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第六章

       一


 花月と光夜は二人だけで今泉の稽古場へと来ていた。

 稽古場はそれほど広くない。

 入り口以外の三方の壁には様々な武器が掛かっていた。

 どれも稽古で使われるもので、鎖鎌(くさりがま)鉄球(てっきゅう)のように加減しても相手を殺傷してしまうような一部のものを(のぞ)き全て本物である。


「桜井と菊市は比翼の鳥と言われたとか」

 師匠が言った。

「はい。まだどちらも未熟です(ゆえ)

 花月が答えた。

「一羽で飛べぬ比翼の鳥か。二羽になったくらいでどの程度になるものか」

 森田が(あざけ)るような笑みを浮かべた。

 光夜はむっとしたが、

「よろしくご指導のほどお願い致します」

 花月は丁寧に頭を下げた。

 光夜が見ていると花月が一瞬だけ視線を寄こした。

 比翼の鳥の意味を教えてやれってことか。


「まずは二人の腕を見たい。二人は素手でそこに、皆は好きな得物(えもの)を取れ」

 師匠の言葉に弟子達は武器が置かれているところへと向かった。

 花月は弟子達の動きに注目している。

 ざっと三方を見回した花月の視線が鎖鎌のところで一瞬止まった。

 ほんの一時だったので他の者達は気付かなかったようだ。

 鎖鎌か……。

 確かに鎖鎌に一人で対応するのは難しい。

 なるほどな……。

 そこへ五寸釘ほどの細く長い棒が数本飛んできた。

 棒手裏剣(ぼうしゅりけん)だ。

 花月と光夜が左右に飛び退いた。


 試合開始!


