【荊の逃走】
外は雲ひとつなく、暗闇に包まれている。今夜は新月で、か細い星の光だけが暗闇を灯している。風が少し吹き、草がざわめく。
横たえていた身体を起こし、外を見据える。ついにこの日が来てしまった。
扉が音もなくゆっくり開くと、見慣れた従者の声がする。
「蝶京さま、まもなく丑三つ時になります……」
「えぇ、起きているわ」
私が布団から起き上がると、従者はゆっくりと近づいてくる。
「本当に……良いのですか?」
従者はさっきまで私が寝ていた布団の中に藁を結って作った人形を忍び込ませながら問う。
「こうするしかないのよ。お父様が亡くなられて、関楼おじさまが王座に就かれれば、私を宮中に置いておく必要はなくなるもの。それに……」
私は一度目を伏せ、言葉をゆっくりと続ける。
「それに……領土拡大のために、敵国に私を送りつけて、戦わずに利益を得ようと考えていらっしゃるみたいだもの……」
叔父の閑楼が王位を継ぐのは三日後で、民衆の前で正式に継承することになっている。
「蝶京さま、私は蝶京さまの味方です。なにがあっても……」
私が寂しそうに感じたのか、彼は私の手を強く握っていた。
「大丈夫よ、白蓮……。私、もう一七よ? 自分の行くべき道くらい、自分で決められるわ」
彼は心配症だから、いつも私のそばにいた。だが、今夜私は一人でいかなくてはならない。
「蝶京さま、こちらをお持ちになってください」
そう言いながら彼は私に短剣を差し出した。
「本来ならあなたをお一人で行かせるのは危険で、許されないことです……。せめてこれをお持ちになってください」
「私、剣なんて必要ないわよ。だって私は……」
私は、バケモノだから……。
「蝶京さま、お願いします……。私が少しでも安心するために……」
彼は私の目を真っ直ぐ見つめている。私はいつも彼を困らせてばかりだ。
「うん……」
ゆっくりと手を伸ばし、短剣を受け取る。
「今なら警備も薄いです。宮殿から出るまで、お送りします。準備ができたら行きましょう。部屋の外にいます」
彼は布団の上に平民が着るくらいの質素な着物を置いて部屋から出て行った。
私は今から、この宮殿から脱出する。そのために見つからないようにこの真夜中に部屋を抜け出す計画を立てていた。
従者が置いていった服も、計画の一つだ。派手な着物や質の良い生地の着物では、たとえ宮殿から抜け出せても目立ってしまい、途中で捕まってしまう可能性が高くなる。目立たず平民に紛れながら逃げるために、服を着替えるのだ。
「お待たせ、白蓮……。行きましょう」
扉を開けると、私の大切な従者がいる。この宮中で父が亡くなった今、唯一信じられる人だ。
「……はい。こちらです、蝶京さま」
彼は常に落ち着いていて、物静かだが、今日はいつもより声が低く感じられる。きっと、心配させてしまっているのだ。
私は少しでも彼の気持ちを落ち着かせたくなり、彼の手をなにも言わずに掴んだ。
「蝶京さま……?」
「離れるまで、繋いでいてもいいかな……?」
彼は少し驚いたような顔をしていたが、すぐに表情は和らぎ、手を握り返された。
「もちろんです、蝶京さま」
私たちはゆっくりと歩き始めた。灯のない、路を……。