第十章
一
光夜は向かい合った男に、
「すぐに応援が駆け付けてくるぞ。命があるうちに逃げた方がいいんじゃねぇの」
と言った。
「この屋敷にいる者の腕など高が知れておるわ」
男が嘲笑を浮かべる。
光夜は内心で舌打ちした。
今『夷隅だ』と言ったのが誰かは分からないが訛りからして西野藩の者だ。
夷隅以外に警戒すべき程の遣い手はいないのだろう。
次丸派もそれを承知しているから――というより先日の襲撃でその事に気付いたから屋敷内で襲ってきたに違いない。
それで夷隅の顔が分かる者が見張りをしていたのだろうし、庭にいる者達は夷隅の足止めをするためだ。
となると、この武士の言う通り、応援が駆け付けてきたところで大して役に立たないかもしれない。
人払いをしたのは万全を期す為というよりは一気にけりを付けたいからに違いない。
素早く事を運べば他の者達に知られずに済む。
知られていなければどうとでも誤魔化せると踏んだのだ。
光夜と男は同時に踏み込んだ。
互いに刀を弾き合って後ろに跳ぶ。
花月と対峙している武士が刀を横に薙ぐ。
それを屈んで避けると、刀身が頭上を通過した瞬間、片足を踏み出し右手だけで突きを繰り出す。
武士は後ろに飛び退きながら花月の刀を払うと、すぐに前に踏み込んで袈裟に斬り下ろした。
花月は片足を引いて体を開き武士の刀を躱すと下から斬り上げた。
武士が刀を弾くと花月の鳩尾に刀を突き出す。
花月が片足を引いて避ける。
空を切った刀身をそのまま横に払ってくる。
咄嗟に左手で脇差を抜く。
鞘から三寸ほど出た刀身が武士の刀を止めた。
花月が右手で刀を横に薙ぐ。
武士は後ろに飛び退きながら刀を振り上げて花月の刀を上に弾く。
立ち止まって花月と光夜の戦いを見ていた信之介は、加勢しても足手纏いになるだけだと判断したのだろう。
二人の間を抜けて文丸の元に向かった。
文丸の部屋では夷隅が三人の男と戦っていた。
男達を文丸に近付けないように防いでいるため防戦一方になっている。
信之介は抜刀すると庭への出口の近くにいる男に斬り掛かった。
男が咄嗟に信之介の刀を弾きながら飛び退いた。
隙が出来た男を夷隅が斬り伏せる。
信之介が文丸を守るように刀を構えた。
男達の視線が迷うように揺れる。
その瞬間、夷隅が低い姿勢で踏み込んで左の男の脇腹を割いた。
男が倒れる。
そのまま動きを止めずに身体を捻って右の男の首を刎ねた。
首から血を吹き出しながら男が倒れる。
夷隅は残心の構えのまま男達に近付き、止めを刺した。
「そなたの腕では拙者には到底及ばぬぞ」
武士が花月に言った。
「では実戦にて稽古を付けて頂こう」
余裕のありそうな口振りだが花月の表情は真剣なままだ。
実際には余裕など無いのだ。
花月の加勢に行きたいが、光夜の相手も手強く中々決着が付かない。
花月が大きく踏み込み刀を突き出す。
武士も鎬で花月の切っ先を逸らせながら踏み込んできた。
間合いを詰めながら武士が刀を振り下ろす。
花月が体を開いて躱す。
武士が花月の前を通り過ぎ様、身体を反転させると切っ先を跳ね上げた。
花月が後ろに飛び退きながら刀を弾いたが捌ききれず切っ先が花月の喉元を掠る。
首から血が滲む。
武士が返す刀で袈裟に斬り下ろした。
「花月!」
光夜が叫んだ。
避けきれねぇ!
最悪の事態が脳裏を過り顔から血の気が引くのが分かった。
その時、武士の刀が別の刀に弾かれた。
駆け付けてきた夷隅が武士の刀の峰を叩き落としたのだ。
「夷隅先生!」
「桜井殿」
夷隅が武士との間合いを詰め、更に刀を振り下ろす。
武士がそれを弾くと同時に夷隅が二の太刀を放つ。
速ぇ……!