 花月と光夜はそれぞれ刀を持った弟子達の元へ走った。

 弟子達もそれぞれ得物を持って襲い掛かってくる。

 光夜は小太刀(こだち)を持っている大久保に駆け寄った。

 大久保が小太刀を突き出す。

 ()り出される小太刀を()けると、小菅が薙刀(なぎなた)を横に払う。

 大久保から無刀取りで小太刀を奪い、小菅の方に突き飛ばした。

 小菅の薙刀が大久保の胴の寸前で止まる。

 そこへ棒手裏剣が飛んできた。

 光夜は小菅の脇に回り込み襟首を掴んで棒手裏剣の方へ向けて盾にする。

 小菅が慌てて薙刀で手裏剣を叩き落とした。


「大久保」

 師匠の言葉に大久保が壁際へ戻っていく。

 目の隅に、鎖鎌の鉄球(を模した紙製の玉)を回している森田が映った。

 光夜を狙っている。

 同時に棒手裏剣が数本飛んできた。

 光夜は手裏剣を投げていた山之内に小太刀を投げた。

 山之内が小太刀を()ける。

 光夜の方へ鉄球が飛んできた。

 花月が素早く光夜と森田の間に割り込み太刀で鉄球を受ける。

 花月の太刀に鎖鎌の鎖が巻き付く。

 森田が鎌を振り上げながら鎖を引いた。

 花月は一旦太刀を引き寄せる振りをして森田が鎖を引く力を込めたところで手を放す。

 太刀が森田の方に飛んでいく。

 森田が花月に駆け寄り鎌を振り下ろそうとした時、横に回り込んでいた光夜が鳩尾(みぞおち)膝蹴(ひざげ)りを叩き込んだ。

 森田が(くずお)れる。

 花月を見ると小菅から取り上げた薙刀を山下に突き付けていた。

 残心(ざんしん)の構えのまま周囲を見回すと花月と光夜の他に立っている弟子はいなかった。


「森田、小菅、山下。そこまで」

 師匠の言葉に花月は薙刀を下ろした。

「さすが桜井殿の教え子だ」

「いえ、これも一重(ひとえ)に先輩方のご指導の賜物(たまもの)にございます」

 花月が頭を下げた。

「うむ、その謙虚さを忘れずにいれば腕も上がるだろう」

 そう言ってから弟子達の方を向いた。

慢心(まんしん)したな、森田」

「はっ」

 窓際に座っていた森田が床に手を付いて頭を下げた。

 壁際に座っている弟子の数は八人だった。

 光夜が倒したのは大久保と森田の二人だが、森田は花月と連携していたから倒せたのだ。


 稽古場を()した二人は明るい月の下を並んで歩いていた。

「俺も結構腕が立つと思ってたのに花月には(かな)わねぇな。今日も自力で倒せたのは一人だけだし。どこが違うんだ?」

「そりゃ、あんたのは道場剣術だからよ。今のところはね」

 意外な言葉に思わず花月の顔を見詰(みつ)めた。

「え、俺、何度も真剣勝負してきたし、負けたことは……」

「それは、相手も道場剣術だったから。尋常(じんじょう)に勝負してたでしょ」

 確かに一対多の斬り合いをした事がないわけではないが体術の類は使った事がなかったし刀を飛び道具として使うような真似もしなかった。

