9話
「ほんっとにさ、クソみてえな場所だよ、月なんて。あんたもそう思うだろう?」
そう言って、隣の男はこちらの肩に肘を置く。
いつものbar cancer。本日初対面の隣の男性は、ソーラーパネルの整備員だと言う。
さっきからこの距離感で管を巻かれている。距離感の近さは、慣れた誰かと同じようでいて、なんだか違う。
この不快感の正体はなんだろう。男女の違いではなかろうな、とは思うのだが。
「なあ、聞いてんの?」
顔近え。
「1円も賭けんな、女口説くな、あれすんなこれすんな、ほんっとにほんっとにやってらんねぇ、ってあんたも思わねえか、っつってんの!」
唾飛んでる、唾。
なんで今日こんなことになってんだったか。
隣の男性の言葉を半ば聞き流しながら、今日の事を振り返る。
そう、今日は橋野さんが地上に降りる日で、午前中で仕事を切り上げ、ステーションまで橋野さんを見送りに行った。
ステーション入ってすぐのベンチに二人で座り、売店で買ったコーヒーに口をつける。
「もう、柴田さんは一人で充分にやって行けてますので、仕事に関しては引き継ぎ完了の太鼓判を押しますよ。」
橋野氏はそう言って笑う。
実際最後の3日間ほどは橋野氏は仕事に手を付けず、監督に専念していた。
実際聞かねばならないことや確認が必要なことはほぼなくなっていたのだが、
「とは言え、やっていけるかどうか。」
ふと、考えていた不安が口から溢れる。
仕事はともかく、今まで二人で作業していた時間や、お昼休みが一人きりになる、と考えると、言いしれぬ不安にかられる。
「大丈夫ですよ。柴田さんは月に来てすぐにも関わらず沢山のお友達もいるようですし。」
橋野さんは、ハハハと笑う。
「柴田さんが楽しそうに過ごしているようで、安心していますよ。…私もね、肩抱き合って酒を酌み交わすような、そういう仲間もそこそこいたんですが、大分先に地上に降りました。」
橋野氏はそう言って、少し遠い目をする。
「ハハ、まあ、だからこの数週間は一緒にお仕事が出来て楽しかったですよ。ありがとう、柴田さん。」
橋野氏はこちらに向かって手を差し出す。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
そう言ってその手を握り返した頃に、アナウンスが響く。
「そろそろみたいですね。ああ、そうだ。これ、渡しときます。」
手を離した橋野氏はメモ用紙をこちらに手渡す。
「うちの電話番号と住所です。次に地上に降りて来たときにでも、気が向いたらまた遊びに来てください。女房と一緒に料理用意して待ってますよ。」
橋野氏の言葉が嬉しく、メモを見ながら頷く。
発着場までの見送りはできないらしく、改札前で橋野氏の背中を送る。
その背中が見えなくなった頃、
『肩を抱き合って酒を酌み交わすような、』
その言葉が頭をよぎる。
玲奈さん、今日も来るだろうか。
会いたい、とそう思った。
今日もcancerへ行こう、そう決めた。
で、今に至るわけで。
来てみると玲奈さんではなく、この男性がいて、なんとなく飲み始めたら絡まれはじめ、という次第。
確かに肩に手を置かれて酒を飲んでいるものの、思ってたんと違う感がすごい。
名前、なんだっけ、聞いた気がするけれど忘れちゃった。
「林くん、次、どうする?」
マスターが声をかける。
そうだ、林さんだ。
「おかわり、ちょうだいよ。」
「そろそろ酔っ払いモードだけど。」
「いいからちょうだいよ。」
肩に置いていた手を離し、グラスをドンとマスターの前に置く林氏。
マスターは、仕方なくそのグラスを受け取る。
「わかる?徹底的に監視されて管理されてるわけよ、ここでは。ゾッとするだろ。」
距離が離れたのでやっと林氏の言っていることが頭に入りはじめる。
そして、条例文の“女性滞在者の項目”を思い出す。
「たしかに、そうかもしれないです。」
ポツリと、こぼす。
「おぉ!そう、わかる?お兄さん、島田さんだっけか!」
惜しいな。
「あ、柴田です。いや、確かに、ちょっとしたディストピア小説か、って思っちゃいました。この間俺も。」
「わかるか、今田!そう、そうなんだよ!」
まさしく肩を抱かれてしまう。そして距離は近くなったものの名前は遠くなった。もういいか、訂正しなくて。
「女抱くのも、ギャンブルすんのも男の本能みたいなもんなんだよ。全部封じられちゃってさ、俺ら男だけなんでこんな我慢しなきゃなんねえのってな、ほんっとに思うよな!今田!」
「え?」
思わず声がでた。
「どうしたんだよ。」
「俺ら男が、我慢を強いられてるんですか?」
「ずっとその話をしてたんだけれども?セックスくらい好きにさせてくれって話で。」
はあ?とでも言いたげな林氏。
「でも、そこで被害を被るのは女の人ですよね?俺らは、月一回の妊娠検査を受けることはないし、妊娠が発覚した途端仕事を失うこともない。
しかも、シャワールームみたいな施設まで用意されてる。むしろ、男に対してすごい甘い環境な気がしてるんですが。」
言っている途中で、空気が凍っていた事には言い終わってから気がついた。
「えっと、」
「全部いえば?」
林氏は半ば喧嘩腰。あれ、そんなにまずいこと言ったかしら。
「まあ、なんというか、つまり、相手が大事だから簡単にセックスをしないって言うそれであって、マナーであってルールでないというか、女の人側の意思によるものだろう、というのか。」
最後の一言で更に空気が張り詰める。
あれれれ?
