第二章
一
「ここがうちよ」
瓦葺きの土塀に両開き門。
旗本か。
門番は居ないから石高はそう高くない。
稽古が行われてるらしく、門の向こうから木刀を叩く音や気合いを入れる声などが聞こえてくる。
「あら、花月ちゃん」
若い女の声がして振り向くと、花月と同い年くらいの武家の娘が立っていた。
「あ、お唯ちゃん。今お裁縫の帰り?」
お唯と呼ばれた娘はしとやかそうな娘だった。
声も静かで落ち着いている。
「ええ。そちらは?」
お唯が光夜に優しい視線を向けてきた。
「新しい弟子よ。菊乃井光夜って言うの。光夜、お隣の藤崎家のお唯ちゃんよ」
「そう。菊乃井さん、よろしくね。またね、花月ちゃん」
「うん」
花月は唯に手を振ると潜り戸を開けて中に入り光夜を手招きした。
「こっちこっち」
花月はそう言って稽古場の横を通って母屋へ向かう。
玄関を開けると、
「只今戻りました」
と言って家に上がった。
「お帰りなさいませ」
中年の男が出てきて頭を下げる。
「この子は菊乃井光夜、内弟子になったから今日の夕餉からこの子の分も用意するよう、お加代さんに伝えておいて。光夜、中間の弥七よ」
花月は弥七に光夜を紹介すると家の中へ入っていく。
光夜が玄関口に立っていると花月が手招きをしたので後に続いた。
先に立って歩いていた花月が廊下の途中で止まった。
襖を開けると脇へ避けて光夜に中を見せた。
六畳ほどの広さだ。
「ちょっと狭いけど、ここがあんたの部屋よ」
「…………」
武家は屋敷だけは広いと聞いていたが、これが「狭い」部屋なのか……。
俺が浜崎のおっさんと二人で住んでた部屋より広いじゃねぇか……。
「この部屋で何人寝るんだ?」
「あんたの部屋って言ったでしょ」
「……俺一人か?」
「一人じゃ寂しい?」
「いや、そうじゃなくて……」
浜崎と長屋に住んでいた頃は元より伍助の家でも使用人達と雑魚寝だった。
それももっと狭い部屋で。
一人部屋なんて使った事が無かったので戸惑ったのだ。
「他には誰が居るんだ?」
光夜は話題を変えるように訊ねた。
「お父様とお兄様と、今の弥七と下働きのお加代さん」
「勝手に俺を弟子にして良いのかよ」
使用人が二人しかいないと言うことは内証――家計状態は良くないのだろう。
この屋敷の大きさならあと数人はいなければならないはずだ。
将軍直属の武士を直参と言うが、直参の武士というのは役職などにより雇わなければならない使用人が決まっている。
牢人ほどではなくても旗本や御家人も生活が苦しいという話は聞いていた。
だから本来は雇用していなければいけない使用人が必要になると臨時で雇うらしい。
「平気平気」
花月は気にした様子もなく言った。
「さっきのお唯ちゃんね、お兄様に想いを寄せてるの。お兄様も満更じゃないみたいだし、きっとお唯ちゃんが将来のお義姉さんよ。あんたも仲良くしときなさいよ」
その日が来るまでここにいるか分からなかったので廊下を歩いていく花月に随いていきながら曖昧に頷いた。
「そういえば流派聞いてなかったわね。どこ?」
「さぁ? 聞いた事ねぇな」
「そうなんだ」
格好こそ男みたいだが……。
話し方や内容を聞いていると中身は普通の娘なんだな。
「なぁ、あんたの話し方、武家ってより町娘みたいだな」
さっきから疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「私の母さんは上野の不忍池の近くの水茶屋で働いてたの」
花月の母親が流行病で亡くなった五歳の時まで町中で育ったため未だに武家言葉に慣れず話し方が町娘のようになってしまうのだという。
