第九章
一
翌朝、素振りをしていた光夜達に朝餉の仕度が出来たと告げに来た加代が、
「殿様、昨日ササゲ豆が届きました」
と報告してから、
「これが小袖の袂に入っていました」
光夜に守り袋を差し出した。
「あ、すまねぇ」
光夜が守り袋を受け取った。
西野家で返されて一度は懐に入れたのだが懐紙を出すとき邪魔だったので袂に入れ直したのだ。
加代は赤飯を炊く日が決まったら教えてくれと言って台所に戻っていった。
「そういえば、それ、ここに来る前から持ってたのよね? 誰かの形見?」
花月が訊ねた。
「浜崎のおっさんから実の親の子供だって証だから絶対無くすなって渡されたんだ」
「浜崎とは?」
弦之丞に問われて愕然とした。
師匠達に話してねぇのかよ!
ということは弦之丞も宗祐も全く素性の知れない人間を家に置いていたことになる。
正気かよ……。
光夜は弦之丞と宗祐に掻い摘まんで身の上を話した。
「実の子の証って事は親御さんが分かりそうな物が入ってるの?」
「いや、なんにも。紙切れ一枚だけだぜ」
そもそも実の子の証と言われてもその親が誰なのか教えられていないのだからどうにもならない。
「その紙には何も書いてなかったって事?」
花月の問いに以前、紙を見た時の事を思い返してみたが、その頃は今よりも読める字が少なかった事もあって意味が分からなかったので中身は思い出せない。
光夜は守り袋を開けると紙を取り出した。
「ん?」
二枚ある……。
以前は一枚しかなかった。
「何か分かった?」
光夜が首を傾げたのを見た花月が訊ねた。
「いや、前は一枚だけだったんだが」
光夜が二枚の紙を広げて花月達に見せた。
弦之丞と宗祐が紙に目向ける。
「以前入っていたというのはこちらだろうな」
宗祐が右の紙を指した。
それから左の紙を見て眉を顰めた。
「父上」
宗祐が弦之丞を振り返った。
「うむ」
弦之丞も厳しい表情を浮かべる。
「何か?」
「こちらは何かの連判状だな」
そう言われ見ると名前らしきものがずらずらと並んでいる。
崩れすぎていて何と書いてあるのかまでは分からなかったが筆跡が違うからそれぞれ別の者が書いたのは間違いないだろう。
宗祐が右から名前を読み上げていった。
「聞き覚えのある名はあるか」
弦之丞が訊ねた。
「いいえ」
光夜は首を振った。
「知らぬうちに入れられていたと言うことは湯屋か?」
「なんの連判状かは書いてないのですか?」
花月が訊ねた。
「ないな。おそらく仲間になったという証として署名したものなのだろう」
「でも何故光夜の守り袋に……」
「急いで隠す必要があって手近な物に入れたのであろう」
「湯屋でそのようなことがあるのでしょうか」
「それは分からぬな」
弦之丞がそう答えると、宗祐が右の紙を指した。
「これは証文だ。左に書いてある名前の片方が菊市だから光夜の父君であろう」
そう言われて証文だという紙を自分の方に向けて見てみた。
やっぱ分かんねぇ……。
「読める?」
花月に聞かれて、
「さっぱり」
光夜は正直に答えた。
「ここに菊市と書いてある」
宗祐が左端のにょろにょろした線を指した。
本文は楷書なのだが難しくて内容はまるで分からない。
名前だという部分は草書で、崩れすぎていてやはり全く読めない。
「菊市……通称の一文字目は分からぬが、その後は九郎のようだな。その後の諱は……一文字目は宗か? 次は……」
「『矩』ですか!?」
花月が勢い込んで言った。
「いや、もっと画数の多い漢字だろう」
「『冬』とか!?」
「増えてねぇだろ!」
「なら『巌』とか!?」
「垂は無ぇ!」
「それなら『在』とか」
柳生家の名前全部挙げるつもりかよ!