次の瞬間には武士は首から血を吹き出しながら倒れていた。
「光夜!」
花月の声で我に返った光夜は危ういところで男の突き出した切っ先を弾いて避けた。
男の切っ先が際どいところで光夜の頭を掠める。
花月が光夜の方に向かって駆け出す。
だが、それより先に走り寄った夷隅が男を斬り倒していた。
辺りを見回すと他に立っている者はいない。
この男で最後だ。
まただ……。
一緒に居たのに守れなかった……。
夷隅が来なければ花月は殺されていた。
あれくらい強ければ花月を守れたのに……。
光夜は拳を握り締めた。
「桜井殿、ケガをされたな」
「遅れを取りました」
花月が恥じ入るように答えた。
「まずは手当てを。吉野もケガをした故、医師を呼んである」
夷隅はそう言うと花月と光夜を連れて文丸の部屋に向かった。
「不覚でした」
篠野が言った。
部屋には花月と光夜、信之介と夷隅、吉野がいた。
光夜達が文丸の部屋に行った時、奥女中が二人倒れていて文丸は遺体に縋って泣いていた。
篠野は縁談のことで話し合うために外出中だった。
本来なら篠野も一緒に始末するつもりだったようだが、いつもと違う行動に予定が狂ったのだ。
当主の使者が人払いをしたのを不審に思った側近の一人が篠野に使いを出した。
それで篠野は急いで戻ってきたらしい。
文丸は塞ぎ込んでいるという。
二
「信用の置ける者を、と考えて親しい者しかいなかったのが裏目に出ましたな」
篠野が言った。
二人とも文丸が子供の頃から仕えていたらしい。
「申し訳ありません。拙者まで離れるべきではありませんでした」
「奴らは最初に奥女中を殺しました。村瀬殿が居ても助けられなかったでしょう」
吉野が言った。
「女性の悲鳴は遠くまで届く故、真っ先に殺したのであろう」
夷隅が言った。
「しかし、屋敷の中でまで襲ってくるとなるとどうしたものか……」
篠野がそう言った時、襖が開いた。
「次丸に跡継ぎを譲ればこれ以上誰も死なずに済むのであろう。ならば……」
「若様、我らが若様を御支持しているのは先に生まれたからでも、変更の届出が大変だからでもありませぬ」
篠野が厳しい口調で文丸の言葉を遮った。
「若様が励んでおられる勉学は民のためのもの。次丸様はその辺がお分かりにならぬのか武芸ばかりで勉学が疎かになっております」
周囲の再三の忠告も聞かず武芸に明け暮れている姿を見て次丸に見切りを付けた者も少なくないらしい。
武家の内証はどこも苦しい。
万が一藩の財政が破綻したら煽りを食うのは家臣達である。
再仕官はまず無理なのだから藩が潰れたら家臣は路頭に迷う事になる。
大名の家族は冷や飯食いになってしまうとは言え親戚に厄介になれば済むが家臣はそうはいかない。
藩の存続は家臣達の方がより深刻な問題なのだ。
「当主は尚武の気風を大事にしてるんじゃねぇのか?」
「そうじゃ。次丸が武芸に励んでいるのは父上に褒められたからじゃ」
文丸が答える。
「儂の剣の腕では父上の期待には応えられぬ」
文丸が肩を落として言った。
次丸が武芸で褒められたことに引け目を感じているようだ。
剣術に興味がなかったのも、どうせ次丸には敵わないと言う諦めからかもしれない。
光夜にはよく分からないが、親がいる子供というのは褒められたり可愛がられたりしたいと思うものらしい。
年が近いと親からの関心を競い合ってしまうようだ。
だとしたら次丸が学問を疎かにしているのも兄には敵わないから得意な武芸を磨いているのかもしれない。
「いくら大事にしていると言っても限度があります。当主はいわば頭、家臣は手足です。手足があったところで指示をする頭がなければ動けませぬ。当主には警護の者が付くのですから身を守ることが出来るくらいで十分です」
夷隅が言った。
「とりあえず御前様とも相談してみますが……」(御前様=西野家当主)