未だと言っても五歳の時からなら十年くらいは経ってるだろうに。
ちなみに、さっきの「お祖母様」は腹違いの兄の祖母らしい。
夕餉の支度が出来る頃、花月の父・紘空弦之丞と兄・紘陽宗祐が戻ってきた。
「お帰りなさいませ」
花月が迎えた。
光夜も花月の後ろで頭を下げた。
弦之丞も宗祐も背が高い。
鍛練を重ねた身体はがっちりしていた。
弦之丞は気難しそうで厳めしい顔付きをしている。
宗祐の方は精悍な顔立ちで中々男前だ。
半分とは言え花月と血が繋がっているだけはある。
けど……。
二人ともかなりの遣い手だ。
真剣で何度も人を斬り殺したことのある目をしていた。
それも一人や二人ではない。
真剣で人を斬り殺した経験があるかないかの差は大きい。
光夜も自分ではそこそこ遣えると思っていたが弦之丞や宗祐に比べたら赤子も同然だ。
「うむ」
弦之丞は頷くと光夜に視線を向けた。
殺気はない。
しかし全てを見透かすような目で見詰められると射竦められたように身体が強ばった。
「その者は?」
「新しい弟子で菊乃井光夜と申します。住むところがないので内弟子にして下さい」
え……。
やっぱ許可が必要なんじゃねぇか……。
それなのに先に部屋だの夕餉を用意しろだの勝手なことをして叱られないのか?
弦之丞は見るからに厳しそうな顔付きだ。
女子供でも容赦なく怒鳴り付けそうに見える。
光夜が固唾を飲んで様子を見ていると、
「また拾ってきたのか」
宗祐が苦笑した。
また?
弦之丞は、
「お前の男か?」
と大真面目な顔で花月に訊ねた。
え……?
光夜は思わず耳を疑った。ついでに目も。
厳格そうで、少しでも軽口を聞いたら張り飛ばしてきそうな外見からは予想も付かない言葉だった。
「違います」
花月は動じた風もなく済まし顔で答えた。
宗祐も平然としているところを見るとどうやらこの手のことを言うのはいつもの事らしい。
弦之丞は頷くとそれ以上何も言わずに奥に入っていった。
「精進するように」
宗祐もそう言うと弦之丞の後に続いた。
二
食事は弦之丞と宗祐が居間で、花月と光夜は台所で食べた。
「うちは知行取りだからご飯はいくら食べても大丈夫よ」
花月はそう言って微笑った。
「さっき、またって言ってたけど……」
「うん、あんたで三人目」
花月がなんでもないような口調で答えた。
「他の二人は?」
「出てった」
花月が軽く肩を竦める。
来るものは拒まず去る者は追わず、か。
見ず知らずの光夜をあっさり家に上げた理由は弦之丞と宗祐に会って納得した。
あの二人を相手にして敵う者は少ない。
どんな素性の者を家に上げても怖くないだろう。
内証が良くないからなのか元々質実剛健なのか家の中に高価そうな物は見受けられなかった。
もし値の張る物があるとしたら差料くらいだろうが、それこそあの二人から盗むのはまず無理だ。
食事が終わると花月は、
「じゃ、稽古場へ行こうか」
と言って立ち上がった。
こんな時間に? と思いながら光夜は花月に渡された胴着に着替えると香月と共に稽古場へと向かった。
稽古場で待っていると弦之丞と宗祐が遣ってきた。
その場にいたのは弦之丞と宗祐、それに花月と光夜の四人だけだ。
明かりは四隅の蝋燭しかない。
「まず、宗祐と花月で光夜に見本を見せてやりなさい。光夜はそこで見ているように」
弦之丞の言葉に光夜は稽古場の端に寄った。
花月は太刀を落とし差しにし、宗祐は丸腰だった。
花月は抜刀と同時に斬り付けた。
次の瞬間には丸腰だったはずの宗祐が花月の喉元に刀を突き付けていた。
宗祐が一瞬のうちに花月の太刀を奪ったのだ。
速い……!
