5 ト書きな文章
私にはト書き形式の文章にものすごーく嫌な思い出がある。
高校のとき、シェイクスピアを読んでレポートを書くという課題がでた。中間か期末か、そのテストに準ずるくらい重い配点にすると、言い渡されていた。
読書家だった私は当然、シナリオもたくさん読んでいた。当時は邦画に勢いがあり、その映画をシナリオでまとめたものがたくさんでていた。間に映画のシーンが挿絵として載っていて、楽しい読み物だった。
なんだ、らくちーん、と思って、一冊買ったのだけれども、これが一切頭に入ってこない。
まず第一に、人物の名前が覚えられない。最初に出ている、人物紹介を何度も何度も見直しながら読み進める。ううん、もどかしい。
第二に、いいまわしが難しい。古典だから当たり前なんだけど、何をいっているのかさっぱりわからない。
第三に、『夏の夜の夢』とか『じゃじゃ馬ならし』とかせめて喜劇ならよかったのに、そこは学校の課題、四大悲劇の中の一つでなくてはいけなくて、私が読んでいたのは『ハムレット』か『リア王』。設定すらよくわからない。
頑張った。私は頑張った。負けるものかと、何度も何度も前に戻り、どこまで読んだかわからなくなりながらも、戦った。シェイクスピアなる古代人に負けてなるものかと。が、敢無く降参した。そして考えた。どうして、日本のは読めたのに、シェイクスピアは読めない。生きるべきか、死ぬべきか……
はたと気づいた。今まで読んできたシナリオは、すでに誰かが演じたものを見たことがある。頭の中でその役者が台詞をしゃべる。シナリオには『雑然とした部屋』としか書いていなくても、映画の中の部屋が浮かぶ。ものすごく細かいところまで映し出された部屋の中が。その上、原作も読んでいたりする。私はシナリオを読んでいたのではなく、映画を思い出していただけだった。
今でもときどき、小劇団の台本を見せていただく機会がある。実は苦手。まずはじめに、人物紹介をよく読んで、心の中で勝手にキャスティングしてから読み始める。ミスキャストだと、全く頭に入ってこなくなるので、もう一度キャスティングしなおす……と繰り返す。
小説は映画に比べて便利だなぁと思う。だって細かいこと書かなくていいんだもの。自分の中にイメージはあっても、たとえばその部屋の中にブラジャーやパンツが干してある一角があろうがなかろうが、そこが話の中に直接関係なければ、書こうが書くまいが作者の勝手。関係なければ書かないほうがよい場合さえある。
全編オール会話でお送りされている物語に入り込めないのは、もうひとつ理由がある。
たとえば学園物をうたった作品の中で、片手にはまちを、反対の手にはバットを持った友達に遭遇したとする。
「……なにやってんの?」が現実的な反応で、
「片手にはまち持って、もう片方にはバット持って……お前なにやってんの?」はどうしても不自然な気がしてならない。黙って考えてるつもりなのにいつのまにか口に出ているけれどそれ自体にも気がついていないうちの母みたいなことになっている。おかしい。学園物のイメージは一気に吹っ飛ぶ。もちろんキャスティングできない私の頭には一切内容が入ってこない。
あんまりに苦手だからいつか書いてみようとは思ってるけど、自信がない。シェイクスピアは偉大である。それはわかった。あ、書く前にもう一度チャレンジ……したくないなぁ。映画にしようかな……
そんなこんなで、四百円あまりを無駄にした私は、レポートを出せず、学期末に戻ってきた通知表には赤い文字で成績がしるされていたとさ。
なんてことはなく、大百科事典のおかげさまさまで、『A』をもらい、通知表にも高校時代最高点数をいただいた。先生、ならびにまじめに読んでレポートを書いた学友たち、そしてシェイクスピア様、誠に申し訳ありません。
ま、それが殺人罪だとしても、もう時効なんだけどね〜。