「言っとくけど今日勝てたのは相手が入門したての人達相手だったからよ」

「入門したて!?」

 いくら人数が多かったと言っても自分が勝てない相手なのだから相当な手練(てだ)れだと思っていた。

「でなきゃ、勝てるわけないでしょ」

 花月が光夜の額を軽く(つつ)く。

 そんなことも分からなかったなんてまだまだね、と言われているようだった。


 ()の中の(かわず)が海を見た時の驚きが分かった気がする。

 自分は海どころか池でさえ()だ見ていなかったのだ。

 自分がいたのは小さな水溜(みずたま)りだった。

「今はそれで()いの。稽古に励んでいればいつかはお兄様達を追い越せるから」

 ()って師匠も越えるつもりなのかよ……。

 光夜は呆れた。

 とはいえ、それくらいの心意気(こころいき)がなければ腕は上がらないのだろう。


       二


「父上、昼間、弟子の一人が本所に強盗が出たと話しておりましたが」

 翌日、朝の稽古が終わると花月が弦之丞に報告した。

「お祖母様が無事か使いを出されては……」

「心配はいらぬ」

「素手で熊を倒した人だからな」

 …………!

 光夜は弦之丞と宗祐の言葉に絶句(ぜっく)した。

 あの祖母さん、熊を倒したことがあるのか……。

 流石(さすが)師匠の母親なだけはある。

 母親がそんだけ強かったのなら師匠の父親は化け物並みだったのではないだろうか。

 両親が化け物だったから師匠はこんなに強いのか?

 この一家、人間じゃないんじゃ……。


 光夜が驚きも覚めやらぬまま母屋に向かっていると、

「光夜、江戸に熊はいないから」

 花月が振り返って言った。

「え?」

「お祖母様は江戸から出たことがないの。江戸に熊はいないから」

「……え?」

「稽古場以外でのお父様とお兄様の話は信じちゃ駄目。あの手の話はいつもなんだからね」

 ええ……!?

 光夜は別の意味で目を見張った。

「もしかして……花月も(だま)された事があるのか?」

「何度もあるわよ」

 花月が腹立たしげに言った。

「小さい頃、お父様やお兄様が深川にろくろっ首が出たとか目黒にのっぺらぼうが出たとかっていう度に江戸中走り回ってたんだから」

「…………」

 なんだそれは……。

 可愛いじゃねぇか……。

 幼い花月が与太話(よたばなし)を間に受けて江戸中駆けずり回っている姿を見たら弦之丞や宗祐が揶揄(からか)いたくなるのも無理はない。

 しかも二人共、真面目な顔で言うのだ。

 知らなければ誰でも本気にするだろう。

 あの二人にそんな側面があったとは……。

 そういえば初めて会った時も「お前の男か」なんて言ってたな……。

 けど……「何度も」って花月は気付くまでに何回騙されたんだ?

