前編
二話完結です♪
「すまない。アリスを愛することはできない」
新婚初夜。寝室にやってきた結婚したばかりのアルフレッド様から突然の宣言。驚いていると、私にシーツをぐるぐる巻きつけてうっすら透ける夜着を隠した。
「目の毒だ──俺は他所へ行く」
眉間を寄せたアルフレッド様は、踵を返してさっさと部屋を出て行った。
◇
アルフレッド様は学園時代の先輩。
五年制の王立学園で三つ年上のアルフレッド様は、第一王子のフィリップ殿下の側近。成績優秀、剣術は熊殺しの異名を持つ豪傑。さらに由緒あるクロテット侯爵家の嫡男で、国内有数の資産家。かたや、私は長閑な田舎で酪農を生業とするメイプル男爵家の令嬢。自慢は、最高に美味しいチーズとハム。
私が二年生の時に領地に歴史的な災害が起こり、多額の借金を負った。王立学園を退学するしかなくなった時、クロテット侯爵家からアルフレッド様との婚約と援助を申し入れされる。不思議に思ったけれど、卒業までの費用もすべて支払ってくれるという幸運な縁談に私は迷うことなく頷いた。
ずっと遠くから憧れていた雲の上の存在のアルフレッド様。
二メートル近くある鍛え上げられた体躯。凛々しい眉と意志の強そうな鋭い茶色の瞳、濃紺の髪はいつも後ろに流している。第一王子の信頼も厚く、一緒にいる姿は精悍で本当に格好いい。
婚約者になってから知ったことも沢山ある。
実は甘いものが好きで、甘いものを食べる時に目尻が緩む。いつもは寡黙なのに、勉強を教えてくれる時はすらすら流れるように言葉を話す。褒めるときには、頭をぽんぽんと二回撫でる。背が低い私が話すときは、首を傾けながらさり気なく屈んで耳を傾けてくれた。
アルフレッド様のことを知るたびに、私の気持ちは大きくなっていったのに。
「アルフレッド様は仕方なく私と結婚したのね……」
残された部屋で呟いた言葉は、誰にも届かず消えていく。
アルフレッド様となにもかも釣り合っていないのは知っていたけれど、もう、とっくに恋に落ちていた。引き返すには、遅すぎる。
結婚に浮かれていけれど、アルフレッド様に好きと言われたことは一度もない。ううん、最近は距離を置かれることが増えてきて、好かれていないことを本当は知っていた。
少しでもアルフレッド様の気を引きたくて、露出の少しある装いをすると眉間に皺を寄せる。見つめても目を逸らす。エスコートをする際も最低限触れるだけで、距離が近いと天を仰いで小さな声で我慢と呟いているのも気づいていた。結婚すれば変わるかもしれないと、祈っていたけれど。
「やっぱり、失恋しちゃった……」
ぽろりと流れた涙は、枕を濡らしていった。
◇
初夜から一週間。宣言通り、アルフレッド様は夫婦の寝室に訪れない。淡い期待を捨てきれず、深夜まで起きていたけれど、食事も一緒に取れない状況にため息を吐いた。
「若奥様、天気もいいですし、街へ出掛けませんか?」
「そうね。天気もいいし、行きましょう」
愛されない妻なんて冷遇されると覚悟していたのに、クロテット侯爵家の使用人はとても優しい。早速支度を整えて、街に繰り出す。目的もなく活気にあふれる王都を歩いていると、路地の隙間の看板が目についた。
薬草と水晶の描かれた『魔女のブレンドティー専門店』に入ると、魅惑的な香りが漂う。
「この水晶に手をかざしてごらん」
魔女がぴったりなお茶をブレンドする店だと説明を受けた後、透明な水晶に手をかざす。ぽおっと淡く金色に光りはじめる。ゆらゆらと不規則に揺れる様子は、暖炉の火を思い出して魅入ってしまう。金色の揺めきは桃色に変わり、すう、と光が収まっていった。
「不眠に効くブレンドティーがいいね」