誰が信用出来るか分からないとなると、書状での遣り取りは途中で握り潰されたり偽物と差し替えられない。
そうでなくても今日、書状を持ってきたという者が襲ってきたのだ。
書状の遣り取りは危険を増すだけだろう。
かと言って迂闊に屋敷を離れると今日のようなことになりかねない。
篠野達は溜息を吐いた。
夜、部屋に戻った光夜が夜着に着替えて布団に横になると猫が隣に来て丸くなった。
光夜がそっと撫でると猫が喉を鳴らした。
猫の体は温かかった。
生きているから温かいのだ。
稽古の後、花月に差し出された手を取ったときのことを思い出した。
花月の手も温かった。
今日、危うく失うところだったのだ。
翌朝、光夜は弦之丞達より早く起き出して素振りを始めた。
西野家の朝の稽古で文丸がいつになく真面目に木刀を振っていた。
光夜と同じだ。
自分にもっと力があれば守れた……。
文丸の稽古が終わり、花月と光夜が夷隅のところに行こうとすると信之介が随いてきた。
「学問するんじゃねぇのか?」
「拙者の役目は警護故……昨日もなんの役にも立てず若様の御女中が殺される羽目になった」
「…………」
信之介も光夜と同じ事を考えていたようだ。
「夷隅先生はあっという間に三人の曲者を倒されたというのに、拙者は……」
「そりゃ、夷隅先生は免許皆伝の後に廻国修行までしてるんだし、生きて帰ってきたって事は相当な腕って事よ」
花月が言った。
「生きてって……この泰平の世で生きるか死ぬかなんて、そんなにあんのかよ」
牢人なら食い詰めてと言う事もあるだろうが、宗祐は旗本の、それも金に困っているわけでもない武家の息子なのだ。
廻国修行中だろうとそうそう食うに困ることは無かっただろうに。
光夜ですらそこまでではなかった……気がする。
空きっ腹を抱えることも、飯代の心配もいらなくなったせいで気が緩んでいるのだろうか。
「勝負を挑まれて勝つと逆恨みされて闇討ちされたり人気のないところで大勢で待ち伏せしたりするって言ってたわよ。お父様やお兄様の言う事だからどこまでホントか分からないけど」
「師匠達は花月さんに惨い話はされないのですね」
信之介が「さすが師匠と若先生」と言いたげな表情で頷いた。
そうじゃねぇだろ、と言い掛けてから、信之介は稽古場での弦之丞達しか知らないと気付いた。
そうか、信之介は師匠達が冗談好きなの知らねぇのか……。
信之介の知っている弦之丞や宗祐は厳格で毅然とした姿だけだ。
まぁ、あの顔でふざけたこと言うとは思わねぇよな……。
ていうか花月の死ぬか生きるか、みたいなのは師匠達のせいか……。
弦之丞や宗祐から廻国修行の時の話――どこまで本当か分からないが――を聞いていたからやたら殺伐としているのかもしれない。
「ま、とにかく、夷隅先生は手が塞がってるみたいだから二人で試合をしてみなさい」
花月がそう言うと、光夜と信之介はすぐに木刀を持って向かい合った。
隙が無くなった……。
光夜は信之介が以前より腕を上げているのに気付いた。
互いに相手を見据えながら、にじり寄っていく。
あと半歩で間合いに入る、というところで光夜は大きく踏み込んで小手を打とうとした。
信之介がそれを弾いて二の太刀で胴を払う。
木刀が胴に当たる直前で止まる。
くそ……。
「一本」
花月が言った。
光夜と信之介は元の場所に戻ると再び木刀を構えた。
足の裏を擦るようにしてじりじりと前に進む。
間合いに入る少し前で止まると睨み合った。
光夜は僅かに切っ先を下げた。
それに誘われた信之介が木刀を振り下ろす。
光夜は振り上げる木刀に信之介の木刀を当てて信之介の切っ先を逸らし、そのまま踏み込んで面を打った。
信之介に額に当たる直前で木刀を止める。
「一本」
全然強くなってねぇ……。
これじゃ花月を守れねぇ……。
光夜に力がなければ次に強敵と戦った時、花月は命を落とすかもしれないのだ。