 光夜は頭を振りながら自室へ向かった。


 翌朝、花月と光夜は西野家の中屋敷(なかやしき)()ってきた。

 篠野に案内され、長い廊下を通って奥の部屋に通された。

「桜井殿が女性(にょしょう)であることは若様にはお伝えしておらぬ故、ご承知おかれたい」

「はい」

「若様がおいでです。くれぐれも粗相(そそう)のないように」

 花月と光夜はその場に平伏(へいふく)した。

 すぐに衣擦(きぬず)れの音がして文丸が入ってきたのが分かった。


「顔を上げよ」

 その言葉に(わず)かに顔を上げた花月と光夜は目を見張った。

 信之介が二人並んで座っていた。

 着ている物まで同じだった。

 光夜が訊ねるように花月を横目で見た。

 花月の視線が(わず)かに右に動いた。

 その時、

「その方らが桜井花月と菊市光夜か」

 左側にいた方が声を掛けてきた。

 花月の視線の通り右側が信之介だった。

 即座にどちらか当てた花月をすごいとは思ったが、同時に信之介がすぐに分かったということが不愉快でもあった。

「はっ」

 篠野が返事をした。

「信之介の言った通りじゃな。二人して目を丸くしている様は見物(みもの)であったぞ」

 花月は黙って頭を下げた。

「明日より、よろしく頼む」

 文丸が鷹揚(おうよう)に言った。


 西野家の中屋敷を出ると、

「なんだよ、今日からじゃねぇのかよ」

 光夜が不満をそのまま言葉にした。

「色々仕来(しきた)りがあるのよ」

面倒臭(めんどくせ)ぇな」

「こういうのにも慣れなさい」

「なんで花月は信之介が分かったんだよ」

「手に剣胝(けんたこ)があったでしょ。若様の方にはなかった」

 なるほど。

 確かに信之介の手には素振りで出来た剣胝がある。

 あの一瞬でそこまで見たのか……。

「じゃあ、もし信之介に剣胝がなかったら?」

「後は体付きとか。村瀬さんは剣術の稽古をしているから腰も()わってるし」

 花月は周囲をかなりよく観察しているようだ。


 稽古の後、花月と光夜は弦之丞に西野家の中屋敷に行ってきた事を報告した。

「そうか」

 弦之丞が頷いた。

 退席の合図だ。

 だが、花月はそのまま座っている。

 花月が座っているのに光夜が立つわけにはいかない。

 光夜も大人しく座っていた。

 やがて花月が、

「あの、父上も兄上も元気がないようですが、縁談が上手くいかなかったのですか?」

 と訊ねたのを聞いて驚いた。

 弦之丞も宗祐もいつも通りだと思っていた。

「断り(づら)い縁談が来ているのだそうだ。普段から世話になっている方で、その上御役目(おやくめ)にも()いているのだとか」

「ですが、うちの方が先では……」

「口約束はしていたが、仲人(なこうど)を立てて正式に申し込んだのはこちらの方が後だし、何より親としては御役目に()いている相手を選びたいだろう」

「そうですか」

 花月は明らかに気落ちした様子で部屋を()した。


「そういう事だったんだ」

 台所で夕餉を食べているとき花月が(つぶや)いた。

「え?」

 光夜が(はし)を止める。

「許婚にあの方を選ばなかった理由」


 許婚も従兄(あのかた)も親は御役目に就いていて跡継ぎではあった。

 だが御役目にも色々あって中には違う御役目に就くことも出来ず出世しても与力止まりという役職もある。

 与力というのは下っ端より一つ上、つまり一番下ではないと言うだけで()()役人なのは同じである。

 当然俸禄(ほうろく)も少ないし出世しなければ加増(かぞう)もない。

 いつまで()っても貧しい生活から抜け出せないのだ。

 許婚の父は御役目自体はそれほどではなくても異動(いどう)の機会がある御役目だった。

 許婚が上手くやれば大身の旗本になる機会に恵まれる可能性があったのだ。

 一方、従兄の父は与力より上には上がれない御役目だった。

 花月が稽古場を継ぐならともかく、嫁いでいくなら与力止まりの相手より出世出来るかもしれない御役目に()いている方が望ましいと弦之丞は考えたのだろう。

 大身の旗本になれば裕福とまではいかなくても金の心配をしなくても()むのだ。


 落ち込んでいる様子の花月に声を掛けるべきか迷ったが、気の()いた言葉は何も思い浮かばなかったので黙っていた。


 けど……。

 光夜の動きが読みやすいと言っていた理由が分かった。

 花月は常に周囲をよく観察している。

 これだけ辺りを注意深く見ているなら光夜の動きなど手に取るように分かるだろう。


       三


 翌日から西野家中屋敷で稽古が始まった。

 花月と光夜は信之介や文丸と共に庭で素振りをしていた。

「若、握り方はこうです」

 剣術指南役の夷隅(いすみ)が指導をしているが肝心の文丸は全くやる気がない様子で面倒くさそうに木刀を振っていた。

 その様子を見ていた花月が、

「夷隅先生、よろしいでしょうか」

 と夷隅に声を掛けた。

「菊市と村瀬の試合を若様に見ていただいてはいかがでしょう」

 夷隅もいい加減うんざりしていたのかすぐに花月の提案に乗った。


 光夜と信之介は三間の間を取って向かい合った。

 礼をすると互いに青眼に構えた。

 信之介と向かい合った瞬間、他のことは全て頭から消えた。

 二人は足の裏を()るようにして間を詰めていった。

 一足一刀の間境の半歩手前で止まり睨み合う。

 不意に池の(こい)()ねた。

 刹那、光夜が突きを放つ。

 信之介が光夜の木刀を弾くと袈裟に振り下ろした。

 光夜の肩の寸前で木刀が止まった。

「一本!」


 くそ! 今度こそ!