水晶から顔を上げた魔女に告げられる。好きな香りや味を答えると、茶葉や薬草で埋め尽くされた棚から取り出しブレンドしていく。ティーカップにブレンドの終わったばかりのお茶を注ぎ、試飲するように勧められた。
「味はどうだい?」
「優しい味がして、すごくほっとします……」
オレンジとカモミールの優しい香りに癒される。ルイボスとレモンバームの爽やかで落ち着く味に、肩の力が抜けていく。
「気に入ってもらえてよかったよ。これは、おまけだよ」
「ありがとうございます。あの、こちらは?」
ブレンドティーの入った缶と一緒に小さな紙包を渡された。試供品のお茶だろうかと思い、中身を尋ねる。
「惚れ薬の入ったクッキーだよ。不眠の原因は、恋だろう?」
「え?」
「水晶はなんでもお見通しなんだ。好きな相手に食べさせてみるといい。すぐにメロメロになっちまうからね──このことは、秘密にしておいておくれよ」
魔女は赤い唇に人差し指を当てて、にっこり笑った。
とんでもない物を手に入れてしまって、なんだか落ち着かない。これ以上、買い物をする気になれなくて屋敷に戻った。試飲したブレンドティーの効果なのか分からないけれど、欠伸が出てしまう。少しだけ横になろうと、目を閉じた。
◇
目を覚ましたら、ベッドのすぐ横にアルフレッド様がいて驚いた。
「街で倒れたと聞いたが、大丈夫か?」
ただ昼寝をしたつもりが、どうして倒れたことになったのだろう。困惑したまま小首を傾げた。
「……アリス?」
名前を呼ばれて、我に返る。アルフレッド様が指示を出して、お茶の準備を整えていく。その様子を見て、惚れ薬入りのクッキーを食べてもらうチャンスだとひらめいてしまった。
心配してくれているアルフレッド様には申し訳ないけれど、結婚してから会うのが二回目なのだ。惚れ薬入りのクッキーが本物なのか分からない。でも、今を逃したら、きっと食べさせなかったことを後悔すると思う。
ティーカップに口をつけて、覚悟を決める。
「あの、クッキーを食べませんか?」
アルフレッド様の返事を聞く前に、先ほどのクッキーを持って来てもらった。ハートに弓矢が刺さったクッキーに、ピンクのアイシングで飾られている。とんでもなく可愛らしいクッキーに、アルフレッド様の顔が固まった。いかにも惚れ薬が入っていそうなクッキーに私の心臓もドキドキ落ち着かない。
怪しまれないように、先にひとつ食べる。さくさくして、バターの香りが広がった。
「うわああ、すごく美味しいです……っ! こんなに美味しいクッキー食べたのは初めてです! わあ、本当に頬っぺたが落ちそうです。これは、絶対、絶対に食べた方がいいです!」
私の完璧な演技に、アルフレッド様は驚いたように目を見開いている。よし、クッキーに興味を持っている今しかない──
「アルフレッド様もおひとついかかですか?」
無言のまま時間が流れて、背中から冷や汗が流れる。茶色の瞳を見つめても、なにを考えているのか分からない。それでも、クッキーを食べてもらう作戦はこれ以外は思いつかなくて。見つめ続けていると、アルフレッド様は何も言わずに私からふいと視線を逸らした。
……やっぱり、要らないよね。
好きでもない人からハートのクッキーを勧められて、嬉しい人なんているはずがない。分かっていたのに、自分に呆れてしまった。
「……頂こう」
沈黙を破る低い声に驚く。ひどく真剣な顔をしてそう言ったアルフレッド様がクッキーをひとつ摘むと、食べはじめた。
「ああ、確かに美味いな。いくらでも食べられそうだ。アリス、勧めてくれてありがとう」
小さく笑みを浮かべているアルフレッド様に、私は驚きすぎて目を見開いた。こんなに早く惚れ薬が効いて来たのだろうか……?
