26 どんでん返し
書き上げた長編小説も無事、郵送し、ほっと一息(実は全然無事ではなく、もう少しで指定の『一行三十文字』でなく、二十八文字で送りそうになっていた。危ない、危ない)。
さて、今年は片っ端からチャレンジすると決めたので新作にとりかかる。以前から温めていたものの人間相関図を書いてみるが、なんだか思い入れが湧いてくる。
「これは……来年の江戸川乱歩賞に応募か!?」などと夢をはせ、ではそれまでの他の新人賞に応募する作品を……と別のあらすじを書き始める。と、そちらのほうがどんどん複雑にミステリ化していく。オーソドックスではあるが、どんでん返しポイントがたくさんあってワクワクしてくる。しかし、なにぶん複雑でどこから書いたものか悩む。そこで、
「言葉で説明してみる作戦」にでた。娘に説明してみたのである。
しかし、もとより話し下手なため、多分半分ほどしか伝わらなかった。それでも主要などんでん返しポイントでは、
「ええ!? そこなの? 怖い……」をいただけた。だが、
「でもさ、せっかくどんでん返すなら泣いちゃうようなのにしなよ。O・ヘンリーの『最後の一葉』みたいな」といわれてしまった。
「泣かせモノですか……それは浅田先生にお任せして……」
逃げ口上は、
「先生っていっておいて、同じ目線とはなんぞや! アマチュアが猛々しい」と一喝されてしまった。なんでもチャレンジと決めた思いにも反する。やってみるか……と書き始めると、案外筆が進むのである。
いや、そんなことになるのは目に見えていた。天中殺の成せるわざか、以前恋心を寄せていた男性の夢をみたせいか(F山M治氏だったはずなのに、途中で入れ代わっていた。全然似てないのに)、なんだか少々切ない気分でもある。こういうときに切ない話を書くとなれば、筆が進まぬわけがない。
しかしただ自分の感情に任せているだけでは、作品とはいえないと自分を律し、客観視しながら筆を進める。読者様をミスリードし、最後に感動を最高潮へ高めるために登場人物たちは苦難を強いられることになる。
「ああ、私ってなんてひどいやつなんだ……」
この良心の呵責が苦手で泣けるどんでん返しは敬遠してしまうのだ。
元来の私は、『目には目を』的残酷さを持ち合わせている。電車に乗る際、ドアの側に仁王立ちして非常に邪魔な人に出くわした。同じ駅で下りた彼が、生卵のパックを持っていることに気が付く。
「目には目を、非常識には非常識を」
卵を下げている側を全速力で駆け上がる、未必の故意に出たい衝動を抑えるのに一苦労するほど残酷なやつなのに、実際に書いていくと胸が痛くてたまらない。
複雑すぎるミステリには、一切の呵責を感じない。トリックの時間を計ったり、年間行方不明者数を検索したり、実生活から少し離れているせいだろうか。
分析の結果、本当に心を震わせる涙を流せるのは、慮ることしかできない現実離れした不幸ではなく、ごく親しい人にも起こった、またはいつ起こっても仕方がないとどこかで覚悟したことがあることだと、私自身が考えているとたどり着いた。
それはごく個人的な感覚かも知れない。全ての反応すらも正常にとれなくなる程のたとえば目の前に飛行機が降ってくるという衝撃的な事件よりも、足の小指だけをたんすの角にぶつけた痛みのほうがリアルである。小さな選択や小さな苦悩の積み重ねが感動を呼ぶのではないだろうか。
そんな当て推量で私は登場人物たちに小さな意地悪を仕掛けていく。その罠が最終的にどれくらい悲しいものなのか、彼等はまだ知らない。わかっているのは世界中でただ私だけ。ハッピーエンドになるか、否かも私にかかっている。
それでも私はひどい仕打ちを続けている。一つ一つはたいしたことのない切なさへ続く選択を彼等が選ばざるを得ない日常を用意していく。心を引き裂かれる思いを一番に感じながら――
完成したら一番大泣きするのも、自分なんだろうな。同じくらいの感動を覚えていただけるよう、表現を磨きたいと思う今日この頃であります。