「む……」
宗祐が困った様子で弦之丞に目を向けると、弦之丞は雀を見ている振りで顔を背けていた。
二人共期待している花月に違うとは言いたくないのだろう。
とはいえ、いつもの冗談でとんでもない名前を出されても困る。
ったく……。
「どっちにしろ俺の名前じゃないんですよね?」
光夜が助け船を出した。
「光夜が書いたのではないのならそういう事だ」
宗祐が安堵したように頷いた。
「なら下の字がなんであろうと俺の諱じゃないですよね」
「そうなるな」
「光夜、なんとか字を判読して父君と同じ名にするか? 同じ名を名乗っていれば父君を知っている人が現れるかもしれぬぞ」
弦之丞が言った。
「もしかしたら宗厳かもしれないのよね!」
だから、垂は無ぇ!
「せっかく字を賜りましたし……」
光夜はちょっと考えてから、
「紘に宗でいいですか?」
と答えた。
紘宗という剣豪はいなかったはずだ。
「『こうそう』って珍しい諱ね」
「そこは『ひろむね』だろ!」
「光夜の好きなようにして構わぬ」
弦之丞がそう言って光夜の諱は『紘宗』に決まった。
諱一つ決めるのにすげぇ疲れた……。
光夜は溜息を吐いた。
「光夜、諱は決まったが通称はどうするのだ」
弦之丞の問いに光夜が口籠もった。
そういえば、通称もあったんだった……。
早く決めなければ十兵衛にされかねない。
「源八郎とか彦十郎とか……」
花月は相変わらず武術の達人の名前を挙げている。
なんでそんな高名な名前ばっかなんだよ……。
と思い掛けてから誰であれ多少なりとも名を揚げていない者など知っているわけがないと気付いた。
「まぁ当分は幼名でも問題あるまい」
弦之丞は花月に、加代に明後日の夕餉を赤飯にすることと、髪結いに使いを出して前髪を落とす用意をしてくるように伝えるように指示すると母屋に戻っていった。
金に余裕のない者は髪結床に行くが、桜井家には数日おきに髪結いが月代を剃りに来ている。
次は明後日に来るからその時に前髪を落として月代を剃り髷を結ってもらう事になった。
西野家に向かうために玄関で待っていると花月が出てきた。
普段は淡い色か、白地に小さな柄物の小袖なのに今日は濃紺のものを着ていた。
袴も似たような濃い色をしている。
「それ、初めて見たな」
光夜がそう言うと、
「昔、お兄様が着てたものなの。この色なら血が付いても目立たないでしょ」
と答えた。
昨日のことで今後も無傷では済まなかった場合を想定しているのだ。
確かに二度も遣られそうになったのだからまた強敵が来るかもしれないと考えておくべきだろう。
二度とも花月の方が危なかったのは光夜より花月の方が厄介だから先に始末する必要があると思われたからだ。
光夜など居たところで大した障害にはならない、と。
侮られるのは悔しいが、今はまだその程度の腕しかないのも事実だ。
光夜は拳を握り締めた。
二
文丸の稽古が終わった後、西野家の庭で夷隅が家臣達に剣術の指導していた。
夷隅は光夜達だけの相手をしているわけにもいかないので、その間、光夜と信之介は久し振りに試合をすることになった。
花月が審判である。
信之介と向かい合って立った。
木刀を青眼に構えて信之介に集中する。
周りの音が聞こえなくなった。
信之介も光夜の動きを探っているのが分かった。
なら――!