「アリス、もう一枚食べてもいいか?」
「ど、どうぞ」
「本当に美味しいな。アリスも食べたほうがいい」
そう言うと、摘んだクッキーを私の口に近づけてきて。頭が混乱したままアルフレッド様を見ると、茶色の瞳が甘い。
「──アリス、食べて」
熱を帯びた瞳に見つめられて、目を逸らせなくなった。クッキーをちょんと唇に当てて、口をひらくように促される。熱に浮かされたみたいに口をひらいてクッキーを食べた。
「かわいい」
嬉しそうに微笑んだアルフレッド様に目と耳を疑った。可愛いなんて初めて言われて、動揺してしまう。頬が熱くて、痛い。アルフレッド様は当たり前のように、もう一枚クッキーを摘むと、手ずから食べさせてくれた。
「すごくかわいい」
柔らかく目を細め、愛おしそうな表情を浮かべて私を見つめてる。目の前にいるのは、本当にアルフレッド様なのかと見つめ返した。
「もう一枚、食べるか?」
「い、いえ、もうお腹いっぱいです……」
「そうか、残念だな。良ければ夕食を一緒にと誘いたかったのだが」
「えっ? 今、なんて?」
「一緒に夕食をとりたいと言ったが──。俺がいたらゆっくり休めないだろうから、そろそろ失礼する」
聞き間違いではなかったらしい。なんでお腹いっぱいなんて嘘をついてしまったのだろうと頭を抱えたくなった。アルフレッド様が部屋を出て行こうとするのを堪らず呼び止めた。
「アルフレッド様」
ゆっくり振り返ったアルフレッド様と視線が合う。口をひらくと声が震えた。
「あ、あの、もしよかったら、朝食を一緒に食べませんか……?」
「──アリスが望むなら喜んで」
息を呑むくらい甘い声色で告げられて。私は、アルフレッド様が出ていった扉を呆然と見つめながら、頬を思い切りつねる。ひりひり痛む頬に夢じゃないと実感して、惚れ薬のすごさに言葉を失った。
◇
翌朝、約束の通りにアルフレッド様が朝食の席にいて驚いた。隣の席に座るように言われて、腰を下ろす。肩の触れ合う近距離に心臓が早鐘を打ち始める。
「アリス、おはよう。よく眠れたか?」
「はい、すっきりしました」
「きちんと眠れてよかった」
大きな手のひらに頭をぽんぽんと二回撫でられて、心臓の音が煩い。
「あの、嬉しいです。アルフレッド様と一緒に食事ができて嬉しいです。また一緒に食べたいです」
「アリスの願いなら、喜んで」
茶色の瞳で見つめられ、柔らかく微笑んで告げられた。不意打ちの甘さに、頬がじわじわと熱くなった。
クロテット侯爵家の食事は美味しい。所作の綺麗なアルフレッド様は、食べている姿も素敵だと改めて思う。
「もう食べないのか?」
見惚れていたら不意に視線が絡み、心臓が大きく跳ねた。アルフレッド様が心配そうに眉を下げる。
「アリスの好きな桃を用意してある。桃なら食べれるか?」
「え? あっ、はい……」
花のように桃を盛り付けた皿が運ばれてきた。アルフレッド様が桃をフォークに刺すと、私の口もとに運ぶ。
「アリス、食べて」
アルフレッド様の甘い声に口を開くよう促される。明るい部屋が恥ずかしいけれど、誘惑に負けて食べると、爽やかな甘さが口いっぱいに広がっていく。
「ん……っ、すごく美味しいです!」
「それならよかった。もうひとつ食べるか?」
また目の前に瑞々しい桃を差し出されて、ぱくりと食べた。とても美味しい。すぐに傷む桃は高価なものなので、朝食で食べられる幸せを噛みしめて、両手を頬に当てた。
「全部食べて偉かったな」
アルフレッド様に頭をぽんぽんと二回撫でられる。はっと我に帰ると桃はなくなっていた。八切れ近くの桃をすべて食べさせてもらっていたと思うと、羞恥で顔に熱が集まっていく。
「アリス、顔が赤い。熱が出てきたか?」
突然、アルフレッド様の顔が近付いて、おでこがコツンと優しく引っ付いた。
「っ! な、ないです」
「いや。少し熱っぽいな……」
「ひゃ! だ、だ、大丈夫ですから」
首に大きな手を当てられて、変な声を上げてしまう。こんな恋人みたいな触れ方は初めてで、心臓がどきどき煩い。凛々しい顔に見つめられたまま、大きな手のひらで頬を包まれて、身体中が茹っている。
「若旦那様、そろそろ仕事に行かないと遅れますが……」
