1話
※オメガバースの世界のお話です
「ベルティーナ、この通りだ。婚約解消してくれ」
男はソファーに座る美女に、恥も外聞もなく深々と頭を下げた。
謝罪を受けている美女は、頸で結んだ男の金の髪が床につきそうな様子を見下ろす。
白い扇で口元を隠しているため表情は分かりにくいが、長いまつ毛で縁取られた漆黒の瞳は明らかに剣呑な空気を醸し出していた。
「それで済むと思ってますの? ジャン皇太子殿下」
真紅のドレスの下で足を組み直す侯爵家令嬢ベルティーナは、ここローザ帝国の皇太子、ジャンの婚約者だ。
18歳の時にそう定められてから2年。
もうすぐ結婚が間近に迫ったこの時に婚約解消――いや、一方的なため婚約者破棄といえる――とは、どのような理由を並べられても到底納得のいくものではない。
それが分かっているからであろう。
宮殿にある小さな応接室で、座ることもなく「申し訳ない!」と謝罪したジャンの頭はどんどん下がっていき。
今では額が膝にくっつきそうになっている。
「つまり貴方はそちらのお嬢さんと番になったと。責任を取るために彼女を皇太子妃にすると。そうおっしゃいますのね?」
応接室の端でビクリと肩を震わせ青い顔をしているのは、淡い水色の髪を肩に流した小柄な女性。父親は男爵だと聞いている。
大人の階段を登ったばかりの彼女の白い頸に、はっきりと噛み跡が残っているのを先ほど見せられた。
アルファとオメガが深い絆で結ばれた証だ。
「許してくれ。彼女は、エレナは僕の運命の番なんだ」
「運命、ですって?」
ベルティーナの声がまた一段、低くなる。
滑らかに背中まで波打つダークブラウンのロングヘアーが、逆立ちそうなほどの怒りが込み上げてきた。
この世界には、男女の他に第二性と呼ばれる3つの性別がある。
人口の大部分を占め、男性が「妊娠させる機能」女性が「妊娠する機能」を持つベータ。
優秀で地位が高く、男女共に「妊娠させる機能」を持つアルファ。
男女共に「妊娠する機能」のある希少種のオメガだ。
中でもアルファとオメガは特別な関係で、アルファがオメガの頸を噛むことによって、心身共に共鳴し合う番契約が成立する。
ジャンはアルファで、番となったエレナはオメガ。
今はベルティーナに遠慮をして二人は距離をとっているが。
物腰柔らかな美形のジャンと可憐で慎ましやかなエレナが並べば、理想的な似合いのカップルだと言えるだろう。
ベルティーナは震える手でバチンッと扇を閉じた。
「わたくしを差し置いて運命ですって!?」
運命の番い。
この世に生まれたその時から、運命の絆で繋がっているというアルファとオメガの関係のことだ。
出会う確率はとても低いが、一度出会ってしまえば、もう2人は離れられなくなるという。
「それもこんなに可愛らしい……っ羨ましい! 妬ましいですわジャン殿下!」
ジャンと同じアルファとして、心から湧き上がるものを全て口から発散する。
室内の調度品が揺れるような凄まじい怒気に、ジャンは改めて頭を下げた。
「本当にすまない! 理性が! 理性が働かなくなった!」
オメガには「発情期」と呼ばれる、アルファを誘惑する特殊なフェロモンを発する時期がある。
発情期のフェロモンにあてられると、アルファの理性は崩れ落ち獣のようにオメガを襲ってしまう。
薬や魔術が受け付けないというような特殊な体質でない限り、医師が処方する抑制剤や魔術師の作る魔術薬で最悪の事態は回避することが出来るはずだが。
社交界が初めてだったという18歳のエレナはジャンと偶然廊下ですれ違った瞬間、皇室御用達の抑制剤すら打ち破るフェロモンを放ったという。
皇太子の言う通り、本当に運命なのだろう。
運悪く周囲には誰もおらず、鍵のかかる休憩室がすぐ側にあった。
さまざまな条件が重なって、2人は本人たちの意思とは関係なく番となってしまったのだ。
ベルティーナは扇が折れそうなほど強く握りしめながらも、紅を乗せた美しい口元を完璧に笑みの形にした。
「運命の番であれば仕方がないのでしょう。ええ。わたくしは祝福しますわ。羨ましいったらないですわ」
どうしてもというのであれば、アルファから番を解消することができる。
しかしオメガの心身に悪影響を与える。その上、アルファは新しく番を作ることが出来るが、オメガは二度と誰とも番うことができなくなる。
罪のないエレナをその境遇にしてしまうのはあまりにも酷だ。
運命の番なら仕方ない。そりゃそっちがいいさ。
(逆の立場なら、わたくしだって……っ! あぁ羨ましい!)
歯軋りしながらも、ベルティーナは婚約解消を受け入れたのだった。
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