三度、光夜と信之介は向き合った。
三
互いに本気で打ち掛かっていく。
二合、三合と打ち合っているうちに、いつしか光夜は信之介に昨日の敵を重ねていた。
木刀を弾いた光夜がそのまま踏み込んで勢いよく木刀を信之介の喉元に突き出す。
光夜の気迫に押された信之介の対応が遅れた。
「そこまで!」
と言った花月の声は、光夜の耳に入らなかった。
信之介が避けきれなかった木刀の切っ先が喉に届く直前、木刀を打ち落とされた。
花月と夷隅が同時に光夜の木刀を叩き落としたのだ。
その瞬間、光夜は我に返った。
「あ……済まねぇ」
信之介に頭を下げる。
危うく信之介を殺してしまうところだったと思うと冷や汗が出る。
「い、いや……気にせずともいい。それだけ真剣だったのであろう」
信之介が気を呑まれた様子で答えた。
「今日はこの辺にしたおいた方が良いであろう」
夷隅が言った。
「あ、それでは拙者は若様の様子を見て参ります」
信之介はそう言うと文丸の部屋に行ってしまった。
「皆、昨日の夷隅先生を見て思うところがあったのね」
帰り道、花月が言った。
花月も同じ事考えて……。
「夷隅先生、やっぱり柳生新陰流からそんなに変わってないと思うわ」
「そこかよ!」
「昨日、夷隅先生が当主は頭で家臣は手足って仰ってたでしょ。あれ、西光院様のお言葉なのよ。宮本武蔵も同じこと言ってたって話だけど」
ここまで剣術しか見えてねぇのもある意味すげぇな……。
光夜は呆れながら花月を見た。
全力を尽くした勝負の結果なら負けて命を落としたとしても悔いは無いし、それは他の者でも同じなのだろう。
だから光夜が危うく信之介を死なせ掛けた事を叱責しないのだ。
剣を持って戦う以上死を覚悟しなければならない。
本番では真剣で戦うのだから「稽古だから」は通用しない。
稽古だろうと戦って命を落としたらそれは自分の力が及ばなかったからだ。
精一杯戦った末に負けたのならそれは相手の方が強かったから仕方がない、と。
その代わり手段は選ばないようだが。
勝つためならどんな手でも使うからこそ、負けた時は「力及ばず」と潔く諦められるのだろう。
敵の金で手先買収しようとするくらいだしな……。
しかしこんな風に割り切ってしまっているのでは光夜の悩みを解決する助けにはならない。
その夜、稽古場で花月と光夜はいつものように宗祐を相手に稽古をしていた。
相変わらず宗祐は軽く身体を避けるだけで殆ど動いていないにも関わらず二人の刀は掠りもしない。
せめて一太刀だけでも……。
そう思って闇雲に刀を振っていると弦之丞が、
「そこまで」
と言って止めた。
「太刀筋に乱れがある。今日はここまでにしよう」
弦之丞が光夜に言った。
「待って下さい! 俺は……」
「無闇に剣を振るったところで意味はない」
そう言うと弦之丞は母屋に引き上げていった。
光夜は、花月と共に稽古場の片付けを終えると、一人で学問のために弦之丞の書斎に向かった。
「師匠、どうすれば腕を上げられるのですか。俺はもっと早く強くなりたいんです」
光夜は弦之丞に向かって真剣な表情で訊ねた。
「早く上達する術は無いから教えようがないが、遅くするものは教えられる。それは迷いだ。悩むのは構わぬが、それが迷いになるとそこで歩みが止まる」
「迷い……」
「剣を持ったら迷うな。僅かな躊躇いが命取りになる」
翌日、文丸の稽古が終わると信之介は一緒に学問をするからと、夷隅の所へは来なかった。
昨日、危うく死にかけたことで思うところがあったのかもしれない。
西野家からの帰り道、二人はお祖母様の家に向かっていた。
以前、花月が本所に強盗が入ったと聞いた時は弦之丞も宗祐も聞き流していた。
強盗に入られたのは近くにある町人地の商家か大きな武家屋敷のどちらかだろうと考えていたようだ。