「なんだ、トーマス」
家令のトーマスに話しかけられて、私からアルフレッド様が離れる。安堵して大きく息を吐いた。眉間に皺を寄せたアルフレッド様がトーマスとやり取りした後、盛大に溜め息をつく。
「アリス、本当に大丈夫か?」
「ほ、本当に大丈夫ですから、お仕事頑張ってください」
「なるべく早く帰る。一緒に夕食をとろう──いってきます」
ちゅ、とおでこで音が鳴った。
アルフレッド様と家令のトーマスが歩いていく。自然すぎる動きに、今のがキスだったと気づいた時にはアルフレッド様は見えなくなっていた。そっと指で触れてみれば、ときめきすぎて胸が苦しい。
「まるでアルフレッド様じゃないみたい……」
本当に私にメロメロみたいなふるまいに戸惑ってもいて。魔女の惚れ薬クッキーがここまで効くなんて思ってもいなくて、本音を漏らしてしまった。
◇
一週間が過ぎても、惚れ薬は絶好調。
あまりに効きすぎていて、魔女に相談した方がいいと分かっているのに、恋人みたいな甘さに溺れて先延ばしにしていた。
「アリス、ただいま」
大きな身体に抱きしめられる。大好きな人の匂いと体温に包まれるのが堪らない。
「アルフレッド様、おかえり、なさい……」
「早く会いたくて、急いで帰ってきた」
「私も会いたかったです」
頭上からの優しい声にアルフレッド様を見上ると、顔中にキスが落ちてきた。心臓がきゅんと甘く締め付けられ、逞しい胸にこてんと頭を預ける。ぎゅっと抱き寄せられる温もりを感じて、しあわせに浸った。
「若旦那様、そろそろ着替えてください」
家令の咳払いでパッと離れる。アルフレッド様を窺い見ると、頭をぽんぽんと二回撫でられた。
早めの夕食を済ませ、お茶の準備が整うと二人きりなる。色とりどりのマカロンが並べられたお皿にわくわくしてしまう。
「アリス、どれが食べたい?」
「チョコ味が食べたいです」
「アリスは、本当にチョコが好きだな」
茶色の瞳をじっと見つめながら、頷いた。アルフレッド様の瞳と同じ色だからチョコが好きなのだけど、それは内緒にしている。
「アリス」
口元に運ばれたマカロンを食べる。外側はサックリとしていて、内側はねっとりとした食感で、甘くて、美味しい。
「アルフレッド様は、どの味が好きですか?」
「そうだな。俺は菫と桃だな」
「そ、そうですか」
思わずどきりとしてしまう。アルフレッド様の好きな菫色と桃色のマカロンは、偶然にも私の瞳と髪と同じ色。
「アリスと同じ色だから、好きなんだ」
驚いて目を瞬かせていると、アルフレッド様が照れたように微笑んだ。私と同じだと思うと、なんだか胸がくすぐったくて落ち着かない。じわじわと頬に熱が集まって、耳まで熱くなる。
「私もアルフレッド様の色だから、チョコが好きです」
私の言葉に目を細め、愛おしそうな表情で見つめられる。息をするのが苦しいくらいに胸のときめきが降り積もった。しばらくすると、アルフレッド様の指が伸びてきて、頬をなぞる。
「アリス、俺にも食べさせて」
「え」
「俺にするのは、嫌か?」
眉を下げて、困ったように肩を竦めるから、慌てて首を左右に振った。途端に、アルフレッド様が嬉しそうに笑い、じっと私の手元を見つめて待っている。
菫色のマカロンを掴み、どきどきしながらアルフレッド様の口元に近づけた。大きな口に食べられる。
「甘くて優しい味がする」
味わうように瞳を閉じるアルフレッド様を見ていたら、心臓がいつもより早く鼓動を打ちはじめた。耳まで熱くて、きっと赤い。
「アリス」
甘さの滲んだ茶色の瞳に、じっと見つめられる。蜂蜜みたいな甘さで名前を呼ばれ、ゆっくりと手のひらが伸びてきて頬を包む。甘い予感にどきどきしながら目蓋を閉じると、アルフレッド様の唇が私の唇に優しく触れた。
結婚式以来の二回目のキスは、マカロンみたいに甘くて。まるで本当にアルフレッド様に愛されていると勘違いしそうになった。
◇
今日は、親友のアンバーと待ち合わせをしていた。
王都で人気のカフェテリア。案内されたテラス席は、瑞々しい緑からの木漏れ日がとても綺麗で、思わず深呼吸をしてしまった。