花月の抜刀は辛うじて分かったが宗祐の動きは全く見えなかった。
何が起きたのか全く分からない。
光夜は呆然として見ていた。
真剣じゃねぇか。
しかも刃引きではない。
刃引きとは刃を潰して切れないようにした刀だ。
普通は稽古で真剣を使う場合でも刃引きを使う。
「光夜、花月と遣ってみなさい」
花月は光夜に太刀を渡し、自分も腰に差した。
二人は向かい合って立つ。
「光夜は抜刀していてよい」
その言葉に刀を抜いて青眼に構えた。
花月の剣捌きは速い。
どう攻めようか考えを巡らそうとした時には喉元に切っ先が突き付けられていた。
……え?
「光夜。敵は礼もしなければ考える時間もくれない。考えるより前に動け」
弦之丞が言った。
「はい」
光夜は返事と同時に花月に駆け寄り右腕だけで刀を突き出した。
片腕の分、普通より遠くまで剣先が届く……はずだった。
気付くと床に倒れ、胸元に剣先があった。
花月は突き出された光夜の刀を、体を開いて避け、肩を掴んで後ろに引き倒し、倒れる光夜の手から太刀を奪って突き付けたのだ。
花月は抜刀すらしていない。
「光夜」
弦之丞がこちらを向いて名を呼んだ。
「は、はい」
起き上がった光夜は思わず背筋を伸ばして答えた。
「昼間の稽古で磨くのは気力だ。しかし夜の稽古は違う。いかにして勝つか。勝つためなら何をしても構わん。蹴飛ばそうが目潰しをしようが、とにかく勝てばそれでよい」
「…………」
浜崎にはそんなことは教わらなかった。
だからどんな時でも刀以外で攻撃したことはない。
「……勝つためなら何をしてもいいのか?」
その言葉に弦之丞が頷く。
「花月、光夜に太刀を返しなさい。それから光夜に背を向けるように」
光夜は返された太刀を腰に差した。
花月が一間ほど離れたところで光夜に背を向けた。
花月は丸腰だ。
光夜は抜刀しながら花月に一気に寄った。
花月は振り向くと素早く光夜の横に移動した。
次の瞬間、太刀を奪われて脇腹に刃が当たっていた。
花月は刀を振り下ろした光夜の手を左手で押さえると右手で太刀の峰を押した。
光夜は刀を押されて手を放してしまった。
その太刀を花月が取り上げて光夜の腹を斬る直前で止めたのだ。
「光夜。今のが無刀取りと言って我が道場の秘技だ」
「秘技を今日来たばかりの俺に教えて良いんですか?」
弦之丞によると名称は違うが無刀取り自体はどの流派でも大抵はあるから別に知られても困らないらしい。
「我が流派には無刀の教えというものがある。今の技は無刀取りだが必ずしも今の技のことを言っているわけではない」
光夜は黙って聞いていた。
「無刀の教えとは敵に斬られないことを勝利とするものだ。剣の道とは、剣があってこそ開かれたものだが、刀を離れたところにも道はある」
弦之丞の言った事が完全に理解出来たわけではない。
ただ、この言葉はしっかり覚えておかなければいけないという事だけは分かった。
「大事なのは生き残ることだ。宗祐、花月と光夜の相手をしてやりなさい。花月は光夜に手ほどきを」
「はい」
花月が刀を持って稽古場の真ん中に立った。
「光夜?」
呆然と弦之丞を見ていた光夜は花月に名前を呼ばれてはっとした。
慌てて太刀を持って花月の横に立った。
「真横に立っちゃ駄目」
「え?」