光夜は思いきり踏み込みながら突きを放った。
信之介が弾く。
光夜が逆袈裟に斬り上げる。
信之介が再度払おうとしたがその前に光夜の木刀が脇腹の横で止まっていた。
「一本!」
花月が言った。
何度か試合をしたものの、相変わらず勝敗は五分五分だった。
全然、腕が上がってねぇのか……。
いつまでも光夜は脅威ではないと思われていたら攻撃が花月に集中してしまう。
せめて同じくらいの戦力を裂かれるようになれば花月への攻撃が減るはずなのだが。
「元服、ですか」
試合の後、元服の話を聞いた信之介が言った。
「早く決めねぇと十兵衛にされそうなんだよ」
「十兵衛の何が悪いのよ」
「十兵衛が嫌なら又右衛門とか」
信之介の言葉に、
「お前もか!」
「良いわね!」
光夜と花月が同時に言った。
「荒木又右衛門も新陰流を学んだのよ!」
「信之介って剣豪はいねぇだろ! なんで自分の通称は剣豪にしてねぇんだよ!」
「え……、てっきり『兵衛』が嫌なのかと。だから『右衛門』はどうかと思ったのだが。拙者の通称は関新助先生にあやかったのだ」
「関新助? 聞いた事あるような気はするけど……」
花月が首を捻った。
「勘定吟味役だった方故お聞き及びなのでしょう」
信之介が答えた。
勘定吟味役というのは御公儀の役職の一つで、財政を担当する勘定所を監査する御役目である。
当然、番方(武官)ではなく役方(文官)である。
「関新助なんて剣豪いた?」
花月が不思議そうに訊ねた。
花月すら知らねぇような剣豪知ってるって、どんだけ好きなんだよ……。
「関先生は算学の大家です!」
「さんがく?」
一瞬、寺などにかかっている横長の額を想像してしまった。
あれは『扁額』か……。
一拍遅れて『算学』とは『算術』のことだと気付いた。
信之介は関(新助)孝和の功績を熱く語り始めた。
なに言ってんだかさっぱり分かんねぇ……。
そう言や、こいつ算術好きを見込まれて商家から婿養子の話が来たんだったな……。
花月のことはすっぱり諦めて商家に婿養子に入った方が幸せなんじゃねぇの?
どうせ部屋住みのままでも所帯は持てないのだ。
西野家の帰り道、花月と光夜が大川端を歩いていると人集りが出来ているのが目に入った。
「どいてくんな!」
ちょうど側を通り掛かった時、御用聞きが人垣に声を掛けた。
人々が道を空けたので川岸が見えた。
人が横たえられている。
御用聞きが来たということは死体なのだろう。
花月と光夜はそれを横目で見ながら通り過ぎた。
「通称決めた? 織部之助とか……」
夜の稽古が終わり、片付けをしながら花月が訊ねてきた。
「いや、俺、牢人だぞ。そんな大層な通称……」
「剣豪じゃなければいいの?」
「あぁ……」
思わず首肯し掛けて慌てて口を噤んだ。
花月が好きなのは芝居や講談である。
役者や、芝居や講談の登場人物の名前を持ち出されても困る。
團十郎だの史進だのを名乗る気はない。
史進とは『水滸伝』の登場人物である。
『進』の字は通称に使われる字なのだ。
「鬼一とか良いと思ったんだけど」
「きいち?」
「鬼一法眼。『義経記』に出てくる剣術の神様」
花月が掌に漢字を書いて見せながら言った。
『鬼』や『悪』というのは強いということを表す言葉で〝悪い〟という意味は無い。
だが『鬼』や『悪』が付くのは相当な強者と言うことだから剣豪とは別の意味で荷が重い。
『鬼半蔵』と呼ばれた服部半蔵正成のように他人から強さを認められての呼び名ならともかく、腕が伴っていない若造が自称したりしたら笑いものになるのは目に見えている。
