8 命の値段
自分は一体いくらなんだろう、って思ったことないだろうか。
それなりに金銭面には苦労してきたと自負している私はお金が好きだ。前は『大好きだ』といっていたけれど、最近はそれが本当に好きな人には失礼に当たるかもしれないと思い『好きだ』程度にとどめている。
自分の値段の計り方はいくつかある。例えば、交通事故にあったときの保障。よく宣伝で言っている『対人対物無制限』とかいうあれ。
自分が運転していた車が、事故で民家に突っ込んでしまいました。思いもよらない豪邸で、直すのにン億万円かかります。ほとんどの人はそれを支払えないけれど、この保険で対物補償無制限に入っていたおかげで自費の支払いはありませんでした、めでたしめでたし。というやつだ。
が、それは事故を起こしたほうのこと。家に突っ込まれた人はどうか。本当に元通りに直せるだけの補償が受けられるのか。補償の方法にもよるが、その家が築何年であったかで、減価償却されていたりする。ようするに、新築だったらその値段だけど、そのあと使ってるんだから今はその価値ないでしょ? ってことで、現在の価値でしか補償されなかったりする。作り直すんだから、同じ値段はかかってもね。まぁ、これはその内容によるので、一概には言えないんだけど。
では、人命だった場合どうでしょう。
損害保険に基づいた話をしたい。生命保険ではこの限りではないです。
やはり、お金で対価として補償する限り、それぞれ値段がつくわけです。今後、何年働けたか。そのまま生存し続けたとして、いくら稼げたか、なんて事が大切になったりする。そういうことは実は、約款という、これでもかってほど小さい字の説明書みたいなものに書いてあるので、その辺をご参照ください。
そういう『これから一生涯、いくら稼げるか』が、果たして本当に自分の値段なのだろうか、と思ったことがある。
逆から考えたというのが正しいかな。
お金がお金を稼ぐ、という考え方がある。いわゆる投資だったり、金利というものだ。百万円を銀行に預けておけば、一年後にいくらになっているか、というやつ。現在はごく低金利なので、百万円を銀行に一年預けても百一万円になることも難しい。利子が一パーセントもつくってことだから。
預けているだけで、増えるなららくちん、かもしれない。ならどうして増えるのか。それは預けたお金が働いているから。
あなたが預けた百万円は他の人の百万円と集められて、また他の人に貸し出されている。借りた人は一年借りて、金利を払う。そこから間に入ってくれた人への手数料やら何やらを引いて貸してくれた人への利益として金利が支払われているわけだ。
いってみれば『百万円くん』は一年働いて金利の一万円を稼いだのだ。
じゃあ、例えば年間三百万円稼ぐ人の価値はいくらだろう。仮に『百万円くん』が一年働いて一万円稼ぐのなら、一年で三百万円稼ぐ人は『三億円くん』なのであってもおかしくないのではないか。
うん、いじわるな算数の問題みたいになったけれども。
大人になってお金に触れる機会がどんどん増え、それによって苦労もすれば、楽もするようになると、どんどんその魔力に取り付かれていく。いつしか、生きるためにお金を稼いでいるのか、お金を稼ぐために生きているのかすらわからなくなるときすらでてきてしまう。
私はいまいったいいくらなんだろう。
もしも私が、死んでしまったら、あと何年いくらの年収で働けたかで、私の対価は決まる。ということは、ピークを超えたら、私の価値は減っていく一方だということだ。また、職についていなかった場合も、今後の可能性はたとえばすでに就職が決まっていたというような現実的でない場合、希望的観測はそこには反映されないはずだ。生きていれば、たぶん得られた知識や経験や楽しい時間は無視される。
私の対価として払われたお金を、
「お金ではなく、あの人を帰してほしい」
と誰か一人でも言ってくれたら、それが本当の私の価値なのかな、と思う。願わくば、いくら積まれても、『金より本人を返せ』といわれたい。