 二人は再度三間の間を取って向かい合った。

 先に動いたのは信之介だった。

「たぁ!」

 木刀を振り上げて面を狙った。

 光夜は木刀を弾く。

 二人の木刀が弾かれ合った。

 次の瞬間、二人は同時に二の太刀を放った。

 光夜は胴へ、信之介は面へ。

 わずかに光夜の方が速かった。

 信之介の胴に当たる寸前で木刀を止めた。

 信之介の木刀は、光夜の面の三寸上で止まっていた。

「そこまで!」

 夷隅が言った。

 光夜と信之介が木刀を降ろして礼をする。


 文丸は二人の試合に目を奪われていた。

 それを見た夷隅が、

「桜井、確かそなたは(わし)の教えを()いたいと申したそうだな」

 と声を掛けた。

「はい」

「新陰流の面影(おもかげ)はもうないが、それでも良いか」

「構いません」

「では、手合わせをしてやろう」

「有難うございます」

 夷隅は文丸が試合に興味を示したことに気付いて、この機に稽古をする気にさせようというのだろう。


 夷隅と花月は五間の間を取って向き合った。

 礼をすると、花月は青眼に構えた。

 夷隅は下段(かだん)に構えている。

 花月は一歩前に踏み出しながら八双(はっそう)の構えに変えた。

 普段は使わない構えだ。

 教えを請うための試合とは言え文丸が剣術に興味を覚えさせるためのものだから()えて()っているのだろう。

 二人は足指(あしゆび)()うようにゆっくりと距離を縮めた。

 一足一刀の間境の手前で止まると、睨み合った。

 花月の頬を汗が伝った。

 汗が落ちた瞬間、

「はぁっ!」

 花月が袈裟に振り下ろした。

 夷隅がそれを弾く。

 そのまま小手を放った。

 花月は右足を引き体を開いて(かわ)すと胴払(どうばら)いを掛けた。

 しかし夷隅は花月の木刀を弾くと、面に振り下ろした。

 花月の額の寸前で木刀が止まった。


「参りました」

 花月が夷隅に深くお辞儀をした。

 それから文丸の方を振り向くと、

「いかがですか、若様」

 と、静かに声を掛けた。

「……すごいな」

 文丸は言葉を失っていた。

「若様にも出来るようになります」

「まことか?」

「はい。お試しになりますか?」

「え、今か? 儂には無理じゃ」

「私が助言(じょげん)(いた)します。私の言うとおりに木刀を動かしてください」

 花月はそう言って文丸に木刀を持たせ、光夜に向かって頷く。


 光夜を(まね)き寄せて木刀の切っ先が()れる程近い場所に立たせた。

「光夜、面を」

 光夜は一歩踏み込むと、ゆっくり木刀を下ろした。

「上へ」

 文丸が言われたとおりに木刀を上に力一杯振り上げた。

 木刀がぶつかり合った。

 光夜は軽く振り下ろしたつもりだったが、文丸の木刀だけが弾かれる。

 文丸は何とか木刀を持ち上げて再度青眼の構えを取った。

「右へ」

 文丸が言われたとおり木刀を横に払う。

 再び光夜が文丸の木刀を弾く。

 文丸がよろける。

 文丸が体勢を立て直すと、

「一歩踏み込んで突き出す」

 花月が声を掛けた。

 文丸が言われたとおりに木刀を突き出す。

 光夜が軽く弾く。

 文丸が木刀に振り回されるようによろけた。


 そんな()り取りを(しばら)く繰り返した。

 そのうち文丸が肩で息を始めた。

 光夜は打ち込んでいいか分からず花月の方に目を向けた。

 花月が構わないと目配せしたので、そのまま小手を打った。

 文丸の手に当たる寸前で木刀を止めた。

「儂の負けか」

 文丸は木刀を下ろした。

然様(さよう)でございます。いかがでしたか?」

「面白かったぞ。剣術というのは楽しいものじゃな」

 文丸は頬を上気(じょうき)させて言った。

 目が輝いている。


「今回は私が助言させて頂きましたが、若様も上達なされば一人で戦えるようになります」

「先ほどの信之介達のようにか?」

「はい。勿論、稽古をずっと続けていけば、ですが」

「よし、儂は()るぞ」

「若、素振りも稽古のうちですぞ」

 花月達が()ないときに試合をしたい、などと言い出されては困ると思ったのだろう、夷隅が釘を刺した。

「分かっておる。しかし、たまには今のように試合をさせてくれるのであろう?」

「はっ。若が稽古を真面目になさって下さるのであれば」

 夷隅は仕方ないという感じで頷いた。

「では、やるぞ」

 文丸は勢いよく木刀を振り始めた。

 とはいえ、今まで真面目に剣術の稽古をしていなかった文丸は体力がなかったのであまり長時間は出来なかった。


 稽古が終わると花月達は文丸の座敷に招かれた。

 四人の前に(ぜん)が置かれ茶菓子と茶が載せられている。

 文丸の側に年配の女中が(ひか)えていた。

「花月は夷隅の教えを請いたいと申したそうじゃな。夷隅はそれほどすごい者なのか?」

「無論でございます。でなければ剣術師範は務まりませぬ」

「そうか。儂は今日初めて剣術が楽しいと思ったぞ」

「上達すれば更に楽しくなります」

「ならば早く上達したいのぉ」

 文丸が嬉しそうに言った。

 確かに花月は教え上手だ。

 乗せるのが上手いと言うべきか。


「日々の稽古を欠かさなければ……」

 殺気!