しかしお祖母様から強盗が入ったのは商家でも大きな武家屋敷でもなく、近所の仕舞屋で、しかも被害に遭ったのは一件だけではないから捕まるまで泊まりに来てほしいと頼まれた。
何度も。
最初は無視していたのだが矢のような催促で仕方なく弦之丞が花月と光夜に「ほとぼりが冷めたら呼び戻すから」と泊まりに行くように言ってきたのだ。
それで二人は西野家からお祖母様の家に向かっていた。
「なぁ、あんたは迷う事ねぇ?」
お祖母様の家に向かう途中、光夜は花月に訊ねてみた。
悩みと迷いの違いというのも今一つ分からない。
「剣を持ってるときはないわね。一寸でも迷ったら死ぬんだから」
出た……。
花月の〝生きるか死ぬか〟
「いくらなんでもそんなにしょっちゅう殺し合いしてるわけじゃねぇだろ」
光夜は呆れた視線を向けた。
俺だって毎日斬り合ってたわけじゃねぇぞ……。
「なんでそこまで極端なんだよ」
「なんでって、躱しきれなかったら痣が出来るのよ。骨が砕けないように手加減されてるからその程度で済んでるけど」
手加減しても痣が出来る程ってホントに容赦ねぇんだな……。
「……あんた、剣を習い始めたのっていつから?」
三年前には男の格好をしていたならそのころ既に剣を習っていたと言うことだ。
「お父様に引き取られてしばらくしてから。見よう見まねで木刀を振ってたらお父様とお兄様が指導して下さったの」
五歳の娘に剣術の稽古付けたのかよ……。
光夜が浜崎に剣術を習い始めたのもそのくらいだが花月は女だ。
「多分、小さい子の相手をしたことがなくてどう対応したらいいのか分からなかったんだと思う」
光夜の呆れ顔を見た花月が苦笑しながら言った。
若先生の母親はもう居なかったのか……。
四
花月と宗祐は十歳以上年が離れている。
文丸と次丸のように張り合うことがないのも男女の違いがあると言うだけではなく、親子に近いくらい年が離れているからと言うのもあるようだ。
男所帯だったところに突然幼い女の子が来て戸惑ったのだろう。
弦之丞の妻が居なかったのなら尚更だ。
剣の稽古に明け暮れていたなら童女どころか男児ですら相手はしたことがなかったに違いない。
稽古には子供も来るとはいえ剣術の指導だけでいい弟子と、生活を共にする家族では勝手が違う。
「私もそれまで町人として暮らしてたから武家の屋敷に連れてこられてどうすればいいのか分からなかったし」
童女との接し方が分からず困惑していた時に花月が弦之丞達の真似をして木刀を振っているのを見て、剣術の指導なら自分達にも出来るからと教え始め、ようやく打ち解けることが出来たのだろう。
「お父様達と普通に話せるようになってから母さんと観にいった柳生十兵衛の芝居の話をしたら廻国修行の話を聞かせてくれたの」
そこに繋がってたのか!
花月が芝居で観た柳生十兵衛の話をしたのを聞いて、弦之丞達が知っている剣豪の逸話や廻国修行の話などを面白おかしく話して聞かせたのだろう。
花月がその話を喜んで聞いていたなら相当話を盛っているのは想像に難くない。
しかしそうやって他愛ない話をしたり稽古をしたりしているうちに娘、妹に対する愛情が湧いたのだろう。
だからこそ稽古では痣が付くほど強く打つのだ。
真剣勝負の敗北は死を意味する。
躊躇ったら負ける。
迷えば痛い目を見ると思えば躊躇わなくなる。
剣を持つことを許すなら常に死の危険が付いて回るのだから花月を失いたくないなら戦いの最中に躊躇して負ける事のないようにさせるしかない。
とはいえ、やはり泰平の世でそこまで極端な考えが必要なのかとも思うのだが……。
たまに江戸の外で火付盗賊改が盗賊団を捕えてきた時などに読売が出るくらいだし、火盗改は加役――他の御役目との兼任である。
加役で済む程度だし強盗と火付けの取り締まりの両方を兼ねているくらいなのは強盗がそれほど多くないからだと思っていたのだが。
もしかして江戸の外はまだ乱世の時代並みに殺伐として危険なのか?