「オンナが俺にヤラせないのは、俺に問題があるからだって言いたいわけ?」
そう、なるのか?いや、なんか違う。
「いや、その、セックスがしたい人のためにシャワールームもあるわけで」
「そんなもんは本当のセックスじゃねえから言ってんだろ!」
怒鳴られちゃった。
「なあ、今田、お前童貞?」
なんか話題が変わったのかしら。
「では、ないです。」
俺は、の話であるが。今田の事は知らない。
「でも、そんな経験ねえだろ、童貞臭抜けきってねえもんな。金払ってオンナとセックスしたってそんなもん気持ちよくねえんだよ。オンナっつったって口説けるオンナはフーゾクのオンナしか出会えないんだからさ、月じゃ。フーゾクのオンナ口説くしかねぇけど、だったら金払えば?っていうお前のクソ童貞臭え意見な?」
ふと、引っ掛かりを覚えるのと同時に、林氏と玲奈さんの違いがわかった気がした。
林氏は自分の事を誇示するために距離を近づけているが、玲奈さんはいつも、距離を近づけながら相手のことを見ているのだ。
「林くん、そろそろ、」
「確かに、そんなに経験ないんです。」
マスターの言葉を遮る形になってしまった。でも気になったことと、聞き流せない事があった。
「ので、わからないのかもしれないんですけど、林さんの言う口説く、はセックスをお願いするってことなんですか?」
「そうだよ。」
カミ気味に林氏が被せる。
「だったら、相手のリスクを一緒に背負わないとフェアじゃないと思うんですけど、経験人数が多くなると、そのリスクを複数背負ってまでセックスがしたくなるもんなんですか?もしくはそのリスクが見えなくなるほど。」
林氏の言葉が詰まる。
「それはもう別の症状だからカウンセラーに相談ですね。」
マスターが口を挟む。
林氏が口を挟む前にどうしても聞きたいことがあった。
「フーゾクのオンナ、って言ってましたけど、もしかして、下に見ています?シャワールームの人を。」
玲奈さんのことを。
「かぐや姫は、尊敬されている、って聞いてたんですけど、そうでもない人もやっぱりいるんですよね。というか、皆、本音はそちらなんでしょうか。本当は、大事にしてなんてないんでしょうか、彼女たちのことを。」
質問に対して、机をドンと叩く音が返答として帰ってきた。
「うっせぇ、黙れよクソ童貞が!」
あ、一応返答も帰ってきた。
でも、質問に対する返答はない。
「林くん、おかわり、出来たけど。」
「いらねぇよ、そんなもん、勘定、いくらだよ!」
荒ぶる言葉を吐き出しながら、林氏はお金を叩きつけるように置いて出ていった。
少し、静寂が店を支配する。
「林くんね、玲奈ちゃん目当てのお客さんで。」
携帯をポチポチといじりながら、マスターがぽそりとこぼす。
「シャワールームの女の子にプライベートな付き合いを次々頼んで、ストーカーまがいになって、最終誰も引き受ける人間がいなくなって、玲奈ちゃんのところに来て、玲奈ちゃんに付きまとい始めたんですよね。実際、カウンセリングのお世話にもなってて。性依存症の診断も出ちゃってて。ちなみに、カウンセリングで精神不調の診断が出るって、月ではイエローカードの2枚目くらいの話で。」
つまり、
「柴田さんが相手の突かれてものすごく痛いポイントを全部刺し貫いた、ってことですね。」
そういうことですよね。
「なんだか、申し訳無いです。」
頭を下げると、マスターは返事の代わりにこちらの空いたグラスに焼酎を一杯注いでくれた。
「おごります、ヤな役させちゃったお詫びも含めて。正直、そろそろ出禁かどうかってところだったので。」
マスターは林氏が出ていった扉を見つめている。
「彼の言うとおりの部分ももちろんあるんですよ。我々男性も、もちろん管理、監視されています。なぜ彼に一枚目のイエローカードが出ているかと言えば、シャワールームから警察への通報があったからです。」