「だから、もう少し謙虚に……」
「上に何も付けなければ良いのではないか」
見兼ねたのか宗祐が助け船を出してくれた。
「あっ! そうですね」
「織部を取って之助?」
「なんでそこなんだよ! 普通は三郎とか五郎とかだろ」
「大仰で良いのに」
「良かねぇよ。大した腕もねぇのにみっともねぇ」
「腕を上げればいいだけじゃない。十兵衛って通称だって今十兵衛って言われるくらい強くなれば良いのよ」
花月が男だったら実際そうしてるんだろうな……。
しかし、この前向きさはホント凄ぇな……。
心掛けだけは見習っておこう。
あくまで心掛けだけ。
いくらなんでも十兵衛は嫌だ……。
そういえば……。
親父の通称が何とか九郎だったな……。
「じゃあ、親父が九郎だったから十……」
「兵衛!?」
「郎だよ。十郎」
「上に『彦』は?」
「付けねぇよ。ただの十郎」
光夜の言葉に花月はがっかりしたようだったが異は唱えなかった。
翌朝、髪結いに月代を剃って髷を結ってもらった。
頭の天辺に風が当たるのが落ち着かないが、いずれは剃らなければならなかったのだから仕方ない。
その日、文丸はいつになく機嫌が悪かった。
花月が指導に手を焼いている様子を見た夷隅が、
「今日はこの辺に致しましょう」
と言って稽古を切り上げた。
夷隅がそう言った途端、文丸はさっさと部屋に引き上げてしまった。
「なんかあったのか?」
光夜は信之介に訊ねた。
「若様が特に親しくされていた奥女中の一人が亡くなられたんだ」
「また毒か?」
「いや、ここ何日か姿が見えなくてどうしたのかと思っていたのだが遺体が見付かったらしい」
「遺体?」
「近くの桟橋に引っ掛かっていたそうだ。死後数日経っていた事と痣だらけだった事から殺されたのではないかと」
信之介が『川岸』と言った瞬間、花月と光夜は視線を交わした。
あの遺体は文丸の奥女中だったのかもしれない。
「ま、いいや、稽古に行こうぜ」
光夜はそう言うと花月や信之介と共に夷隅の元に向かった。
三
夷隅は男と立ち話をしていた。
時折屋敷内で見掛ける武士だが稽古の場に居合わせたことはない。
光夜達が近付いていくと夷隅が振り向いた。
「桜井殿、村瀬殿、菊市殿、この男は吉野公助と言って……」
「もしや関流の吉野公助先生ですか!?」
信之介が夷隅の紹介を遮って訊ねた。
関流なんて流派もあるのか……。
と考えてから、この前聞いた『関新助』という名前と、信之介の態度から剣術ではなく算術の方だと気付いた。
算術にも流派があるんだな……。
「それがしは先生などと呼ばれるような者では……」
「『解伏題之法』の解説書を書かれた方では御座いませんか?」
「そうだが……あれを読んだのかね」
「はい! あの本を拝読したことで、どうしても分からず、額面額もなく途方に暮れていた算額の問題がようやく解けました!」
算額というのは算術の問題を記して寺社に奉納された絵馬である。
問題に対する答えを書いて奉納した絵馬を額面額という。
問題にしろ答えにしろ大抵は何かを祈願したり願いが叶ったりした感謝の印として奉納しているので必ずしも問題が書かれた絵馬と同じところに答えを書いた額面額があるとは限らなかった。
難しすぎて解けた者がいない場合、出題者が答えを書いた額面額を奉納していなければ答えは分からない。
「ほう、額面額もないとはどのような難問かね」
吉野が興味を惹かれた様子で訊ね、信之介が問題の説明を始めた。