「あんたは若先生の左後ろの死角になる辺りに立って。私が気を引くから隙が出来たら攻撃して」
信じられない思いで花月に言われたように宗祐の左後方に立った。
当然だが、二人掛かりだろうがどんな手を使おうが刀は宗祐に掠りもしなかった。
「今夜はこのくらいにしておこう。光夜は居間へ来るように」
弦之丞はそう言うと宗祐と共に母屋に引き上げていった。
着替えて居間へ行くと弦之丞が待っていた。
読み書きはどのくらい出来るかと訊ねられ、簡単な字くらいは、と答えると、
「それでは今夜からそれがしが教える」
と言って四書五経の『大学』を差し出してきた。
光夜が訳を訊ねると、
「大学は初学の門なりと云う事。凡家に至るには、まづ門より入者也。然者、門は家に至るしるべ也。此門をとおりて家に入り、主人にあふ也」
という答えが返ってきた。
全っ然、意味分かんねぇ……。
弦之丞はそのまま光夜に大学を教え始めた。
「光夜、明日の朝は早いからね」
弦之丞に就寝の挨拶をしに来た花月が、『大学』の素読を教わっていた光夜にそう言った。
朝は確かに早かった。
光夜は眠れないかと思ったが自分でも信じられないくらい熟睡してしまった。
こんなにぐっすり眠れたのは浜崎と長屋で暮らしていたころ以来だった。
警戒する必要を感じなかったからだろう。
弦之丞も宗祐も強い。
この二人程の手練れ相手だと警戒する気にもならない。
その気になれば光夜など一太刀で殺せる。
いや、太刀すら必要ない。
気付いた時には死んでるだろう。
死んだ後に気付けるものなのかはともかく。
ならば警戒するだけ無駄だ。
そう考えると気を張るのが馬鹿らしくなったのだ。
三
桜井一家は払暁に起きて素振りを始めた。
勿論、光夜もだ。
朝餉で一時中断し、終わるとまた素振りに戻った。
そのうちに午前の稽古の時間が近づき、弟子達が遣ってきた。
光夜は他の新入りの弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをしなければならない。
掃除が終わり、弟子達が集まると稽古が始まった。
光夜は浜崎に剣術を教わっていたと言っても稽古場で正式に習ったことは無いので花月に木刀の握り方から指導された。
稽古に熱中しているといつの間にか終わりの時間になっていた。
それを残念に思っている自分に驚く。
光夜は再び他の新米の弟子達と一緒に稽古場の雑巾がけをすると母屋に戻った。
「光夜」
花月に呼ばれて台所へ行くと焼飯の握り飯と漬け物が用意されていた。
「お腹すいたでしょ。これ食べて、午後の稽古に備えなさい」
そう言ってから、光夜が訝しそうな顔をしてるのを見ると、小首を傾げて、
「どうかした?」
と訊ねてきた。
「何が目的だ?」
「どういう事?」
「こんな事したって見返りなんかねぇぞ」
光夜の言葉に花月が微笑った。
こんなに優しい笑顔は生まれて初めて見た。
少なくとも自分に向けられたものは。
光夜は胸が痛くなった。
なんだろう、この気持ちは……。
何故か泣きたくなった。
勿論泣かなかったが。
「家族に見返りなんか求めてないわよ。こういう時はただ『有難う』って言えばいいの」
そう言って、花月は笑いながら人差し指で光夜の額を突いた。
何で……?
俺なんかそこらで拾った野良犬だろ?