「アリス会いたかった! 新婚生活について色々聞かせてちょうだいね! ここのテラス席って予約が難しいのに、よく取れたわね。絶対、アルフレッド様が用意してくださったのでしょう?」
アンバーにキラキラと瞳を輝かせて見つめられる。こくりと頷けば、いいなあ大袈裟に言われて気恥ずかしい。
アルフレッド様に親友に会うと伝えたら、予約困難で有名なこのテラス席をあっさり用意してくれていて。今朝に「楽しんでおいで」と三回目のキスをされたことを思い出したら、頬が熱を帯びていく。そんな私を見て、アンバーがにっこり笑った。
「アリス、愛されてるのね」
「そ、そんなこと……」
「わたしもアリスみたいに幸せな結婚生活を送りたいなあ。愛される妻になる秘訣を、ぜひ教えてほしいわ」
両手を胸の前で組み、上目遣いで見つめられる。とても愛らしくてなんでも答えてあげたくなってしまう。けれど、アンバーは幼馴染の伯爵令息ともうすぐ結婚の予定だけど、学園にいた頃から二人は仲睦まじい。白い結婚をしている私に秘訣なんて何もなくて、思わず真実がぽろりと落ちた。
「実は、惚れ薬を使ったの」
一瞬、目をまん丸にさせたアンバーが、くすくす笑う。ツボに入ったらしく目元に滲んだ涙を指で拭っている。
「もう、アリスったら真面目に聞いたのに……っ」
惚れ薬を冗談だと思ってもらえて安堵した。それと同時に、冗談だと流されるような最低な行いなのだと、頭を殴られたような衝撃を受ける。
「アリス、すごく美味しい! アルフレッド様にお礼を言っておいてね」
「うん、分かった……」
湧きあがる罪悪感を誤魔化すように、ティーカップに口をつけた。心と裏腹に、ふわりと華やかな香りが広がっていく。
次に目の前のお皿を見ると、私の頼んだ桃のタルトは、ミルクムースと桃ゼリーの層にフレッシュな桃が乗って私を全力で誘惑していた。惚れ薬のことは頭の片隅に追いやって、ひと口食べる。甘く爽やかな香りが桃の風味を引き立てて、本当に美味しくて頬がとけて落ちそうになった。
それから、同じように頬を落としそうになったアンバーと、おしゃべりに花が咲く。
「そう言えば、今、学園でチャールズ殿下がリリアーナ様を蔑ろにしていて、ネトラル男爵令嬢に夢中だと話しが持ちきりみたいよ」
「えっ、嘘でしょう?」
アンバーに言われて、三つ年下の第二王子のチャールズ殿下とリリアーナ侯爵令嬢を思い出した。二人はお互いを想いあっていたようにと思う。それに、ネトラル男爵令嬢なんて初めて聞いた。
「男爵の庶子で市井育ちだったのを、最近になって男爵家が引き取ったみたいよ。私も弟から聞いて、知ったばかりなの」
「どうしてチャールズ殿下に近づけたのかしら……?」
学園の中では身分は関係ないと言うものの、建前に過ぎない。上位貴族と下位貴族はクラスどころか建物も違っていて、関わりを持つことは難しかったはず。私もアルフレッド様と初めて会話したのは、婚約の話が出てからだったと思う。
「転校してきた初日、迷子になっている最中にチャールズ殿下と偶然ぶつかったらしいわよ。学園を案内している間に、天真爛漫なネトラル男爵令嬢に惹かれたと聞いているわ」
「ええ……?」
あまりにも突拍子もない出来事に、驚きを隠せなくて声を上げた。
「チャールズ殿下だけではなくて、殿下の側近すべてが夢中みたい。昼食は中庭、放課後は生徒会室でネトラル男爵令嬢を囲んでいるそうよ」
「リリアーナ様や婚約者の皆様は、どうしているの?」
「何度も苦言を呈しているけれど、学園に慣れてないからみんなで教えているの一点張りだそうよ。醜い嫉妬をするなと邪険に扱われたり、聞くに耐えたない暴言を言われた方もいて、婚約解消に動いてる家もあるという噂よ」
次々と語られる驚きの内容に、ただ目を見開くしかできない。
「アリス、ここだけの話なんだけど……」
アンバーの顔が近づいてきて、小声になった。
「ネトラル男爵令嬢の手作りクッキーをチャールズ殿下と側近達が、何度も食べているを目撃されているの。わたしはそれが怪しいと睨んでいて──クッキーに異性を魅了する毒か何かが仕込まれている可能性があると思っているわ」
予想外の言葉に思わず咳き込む。慌ててティーカップに口をつけて、アンバーを窺った。