やっぱ、なに言ってんだか分かんねぇ……。
「儂らは稽古を始めよう」
夷隅が花月と光夜に声を掛けた。
「よろしいのですか? 御用がお有りだったのでは……」
「なに、ただの雑談だ」
夷隅はそう言って信之介と話し込んでいる吉野に目を向けた。
「吉野は算術の話を始めたら止まらぬ故な。あの様子では当分終わるまい」
確かに二人とも話に夢中になっている。
信之介とは剣術談義しかしたことがなかったが、それは単に光夜には算術が分からないからで実際には算術の方が好きなのだろう。
おそらく湯屋でもあの調子で話していて商家の主人に見込まれたに違いない。
花月も算術の事は知らないから話し相手は出来ない。
信之介が花月に懸想しているのも周りに他の女がいないからだろう。
江戸は男の方が多くて女が少ない。
周囲にいる年の近い独り身の女が花月だけだから自然と想いを寄せるようになっただけで、もし算術の得意な女がいれば見目が花月に及ばなくてもその女の方を選ぶはずだ。
西野家からの帰り、花月と光夜が人混みの中を歩いていると町人風の男と擦れ違った。
「待て」
光夜が男の肩に手を掛けた。
「なんですかい」
男が足を止めて光夜の方を振り返る。
「今、抜き取った物を返せ」
ぶつかったわけではない。
それでも懐から抜き取ることが出来たのだからかなり腕のいい掏摸だ。
花月がさり気なく退路を断つように男の後ろに回る。
「なんのことでぇ?」
掏摸が尊大な口調で言った。
切り捨て御免と言っても、斬っても許されるのは斬られた方が殺されても仕方ないくらい無礼な態度を取ったと証言してくれる者がいる場合だけである。
証人がいないにも関わらず斬ったら武士といえども殺人の罪に問われるし、殺人のような重罪に問われたら御役目を解かれたり家名に傷が付いたりするから失うものが大きい。
誰も見ていない場所ならともかく、これだけ人目がある場所で知らぬ存ぜぬは通らないから迂闊に抜くわけにはいかないのだ。
それが分かっているから掏摸もデカい態度が取れるのである。
「言い掛かりはやめてもらおうかい」
光夜は、薄笑いを浮かべて立ち去ろうとした掏摸の腕を掴むと捻り上げた。
「いででで……」
懐手をしていた手に光夜の守り袋が握られている。
「その中には俺の親父の名前が書いた紙が入ってんだ。それでも言い掛かりって言う気か」
「これが幾度目かは知らぬが十両盗むと首が飛ぶのであろう」
花月が低い声で言った。
盗みは十両盗ると死罪。
十両以下でも四回掴まると死罪である。
十両というのは一回ごとの金額ではなく累計額だから四回目までいかなくても合計金額が十両越えればやはり死罪となる。
「へっ、サンピンは知らねぇだろうが、大判はこんなに小さかねぇんだよ」
掏摸が開き直った態度で言い放った。
金貨の小さい物が小判、大きい物が大判であり、大判は一枚十両である。
と言っても実際には大判一枚では十両にはならないし、主に贈り物などに使うものだから普段使う金としては流通していない。
おそらくこの掏摸が捕まったのは三回以下で御番所(町奉行所)に盗ったことを知られている金額もそれほど多くないから一、二両程度なら死罪にはならないのだろう。
「そこに入っているのは金の証文だ」
花月が言った。
「父君の名前が書いてあると言ったであろう。金を貸したという証文だから名前が書いてあるのだ」
「え……?」
「百両貸したという証文だから、どこに持ち込んでも十両以下にはならぬぞ。その証文があれば百両が手に入るのだからな」