死ぬまで戦い続けるしか能のない野良犬にこんなに親切にしてなんになるんだよ。
いくら考えても答えは出なかった。
「……あ、ありがと」
花月の顔がまともに見られなず、光夜は俯いて小声でそう言うと握り飯を手に取った。
旨い。
焼飯を握っただけの飯と漬け物なのに……。
「光夜、それ食べたら居間へ来て」
食べ終えた光夜が言われたとおりに居間に行くと花月が待っていた。
花月の前には畳まれた白に近い若芽色(薄い黄緑色)の小袖が置いてある。
「これね、お兄様が光夜くらいの年の頃に着てた物なの。着てみて。合わなかったら手直しするから」
光夜は花月から小袖を受け取ると袖を通した。
「ぴったりね。じゃあ、今日からこれ着て」
「……あ、ありがと」
「今、羽織と袴も仕立て直してるところだから。もう、二、三日待ってね」
花月が微笑みながら言った。
朝早く起きて素振りをし、朝餉の後また素振りをしてから稽古場で朝の稽古をする。
午後の稽古をした後、夕餉を食べてから夜の稽古をして、勉学をする。
光夜の毎日は規則正しく過ぎていった。
居心地が良すぎていつか出ていく日の事を考えると胸が苦しくなる。
こんな日がずっと続けばいいのにと願うが野良犬にそんな高望みが許されるはずがないとも思う。
悩んでいたら太刀筋の乱れを叱責されたので考えるのを止めた。
花月は相変わらず優しくて弦之丞や宗祐も口や態度には出さなくても光夜を家族として認めてくれているのは分かった。
最初は何か遣らせようとしてるんじゃないかと疑っていた。
だがいつまで経ってもそんな話は出てこない。
もっとも、どんな事であれ遣れと言われればやるつもりだ。
野良犬だって一宿一飯の恩は忘れない。
午前の稽古が終わり、母屋へ引き上げると花月が何やら忙しそうにしている。
「あ、光夜、これからお祖母様の家に行かないといけないの。一緒に来てくれる?」
「いいぜ」
汗臭いと不味いかと思い、部屋に着替えに行って戻ってくると花月が玄関で待っていた。
屋敷を出ると二人は並んで歩き出した。
「どう? 学問の方は順調?」
剣術の稽古は花月も一緒だから聞くまでもないが学問は光夜一人で教わっている。
「まぁまぁかな。最初に師匠に教わった『大学は初学の門也と云う事』とか言うのは未だに意味分かんねぇけど。『大学』にも出てこねぇし」
「ああ、それは『大学』は学問の基本だって意味。剣術に例えるなら素振りね。素振りが出来なきゃ剣術も出来ないけど、素振りだけ出来ても剣術は出来ないように、『大学』が分からないと学問も分かるようにならないけど、『大学』だけ出来ても学問が分かるようになるわけじゃないって意味」
「え、あんたも学問教わったのか!?」
光夜が驚いて振り返ると、
「あはは。まさか。女に学問なんか教えたりしたらお父様はお祖母様に生きたまま顔の皮剥がされちゃうわよ」
花月が笑って手を振った。
「字の読み書き程度ならともかく学問まではね。大学は初学の門也って言うのは西江院様の伝書に出てくる言葉。ホントはこれも私が読むのはマズいからお祖母様には内緒よ」
西江院とは柳生但馬守宗矩の事だそうだ。
今は別の者が但馬守を名乗っているから院号(戒名)で呼んでいるのだ。
「師匠達は知ってるのか?」
「教えて下さったのはお父様とお兄様だから」
師匠達が厳しいのって剣術の稽古に対してだけなんだな……。
特に花月には……。
話してみると確かに花月は学問に関してはほぼ何も知らない。
だが、それは女に教えるのは良くないと弦之丞が考えてるからと言うよりは花月が教えてくれと頼んでないからと言う気がした。
帰り道、
「あ、あそこで冷や水売ってる」
花月が通りの先にいる冷や水売りに目を留めた。
