのでステーションに持っていきますが、帰り際に寄る感じですね。もういい時間ですし、先に着替えちゃってください。」
「はぁ。」
着替えながら思う。なんというか、ゆるい。
かなりの高給を貰う以上、かなりハードな仕事が待っていると思っていたのだが。
工場の電気を落とすと、
同じく着替え終わった橋野氏と一緒に返送のかご車を押し、ステーションに向かう。
返送用エリアの看板が貼ってあるプレハブに入ると、またかご車が並んでいる。
橋野氏は、ぶら下がっているボードにまたサインをすると、
「これで、一日の業務は終了です。」
と、こちらに向き治る。
「お疲れ様でした。」
「あ、お疲れ様でした。」
言われて慌てて挨拶を返す。
「ご飯でも食べにいきますか。」
そう言われて、一瞬迷ったものの断る理由も無い。
二人でウロウロと歩いた結果、定食屋に入ることになった。
オニオンスライスの添えられたとんかつ定食を頼み、橋野氏はコロッケ定食を頼んでいた。
「基本の流れは今日と一緒です。あと、一週間に一回荷受けがありますが、その時にまた説明します。」
「はぁ。」
「まあ、なんでも聞いてください。いるうちにお答えできることはしますので。」
やはり、と、昼食の時の違和感が確信に変わる。
「僕は、橋野さんとの交代要因なんですね。」
一人分のコスト、と言われた時にもおもったことだった。
「はい。私は来週いっぱいで地上に降りる予定です。定年ってやつですね。」
「ずっと、月のお勤めだったんですか。」
「入社18年地上にいて、そこからはずっと月ですね。」
橋野氏はコロッケを口に入れながら、目を閉じる。そして、ふと笑う。
「私が月に来たのは20年前で。一般職開放の第一陣だったんですよ。単身赴任でね。今よりも水も電気もなくて、人もいなくて。食べ物もレーションでね。それが20年でこんな地上と変わらないものが食べられて、変わらない景色になるとは。」
橋野氏は、箸を置いてこちらを見る。
「私が来たときも、ステーションを降りてそりゃあびっくりしました。ビルはまだなかったですが、実験用の田園地帯は広がっていましたから。いつの間に瓢箪の中に落ちたのやら、と思ったもんです。」
橋野氏の言葉に、やっと朝思い出せなかった故事を思い出す。
「壺中天。」
酒ツボの中に落ちると、小さな桃源郷が広がっている、という古い話。
「ご存知でしたか。月一回、地上に戻るときは、本当に桃源郷から現実に戻される気持ちでしたね。まあでも、もうね、」
そこで橋野氏は少し言葉を飲み込む。
「ともあれ、あと2週間、よろしくお願いします。」
「はい、よろしくお願いします。」
橋野氏の言葉にできるだけ真っ直ぐに答える。
橋野氏が飲み込んだ言葉を追求するのも野暮な気がしたから、そこを考えるのは止めた。
ご飯を食べ終わって解散すると、どっと体に疲れが来た。
部屋に帰って、風呂に入って、と考えたところで、未体験のミストシャワーを思い出す。
どんなもんなんだろうな、と少し不安を抱えて、2日目の帰途についた。