物を盗んだ場合、金に換算して計算される。
金でも物でも十両を超えれば死罪なのは同じなのだ。
「金額を計算するのは御番所だ。となれば、その証書は百両と見做されるであろう
「う、嘘だ……」
「そう思うなら中を見てみよ」
花月の言葉に光夜が掏摸の腕から手を放すと、男が恐る恐る紙を出して開いた。
じっと紙を見詰めている。
大抵の町人は読み書きが出来るとはいえ証文のような難しい文章は理解出来ないだろう。
男も書いてあることが分からなかったようで花月の言葉を信じたらしい。
みるみる顔が青ざめていく。
「話が違う! 金の証文だなんて……」
「話? どういう事だ。こちらの質問に正直に答えれば見逃してやってもいいぞ」
花月がそう言うと、掏摸は光夜の懐から守り袋を掏ってくるように依頼されたと答えた。
「誰に頼まれた?」
「どっかの田舎侍ぇだ」
「田舎? どこの?」
花月が問う。
話し言葉は皆それぞれの生国――生まれ育った場所の言葉を使う。
生国が同じか、違っていても近くならともかく、離れていればいるほど言葉が違うから他の国の者とは言葉が通じ難くなる。
江戸の人間が使っていたのは江戸の言葉であり訛りも強かった。
例えば江戸っ子は「し」が発音出来ない。
『敷く』は『引く』になってしまうのだ。
そのため江戸っ子の言葉も江戸以外の者には通じないのは珍しくなかった。
だから生国の違う者との会話では文章を書く時に使う言葉――文語を共通語として用いていた。
しかし言葉自体は文語でも訛りは江戸の者も含め、生国ごとに異なる。
江戸の人間が武士を田舎侍呼ばわりした場合、それは訛りが江戸とは違ったと言う事だから参勤交代で来た江戸に来た武士か、食い詰めて出てきた牢人という事である。
「多分……」
掏摸がおおまかな国の名前をいくつか挙げた。
西野藩のある辺りだ。
上げた中に西野藩はなかったが小藩だから名前を知らなかっただけだろう。
藩は三百前後あったので商売をしているのでもない限り遠くの小藩の名前を知っている者はほとんどいない。
よほど訛りに詳しいか、その地域の者と知り合いでもない限り、有名な藩の出身者と似たような訛りがあるからその辺だろうとしか言えないから依頼した者が西野家の人間だとは言い切れないが、光夜と関わりがある江戸勤番の武士は今のところ西野家の家臣だけだ。
それに……。
連判状は知らないうちに光夜の守り袋に入っていた。
この掏摸よりも遥かに腕のいい者が一度掏ったあと紙を入れてからまた気付かれないように光夜の懐に戻したのなら別だが、そうでないなら湯屋以外で他人が触る機会があったのは西野家で落とした時だけだ。
そしていつの間にか入っていたのは連判状である。
西野藩がある辺りの訛りで話す者がわざわざ金を払ってまで守り袋を盗ろうとしたのだから目当ては連判状と考えるのが自然だろう。
花月は掏摸に色々聞いていたが、それ以上のことは知らないらしく、何を聞いても首を振るばかりだった。
「知ってることは全部話したぜ。もういいか?」
「いくら払うって言われたんだ?」
光夜が訊ねた。
「一両だ」
掏摸の答えに光夜は花月に頷いた。
「行け」
花月がそう言って掏摸の前から退く。
掏摸は人混みに消えた。
四
「なぁ、これホントに借金の証文なのか?」
光夜は連判状を守り袋に戻しながら訊ねた。
「さぁ? 私はそんな難しいもの読めないから」
にこやかに答えた花月に、光夜は呆れた視線を向けた。
花月もさらっと嘘吐くよな……。
師匠達の影響なのか?