光夜は首を傾げた。
「お祖母様、お久しぶりです」
花月がお祖母様の向かいに座って頭を下げた。
「花月さん、いつまでそのような格好をしているつもりですか」
「そう仰られても剣を持てなければ警護は出来ません」
「あなたがする必要はありません! 何故弦之丞か宗祐が来ないのですか!」
お祖母様は苛立たしげに花月に小言を言い始めた。
なるほど……。
弦之介や宗祐の顔が見たくて強盗に託けて警護を頼んだのだ。
そういやお祖母様への届け物とかもいつも花月が来てるしな……。
再三の催促にこれ以上無視していたらお祖母様が家に押し掛けてきそうだと思ったから花月と光夜を寄こしたのだろう。
しかし師匠も若先生もそこまでして会いたくねぇのか……。
まぁ確かに説教はうるせぇけどな……。
二晩ほどお祖母様の家に泊まったあくる日、稽古が終わって文丸が学問のため部屋に戻ると明日は文丸が出掛けるから朝の稽古はないと告げられた。
以前から予定されていた所用らしい。
見舞いの時と違い、顔見知りがいるので信之介が代わりに行くことは出来ないそうだ。
「夷隅先生はいらっしゃらないのですか?」
「無論、儂も行く」
ただ、この前花月と光夜が遣ったように同じ方向に行く振りをして少し離れて随いていくとのことだった。
文丸の時だけ同行して影武者の時は行かないとなれば夷隅が居るかどうかで判別が付いてしまう。
前回の信之介の時、夷隅は屋敷に残って文丸の警護をしていたのだ。
文丸が屋敷に残っていることを知っていた者は一握りとは言え、万が一次丸派に気付かれた時の為に文丸が隠れている部屋の近くでもう一人の警護の者と稽古をしている振りをしながら襲撃に備えていたのである。
文丸は夷隅の近くだと悟られるのはマズいので、明日は部屋に籠もっている振りをして屋敷から抜け出すらしい。
警護の者達は全員文丸と同じ黒い羽織を着用する。
襲撃があった時、文丸が警護の武士の中に紛れるためである。
文丸を含め、全員が笠を被って同じ羽織を着ていたら誰が本物か分かり辛い。
特に信之介は、親しくしている光夜ですらすぐには分からなかったくらい似ているから襲撃者が文丸とかなり近しい者でない限り、どちらが本物か区別出来ないだろう。
「では我らも夷隅先生にお供致します」
「なら俺も同じ羽織借りて持ってった方が良いよな」
花月は長い髪を見れば一発で分かってしまうから傘や羽織を身に着けたところであまり意味はないが、光夜は同じ羽織を着れば紛らわしい者が一人増える。
光夜がそう言うと夷隅が光夜の分の羽織も自分の中間に持たせると言ってくれた。
夷隅は違う羽織を着ていく。
警護と同じ羽織では離れていても警護だと一目でバレてしまうからだ。
それなりの武士は中間を連れて歩くもので、御役目によっては中間の持っている箱に着替えが入っている。
急な臨場がある町方の与力などは、緊急の時に着用が必要な物を中間に持たせておいて、急いで駆け付けなければならなくなった時に中間から受け取って着るのである。
だから夷隅が中間を連れていても不自然ではない。
いざという時は中間から受け取った羽織を着て駆け付けるのだ。
花月と光夜は夷隅と翌日の打合せをした。
西野家からお祖母様の家に戻ると弦之丞から用があるので帰ってくるようにと言う使いが来たと告げられた。
「では明日は向こうに戻ります」
花月はお祖母様にそう答えた。
「なんで今日帰らねぇんだよ」
お祖母様のいる居間から離れたところで訊ねた。
「夕餉の用意してるなら今日帰ってくるように言ったはずよ。今夜は夕餉抜きで良いの?」
確かに急ぎの用はないのだろうが、たった二日で使いをよこしたのは早く花月に帰ってきて欲しいからではないのだろうか。
端からは素っ気ない態度に見えるが話を聞いているとかなり可愛がられているように思える。
お祖母様の小言に煩わされているかもしれないからと言う気遣いか、身代わりにしてしまった後ろめたさからかもしれないが。
花月が気にしてねぇなら別にいいけど……。
説教されるのは花月だけで、ただの付き添いの光夜は何も言われないから的になってる当人が平気だというのなら構わないのだが、弦之丞達は首を長くして待っているのではないだろうか。
「無事に戻れたな」
笠を被った夷隅が言った。
花月と光夜、夷隅は最後尾から少し離れたところを歩いていた。
籠が西野家下屋敷に入っていく。
人が大勢いるところで乱闘した挙げ句に襲撃を指示したのが次丸派――つまり西野家の者だと御公儀にバレたら家が取り潰されかねない。
御公儀が御家騒動に口を出すのは問題が起きた家から仲裁を訴えられた時だけで頼まれなければ家中で殺し合ったところで何も言わない。
それで跡継ぎがいなくなってしまったりすれば結果として取り潰されてしまうが。
しかしそれはあくまで内々で済ませた場合の話であって江戸の町中で乱闘をしたりしたら別である。
町中での乱闘は厳罰に処されたからである。
無くなってしまった家は継げないのだから御家お取り潰しになるような事はするはずないが人通りの少ないところは危険だ。
御公儀の耳に入らないように済ませられそうな場所では襲われる危険がある。
大名屋敷が並ぶ一角に入ってからは警戒していたが今日は何事もなく帰ってこられた。
自室に入るのを見届けるまで気を緩めるわけにはいかないが大丈夫だろう。
文丸が部屋に戻ったのを確認すると花月と光夜は帰路に就いた。