壁際に男が大きな桶を二つ置いて水を売っている。
夏になると冷たい井戸水を桶に入れて売り歩く冷や水売りを町のあちこちで見掛けるようになる。
所詮井戸水だし時間が経つにつれて温くなってしまうからそれほど冷たくはないのだが、代わりに白玉や、この時代では珍しい砂糖などが入っていて甘みが付いていることがあった。
「暑いから飲んでいきましょ」
光夜が返事をする前に花月は冷や水売りに声を掛けると二人分頼んだ。
武士が道端で冷や水など飲んで良いのかと思ったが、
「はい、これ」
花月は気にした様子もなく冷や水の入った器を差し出してきた。
まぁ、花月は〝武士〟じゃないしな……。
光夜は武士と言っても元服前の子供だ。
「あ、ありがと」
水はそれほど冷たくはなかったが甘かった。
道端に立って水を飲み干すと器を冷や水売りに返した。
「じゃ、帰ろっか」
家はすぐそこだ。
四
光夜が角を曲がろうとした時、花月が光夜の着物を引っ張って止めた。
「どうしたんだよ」
「しっ」
花月は口に人差し指を当てる。
花月が覗き込んでいる方を見ると家の前で宗祐と唯が居た。
宗祐は優しく笑いながら唯と話している。
あんな表情、花月にも見せたことないのに……。
光夜は驚いた。
宗祐は花月に甘いと思っていたが、どうやら唯にも優しいようだ。
そのうち二人は別れて宗祐は門の中に入っていき、唯は自分の家に帰っていった。
二人が居なくなると花月と光夜は物陰から出た。
「今度ね、お唯ちゃんの家に正式に縁談を申し込むそうよ」
花月は嬉しそうだった。
家族のいない光夜にはよく分からなかったが、花月が嬉しいなら良い事なのだろう。
「只今戻りました」
花月と光夜が家に入っていくと未だ玄関にいた宗祐が、
「お帰り」
と二人に優しく声を掛けた。
こんな風に誰かに「お帰り」と言われたのは初めてで戸惑った。
「あ……、た、只今……戻りました」
俺、ここに居ても良いのかな……。
「おい、菊乃井」
稽古が終わり、雑巾がけを始めようとしていた光夜を数人の弟子が取り囲んだ。
皆、十五、六歳くらいの花月に指導を受けている者達だった。
桜井家の稽古場では腕前によって弟子が分けられ初心者は花月が指導している。
光夜は黙って呼びかけてきた弟子を見た。
確か、吉田だったよな……。
「お前、生意気だぞ」
「花月さんを呼び捨てにするとはどういう了見だ」
弟子達が詰め寄ってきた。
「そっちこそ筋違いだろ。花月が呼び捨てにするなって言うならともかく、なんでお前らが言ってくんだよ」
「なんだと!」
「こいつ!」
光夜の背後にいた弟子が肩を小突いてきた。
それがきっかけだった。
光夜と弟子達はあっという間に乱闘になった。
「止め!」
花月の鋭い声に、光夜達の動きが止まった。
「花月」
「か、花月さん」
「何をしている!」
花月に睨まれて弟子達が小さくなった。
「剣士なら剣で決着を付けなさい!」
その言葉に光夜や弟子達は顔を見合わせた。
「ほら、何をしている。早く木刀を持ってきなさい」
言われて光夜と弟子達は木刀を手に取った。
「一本勝負。勝っても負けても恨みっこなし! 良い?」
「はい!」
吉田はそう返事をすると光夜と稽古場の真ん中で向き合った。
「始め!」
合図と同時に、
「いやぁ!」
吉田が気合いと共に打ち掛かってきた。
光夜は軽く弾くと面を打った。
吉田の額ぎりぎりのところで止める。
吉田はあっさり負けたことが信じられないような表情で突っ立っていた。
「一本。次、鈴木」
吉田が退き、鈴木が光夜の前に立った。
「始め!」
鈴木も合図と共に突っ込んできた。
振り下ろされた木刀を右足を引いて体を開いて避け小手を打った。
鈴木の木刀が転がった。