 光夜が文丸を押し倒すのと、花月が膳を掴んで棒手裏剣を叩き落とすのは同時だった。

 文丸の後ろに控えていた女中が悲鳴を上げる。


 花月は縁側(えんがわ)に駆け寄ると、懐に忍ばせておいた棒手裏剣を木の枝を飛び移っていく曲者(くせもの)に投げ付けた。

 一投、二投と立て続けに放つ。

 しかし、どちらも木の枝を飛び移って逃げていく黒い影には(わず)かに届かず木の幹に突き刺さった。

 あっという間に曲者は木々の向こうに消えた。


 廊下を駆けてくる足音がして「御免!」と言う声とともに警護の者達が駆け込んできた。

 花月は振り返って部屋の中を見回した。


「若様、ご無事ですか」

「なんじゃ、今のは」

「曲者にございます」

 畳の上に五寸釘の両側を尖らせたようなものが数本落ちていた。

「これは……」

棒手裏剣(ぼうしゅりけん)にございます」

「これが手裏剣か」

 文丸が手裏剣に手を伸ばそうとした。

()れてはなりませぬ。毒が()ってあるやもしれませぬ」

 花月が(せい)すると文丸は慌てて手を引っ込めた。

 警護の者が布で手裏剣を(くる)んで取り上げる。


「花月が投げたのも……」

「これと棒手裏剣でございます」

 花月はそう言って自分の棒手裏剣を文丸に見せた。

「そなたは忍びではないのであろう?」

「手裏剣術は忍びの者も使いますが、武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)の一つでございます(ゆえ)武士でも(たしな)む者がおります」

「では武士も手裏剣を持ち歩くものなのか? 信之介は持っておらなんだぞ」

「人によります。(わたくし)は手裏剣術が得意なので持ち歩いているだけにございます」

 花月は文丸の質問に色々答えていた。

 篠野に言われていた帰る刻限はとっくに過ぎているにも関わらず文丸の相手をしているのは再び襲撃されるかもしれないと警戒しているのだろう。

 やがて敷地の内外を確認し終えたのか篠野がもう大丈夫だというので二人は屋敷を辞した。


       四


 屋敷を後にして少し歩いた時、不意に目の前の壁の陰が()らめいた。

 二人が足を止めて身構える。

 (かたむ)いた()が空を金色(こんじき)に染めていた。

 雲が黄金色(こがねいろ)に輝いている。

 斜めの日差しは向こうが透けて見える薄絹(うすぎぬ)のようで建物が作る影の中を更に見え(づら)くしていた。


 ゆらり、と高い塀の陰の一部が動いた。

 花月と光夜は立ち止まる。

 それは完全に影と同化していて男か女かも分からなかった。

 ()いて言うなら小柄な体型というくらいか。

「何用か」

 花月が低い声で静かに訊ねた。

「西野家に関わるな」

 くぐもった声が応えた。

「今更手は引けぬな」

「そうか」


 言い終える前に二人の背後から棒手裏剣が飛んできた。

 花月と光夜が左右に飛び退()いた。

 地面に手裏剣が刺さる。

 影が()らめいた。

 光夜は影の気配を追って駈け出した。


 花月は光夜の背に向けて放たれた手裏剣を右手だけで握った脇差で叩き落とすと、左手で手裏剣を放った。

 そのまま踵を返すと光夜の後に続いた。

 数間ほど進んだ時、空を切る(かす)かな音が聞こえた。

 咄嗟(とっさ)に右に飛ぶ。

 手裏剣が地面に刺さる。

 地面に刺さった角度を見てさっきより近くから投げられているのに気付いた。

 もう手持ちの手裏剣はない。

 どちらにしても足止めにもならないなら投げるだけ無駄だ。

 向こうの方が足が速いならすぐに追い抜かれるだろう。

 追い越されたら光夜が挟み撃ちになってしまう。


 花月は足を止めて振り返ると追っ手の気配を探った。

 目を閉じて深呼吸をする。

 葉擦(はず)れとは違う(かす)かな音。

 花月は脇差を音より少し前に向けて投げ付けた。

 壁を蹴る音がして花月の前に年配の男が現れた。

 花月は抜刀した。

 男が手裏剣を放つと同時に脇差を手に突っ込んできた。

 速い!