「アイシングされたハートのクッキーなんですって。如何にも怪しいと思うのよね。アリスはどう思う?」
「………………そ、そうね。そのクッキーは、怪しいと思う」
「やっぱりそうよね」
納得したようにアンバーは何度も頷いている。その横で、私の心臓がどくどくと嫌な音を立て始めた。
……ネトラル男爵令嬢のクッキーも、私と同じ惚れ薬入りのクッキーに間違いない。
チャールズ殿下と側近達もアルフレッド様と同じように、惚れ薬でおかしくなってしまったのだと分かってしまう。とんでもない物を食べさせてしまったと、目の前が真っ暗になっていった。
◇
帰りの馬車に揺られる。窓から流れる景色を見ながら、深いため息を吐いた。惚れ薬が危険なものだと分かってしまい、私の気持ちはどんどん憂鬱になっていく。一刻も早く魔女のお店にアルフレッド様を連れて行き、惚れ薬の効果を解いてもらうしかない。
とにかく気合いを入れて夕食の席に向かった。
「今日はどうだった?」
隣に座った途端に、頭にキスが落ちてくる。二枚食べただけでこんなに効果のある惚れ薬を何回も食べさせたら、きっと意のままに操れてしまう。アルフレッド様の気持ちを勝手に作り替えてしまったことに心が痛む。
「アリス?」
眉を下げたアルフレッド様に、じっと覗き込まれていた。頬に手を添えられて、上を向かされる。
「顔色が少し悪い……。もしかして、何か嫌なことを言われたのか? それとも酷いことをされたのか? アリスのことを悲しませた報いを受けさせよう」
「ち、違います! アンバーは大切な親友なので、絶対にやめてください」
びっくりして慌てて首を左右に振った。今日も惚れ薬が絶好調すぎて、怖い。
「それなら、カフェがいまいちだったか?」
なぜか繰り出される犯人探しのような質問に動揺してしまう。それでも全力で否定するべきなのは分かった。
「とっても素敵なカフェでした! テラス席の木漏れ日が深呼吸してしまうくらい綺麗で、季節のタルトも紅茶も美味しかったです。定番のケーキも色々な種類があって、全部食べたいくらいでした。アンバーも喜んでくれて嬉しかったです──アルフレッド様、予約してくださって本当にありがとうございました。すごく嬉しかったです」
ちゅ、とおでこにキスされる。
「かわいい」
不意打ちのキスも、かわいいもずるい。顔に熱が帯びてくる。
「今度は一緒に行こう」
アルフレッド様は、私の頬が赤く染まっていくのを嬉しそうに観察していて。この流れで、とても魔女の店に行きたいとは言い出せなくて、アルフレッド様の肩に頭をこてんと預けた。私はずるい。
食後のお茶を飲みながら、アルフレッド様が口をひらく。
「アリス、最近は眠れているのか?」
「え?」
「安眠できるブレンドティーを飲んでいると聞いた」
「最近は眠れるようになりました。ブランもいるので、大丈夫です」
「ブラン……?」
「ブランはクマのぬいぐるみです。抱き枕があるとよく眠れると聞いて、買いました」
怪訝な表情を浮かべたアルフレッド様に、大丈夫だと微笑んで見せた。アルフレッド様の瞳と同じ茶色のクマは抱きついて眠ると、安眠できる。
「なるほど。それなら、共寝したほうがいいな」
「…………え?」
「抱き枕が必要ならクマのぬいぐるみではなく、俺にすればいいだろう。人はあたたかさを感じると、眠りやすくなると聞いた。俺のほうが絶対あたたかい。それに、他のオスと寝るのは感心しない」
「他のオス……?」
「ブランは男だろう」
「そ、そうですね」
どうしてこんな話になったのだろう? 訳が分からなくて、疑問符が頭の中でワルツを踊っている。私の戸惑いを他所にアルフレッド様はひどく真剣な顔をして言うから、なんと答えていいのかわからない。
「ブランはよくて、俺は駄目なのか……?」
拗ねたような口調で言われて、不覚にもきゅんとして胸に手を当てた。その可愛さに動揺して、思わず口をひらいていた。
「駄目じゃないです」
「アリス、夜も更けてきて遅い。もう寝ようか」
「そ、そうですね」
まだ子どもだって寝ない時間なのに、ひどく真面目な顔をしたアルフレッド様の言葉に、こくりと頷いてしまった。