鈴木が悔しそうに手を押さえながら下がった。
「次、小林」「山本」「坂本」……。
弟子達は次々に敗退していった。
これで終わりかと花月が稽古場を見回した時、
「花月さん、拙者も菊乃井殿との手合わせを所望したいのですが」
稽古場の隅で光夜と弟子達との試合を見ていた村瀬信之介が言った。
花月が光夜に顔を向ける。
「俺は構わないぜ」
その言葉に花月が頷くと、信之介は木刀を持って光夜の前に立った。
光夜と信之介は三間ほどの間を開けて対峙した。
信之介は木刀を青眼に構えると、じりじりと間を詰め始める。
さっきまでの弟子達とは違う。
弟子達の背後で弦之丞と宗祐も見ていたが光夜は気付かなかった。
二人は徐々に進み、一足一刀の間境の半歩手前で二人は止まる。
先に仕掛けたのは信之介だった。
一気に間を詰めると面を放った。
それを弾きざま、小手へ。
弾かれた信之介は袈裟へ。
再度木刀が弾き合った。
二人は後ろに跳んで間を開けると、同時に技を放った。
光夜が突きを、信之介が面を。
またも木刀が弾き合った。
すかさず二の太刀を胴へ、信之介が袈裟に。
木刀がかち合った。
光夜は咄嗟に後ろに跳んだ。
信之介が追い掛けてくる。
光夜は逆袈裟に斬り上げた。
面に打ち下ろされた村瀬の木刀とぶつかり合い、弾き合う。
二人は後ろに跳ぶと、青眼に構えた。
「そこまで!」
花月が言った。
「この勝負、引き分けとする」
「花月!」
「試合はここまで。礼を」
花月の言葉に光夜は渋々頭を下げた。
「花月! なんでだよ!」
光夜は母屋へ向かう花月に随いていきながら食って掛かった。
「勝負は付いてな……!」
「付いてた。光夜なら分かると思ったんだけどな」
母屋の台所で花月が握り飯を出しながら笑みを浮かべて光夜の目を見る。
「真剣で遣り合ってたと仮定して思い返してみなさい」
ようやく花月の言わんとしていることが分かった。
確かにあれだけ打ち合えば刃はぼろぼろで斬れなくなっていた。
道場での稽古ならともかく実戦なら突くか殴るかになる。
信之介は稽古場での試合だけを考えるだけで良いが光夜は実戦を想定した稽古を受けている。
「……真剣なら俺が勝ってた」
稽古場の剣術と違い実戦では経験の差がものを言う。
実戦経験なら花月を除けば弟子達の誰にも負けないはずだ。
「光夜」
花月が真剣な顔で光夜に向き直った。
「武器――刀というのは人を殺すためのもの。殺人刀を、人を活かす活人剣とするのが我が稽古場の教えよ。むやみに人を傷付けることは我が稽古場の教えに反すること。戦わずに済むならそうしなさい。だから少なくとも稽古場では私のことは花月さんと呼びなさい」
「……分かった」
光夜は握り飯を食べ終えると午後の稽古まで庭で素振りをした。
夕餉が終わると花月と光夜はいつものように稽古着で稽古場へ立った。
光夜は腰に自分の刀を差していた。
「二人で手合わせをしてみなさい」
光夜が居合抜きで花月に刀を突きつけた。
花月の身体が沈んだ。
刀が空を切った。
花月は伏せると手を軸に身体を回して足払いを掛けた。
光夜が倒れる。
花月は素早く身体を起こすと光夜の脇差を抜いて光夜に突き付けた。
光夜が立ち上がると、
「もう一度」
弦之丞が言った。
光夜が刀を振り下ろした。
花月が光夜の脇差で受けた。
鍔迫り合いになった。
光夜が刀に力をかけた瞬間、前にのめった。
気付くと脇腹に脇差の刃が当たっていた。
花月は身体をずらしながら刀を下げて光夜の力を受け流し、そのまま前に進んで胴払いをしたのだ。
勿論、斬ってしまわないように刀を止めたが。
やっぱ花月に勝てるようになるのは大分先だな……。
稽古の度にそれを実感させられるが、それが励みにもなっていた。