 地面に転がって()けるのが精一杯だった。

 男が花月に刀を振り下ろした。


 光夜は影を追って走っていた。

 夕焼けになりかけの空が影の味方をしていた。

 建物の影は長く濃く道に伸び走り去る気配を隠している。

 見失わないように必死で追い(すが)る。

 こういうのを追い掛けるのは花月の方が得意なのだが背後にも敵がいるのだから仕方ない。

 花月はともかく光夜には走りながら手裏剣を()けるなんて芸当は出来ないし、となればどちらかが残って手裏剣の相手をするしかない。

 自分が残るべきだったかとちらりと思った。

 いくら走っても影には追い付けず、かといって引き離されることもない。

 これが花月なら手裏剣を投げて足止めしただろう。

 どうせいつも一緒にいるのだから自分より手裏剣術の得意な花月が持っていた方が()いだろうと棒手裏剣を全て渡してしまったことを後悔しながら小柄に手を伸ばしかけて、はっとして足を止めた。


 そうだ、花月しか持ってなかったのは二人が一緒にいると言うことが前提だからだ。

 引き離された!

 光夜は慌てて花月の方へと駆け出した。

 影は十分引き付けたと思ったのか追ってこなかった。


 刀が花月に振り下ろされる寸前、と言うところで男が後ろに飛び退()いた。

 飛んできた脇差が男を(かす)める。

 花月は転がったまま太刀を振るった。

 切っ先が男の(すね)を浅く切り裂く。

 男の足から血が流れ出した。


「花月!」

 光夜は花月に駆け寄った。

 男は踵を返して走り出す。

 花月は素早く起き上がると男を追った。

 光夜も後に続く。


 足の傷のせいか、男にさっきの影ほどの速さはない。

 二人と男の間が徐々に縮まっていく。

 不意に男が振り向くと花月達に向かってこぶし大の球を投げてきた。

 光夜が刀で払う。

 球が割れて中から何かが大量に飛び出してきた。

 二人は立ち止まって刀で払い落とす。


 光夜は全て振り払うと再び男の後を追って足を踏み出そうとした。

「光夜!」

 その声に足を止めて振り返ると花月が視線を足下に向けた。

 光夜も目を落とすと地面に撒菱(まきびし)が散らばっている。

 あの球から落ちてきたのは撒菱だったのだ。

 気付かずに走り出していたら足を怪我(けが)していた。

 顔を上げると男の姿はどこにもない。


「あいつらの狙いは若様か?」

「どうかしら。あの二人の実力なら殺そうと思えばもう殺してるはずだし」

「ならなんで俺達を狙ったんだ?」

「さぁね」

 花月はむくれたような表情で言った。


 機嫌が悪い花月を見たのは初めてだ。

 前向きでいつも笑っている印象しかなかったのだが怒りという感情も持っていたらしい。

 案外負けず嫌いだったんだな……。

 花月にしろ光夜にしろ今この場に立っていると言うことは負けたことがないと言うことだ。

 負けが死を意味する真剣勝負の世界で生きてきたのだから。

 弦之丞に二人で一人前と言われていたのを忘れてあっさり二手に分かれてしまったのは失態(しったい)だった。

 これでは森田に笑われても仕方ない。

 花月が立ち止まった時点で光夜もその場に(とど)まらなければならなかったのだ。

 危うく花月が死ぬところだった。

 あと少し気付くのが遅れていたら間に合わなかった。

 花月がいなくなっていたらと思うと改めて冷や汗が出てきた。


 けど……。

「俺達の勝ちだ」

「え?」

 光夜の言葉に花月が振り返った。

「俺達は斬られなかった。無刀の教えに従えば勝ったってことだよな」

 花月は意外そうな表情で(しばら)く光夜を見ていたが、やがて、

「そうね」

 と言って破顔(はがん)した。

「どうやら相手にとって不足はなさそうね」

 花月が不敵に笑った。

「ああ、そうだな」

 敵は相当手強い。

 ほんの(わず)かな隙が死に繋がる。

 今まで以上に気を引き締めなければ……。

 光夜は自分にそう言い聞かせた。

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