夜、学問が終わると、光夜は連判状を弦之丞の前に差し出した。
「師匠、ここに書いてある名前をもう一度読んで頂けますか?」
西野家から帰ってきた後、自分でなんとか読んでみようとしたのだが殆ど分からなかった。
「何かあったのか?」
弦之丞が紙を受け取りながら訊ねた。
光夜は西野家で守り袋を落としたことと、今日掏摸に遭ったことを話した。
「では、これは西野家の者の連判状かもしれぬのだな」
「はい」
光夜が頷く。
正式な跡継ぎである文丸を支持している者は連判などする意味はないし、仮に文丸支持を表明するための連判状だったとしても見られて困るようなものではないから金を払って掏らせる必要はない。
光夜に返してくれと頼めばいいだけだ。
弦之丞は紙と筆を取り出した。
「念のため名前を書き写しておきなさい」
弦之丞はそう言って名前を読み上げた。
光夜が紙に書いていく。
知ってる名前は無ぇな……。
弦之丞が読み終えると礼を言って紙を受け取った。
翌朝、光夜は信之介に文丸の側に居る武士達の名前を聞いてみたが連判状に名がある者はいなかった。
篠野もその辺は用心して信用の置けない人間は近付けないようにしているのだろう。
稽古が終わると、信之介は、
「申し訳ありません。拙者は今日から若様と一緒に学問をします」
と花月と光夜に告げた。
「学問中も側に居ねぇといけねぇほど危ねぇのか?」
「いや、昨日の吉野先生が若様に学問を教えていると聞いたので御一緒させて欲しいと頼んだらお許しが出たのだ」
「殿様になるための学問に算術もあんのかよ」
「吉野先生が若様に教えているのは朱子学などらしいが、講義の後に時間があれば算術の話を聞けるやもしれぬので」
信之介が顔を輝かせている。
そうか、今は湯屋へ行かれねぇから……。
湯屋では男達は湯上がりに趣味に興じることが多い。
信之介も毎日湯屋で算術を楽しんでいたのだろう。
それが出来ない日が続いていたから算術の話に飢えていたに違いない。
やっぱ婿養子に行った方が良いんじゃねぇの?
剣術をしたければ桜井家の稽古場に通えばいいだろう。
花月は町人でも受け入れていると言っていた。
花月と光夜が夷隅の下で稽古を始めると間もなく信之介がやってきた。
「学問はどうした?」
光夜が訊ねると、
「それが……」
信之介の話によると、当主からの書状が届いたのだが、持ってきた者が内密の要件なので他の者は外して欲しい、と人払いしたのだという。
「篠野殿は御一緒だったか?」
夷隅が訊ねた。
「いえ、御使者だけ……」
信之介の言い終える前に夷隅は文丸の部屋に向かって走り出していた。
花月達が後に続く。
庭を走って文丸の部屋に向かっていると、前方に何人かの武士が立っていた。
いつもならこんなに居ないし警護の人間には見えない。
「夷隅だ!」
どこからか声がした。
その途端、武士達が抜刀した。
一人が刀を振り上げて夷隅に向かっていく。
花月が走りながら棒手裏剣を投げた。
「つっ……!」
腕に棒手裏剣が刺さった男の足が止まる。
花月が立て続けに武士達に棒手裏剣を放つ。
避けたり払ったりして足が止まった武士達の間を夷隅が走り抜ける。
追い縋ろうとした武士と夷隅の間に花月が立ち塞がった。
光夜も別の男に斬り掛かる。
男が避ける。
一番部屋に近いところにいた武士が刀を振り翳して夷隅に向かってきた。
夷隅は走りながら太刀を抜くと鎬で男の太刀を弾き、そのまま横に払った。
男が首から血を噴き出しながら倒れる。
夷隅はそのまま横を駆け抜けた。
部屋の中で吉野が文丸を守るように前に立って敵に刀を向けているが構えからして剣術は嗜んだ程度なのは明らかである。
男が吉野に刀を突き出した。
吉野は刀で払おうとしたが捌ききれず、男の刃が右肩を斬り裂いた。
「くっ!」
よろめいた吉野が片膝を突く。
それでも吉野は左手だけで刀を男に向けた。
だが切っ先が震えている。
男が吉野の方に踏み込もうとする。
夷隅は部屋に駆け込むと刀を袈裟に振り下ろした。
男が後ろに飛び退く。
夷隅は更に踏み込んで横に払った。
男が後退ると、夷隅は吉野と男の間に割って入った。
「夷隅!」
「若様はご無事か!?」
「ご無事だ」
吉野が答えた。
「お前は大丈夫か」
「掠り傷だ」
吉野はそう答えたが肩から胸に掛けて血で真っ赤になっている。