「でも、ストーカー行為をしちゃえば通報されるの当たり前じゃ。」
マスターは、こちらの言葉に首を振る。
「それより前です。プレイスタイルの問題で、シャワールームから警察へ要注意の情報が行っている。だから、警察はストーカー行為が彼によるものだと即座に特定できたわけです。我々男性も、野放しにされてるわけではない、ですよ。」
マスターの見る扉を、合わせて眺める。
監視されて、管理されていることが、彼にとっては何よりの苦痛だったのだろうか。
「もうそろそろ、本当に限界だったんですよ、彼も。月に馴染めなかった人の最後ら辺は、あんな感じにズタボロです。」
まあ、とマスターはこちらに向きなおる。
「結局は、自分の人となりを試されてる、ってところですか。」
そういうもんか、と思い奢ってもらった焼酎に口をつけていると、オズオズと玲奈さんが入ってきた。
あ、そうか、さっき携帯いじってたの、林さん帰ったこと玲奈さんに連絡してたのか。
「あー、いやぁー。ごめんねー。なんか。」
こちらの顔を見て気まずそうに言う玲奈さん。何故玲奈さんが謝るのだろう。
「いやさ、こっちのトラブルに柴っちまで巻き込んじゃったなぁ、と思って。」
こちらの疑問を察したのか、言葉を続ける玲奈さん。玲奈さんが悪いわけじゃないのに。
「あ!柴っち!ダイジョブだかんね?ほら、シャワールームの女はさ、あの手のメンズの相手もお給料のうちっていうか。ほら、アタシ7年のベテランだし、ああいうのにももう慣れっこっていうかさ。」
こちらの気持ちを察したのか、アハハ、と笑いながら言う玲奈さん。
「お金貰ってるからって嫌なことは嫌って言っていいと思うよ。」
その笑顔がなんだか悲しくて、つい、言う。
玲奈さんは、ふとこちらを見る。
「じゃあ、アタシ、柴っちの胸で泣いちゃうよ?」
「え?あ、うん。俺で良ければ。」
思わぬ発言にびっくりしていると、
「柴っちーーー!気持ち悪かったよーーー!ヤだったーー!!」
抱きしめられ、耳元で泣かれる。いや、泣きマネだこれ。そうやってまだこっちに気を使ってくれているんだな、玲奈さんは。
その様子を見ながら、マスターが口を挟む。
「さっきの柴田さんはカッコよかったよ。貴方は玲奈ちゃんのリスクを一緒に背負えるんですか!ホントに玲奈ちゃんを大事にしてるんですか!!って。」
おおおおおい。
「柴っち?」
顔を離し、そうなの?とこちらを見る玲奈さん。
「いや、盛ってる盛ってる。」
「あれ?そうでした?“彼女”ってあれ全部玲奈ちゃんのことでしょ?」
悪びれずに言うマスター。
「いやいやいやいや、だとしても、俺林さんと玲奈さんの関係知らずに話してましたし。」
「だとしても、なの?」
玲奈さんからも来た。
「まあ、そうなんだけど、」
「柴っちはアタシを大事に思ってくれてるの?」
「それはそうだけど、」
ギュ、とまた玲奈さんに抱きしめられる。数秒、肩に押し付けられ顔が離れ、向き合った頃、玲奈さんはニヒヒ、と笑って、
「アタシも柴っちが大事!」
そう言った。いつもの笑顔だ。
「さ!飲もう飲もう!明日アタシ休みなんだ。」
手を引かれて座ろうとした時に、先程顔を押し付けられた肩が、濡れていることに気がついた。
「玲奈さんのぶん、俺出します。あー、一杯目は。」
でも、気がついたことに気づかれる前に、そう言って座った。
「嬉しーけど、無理すんな、柴っち?あ、じゃあ柴っちの次の一杯アタシ出す!」
「それはどうなんだろ。」
いろいろあるけれど、思うところもたくさんあるけれど、こういう夜がある間は、やっていけるんじゃないだろうか。
「で、俺、本当に林さんの事前情報なんにもなしだったからね。」
「まだ気にしてるー。」
今日も夜が更けていく。




