23 ストーリーと人物設定
作品を書くときに何を一番にするだろうか。
物語自体を書きたいときは、筋ができている以上、ある程度は簡単なのだが、私の場合、たった一行の書きたい場面であったり、たった一行の書きたい台詞であったりすることが多々ある。そのときには困る。
まず、話の筋がない。さあ、どこにネタを求めるか。
第一歩は当然ながら自分に求める。自分の経験や、知りうる知識の中で使えそうな筋はないか探す。見つからなければ、昔書いたものを掘り返してみる。私はものすごくたくさんの夢を見るので、印象に残ったものは書いておくようにしているから、その中に使えそうな筋がないか探し始める。それでも見つからない場合は、生贄作戦に出る。
第一の犠牲者は、同僚になる。『痩せない人は太っていない』なんて自作は典型的で、いくつかは同僚たちのダイエット失敗談から引用させていただいている。あとは、恋のお話もガールズトークからの引用が多い。私は、心に恋人がいれば他の人に目移りしたり、『ナンバー・ツー』を作ったりできる複雑な人間ではないので、他人の過去や現在の恋愛話はとても参考になる。なので、採用。
第二の犠牲者は、お客様である。酒の席ででる面白い話や興味深い話を覚えておく。もちろん、あんまりそのまんまぺらぺらとしゃべるべきではなかったりするので、メモはとらないが、仕事上、記憶力はいいほうだ。登場人物の男女を入れ替えたり、性格を変えたりすれば文章にしても当たり障りがない場合、採用。
第三の犠牲者は、家族である。娘の話は年齢が違いすぎてあまり参考になることはないが、妹や母の持ってくる話は時々下敷きにさせていただく。だから、二人の同僚が犠牲者とも言えなくもない。
私は、自分の書くものにある程度のポリシーを持っている。それは『風とともに去りぬ』形式。どんな困難があろうとも、主人公は最後に立ち上がらなくてはならない。以前、ある映画について、妹が激怒していたことがある。いい役者を使い、お話の筋もいいのだが、最終的に主人公の子供が死んでしまうのである。確かに、夢物語のようないいお話過ぎて、オチをつけるのが難しかったのかもしれない。だが、妹いわく、
「あんなアンハッピーエンド、エンターテイメントとして流すべきではない」
というのだ。
全面的に賛成はできないが、一理あると思った。ホラーであったり、官能小説であったりと分野によってその限りではないとも思うけれど、発表する限り、何かしら解決することが必要で、私が書いている大衆文学的な散文であれば、それは前向きなことであるべきだと思う。ハッピーなのか、アンハッピーなのかではない。小説は切り取った人生の一部でしかないので、
「これからどうなっていくかわからないけれど、今のところがんばろうと思っているから、よいではないか」というように、結末付けることが多い。
さあ、話の筋が決まり、結末も見えたら、次は登場人物である。
「モデルにしてもいいですか?」
「是非」
なんて奇特な方はそうそういない。『シンデレラの掟』は、奇特な方がいらっしゃったので、ものすごく書きやすかった。感謝です。
この犠牲者は、明らかに女性は同僚、男性はお客様であることが多い。もちろん、
「私のこと、あんなふうに書いて! 訴えてやる!」とはなりたくないので、何人かの同僚を組み合わせる。お客様もしかり。見た目はAさんから、癖はBさんから、設定はCさんから、口調はDさんから頂く。はい、出来上がり。
ある創作料理のシェフが、どうやって創作するかについてホームページに書いていたのを読んだ。水平軸を東洋から西洋とし、垂直軸を古代から現代として料理を考えるというお話だった。なるほど、これは小説でも同じ。『日本、現代版シンデレラストーリー』なんかはよく使われる手法だし、『西洋版、貴族時代、源氏物語』なんていうのもありそうだ。これは使えるかな。書きたくてもうまく設定ができなくて、お蔵入りになっている文章も焼きなおしできるかもしれない、なんて思ってしまった。
なんにせよ、『無』から生み出すのは難しい。でも、よく目を凝らしてみれば、回りにはいろんなものが溢れている。それを足し算や引き算やでごまかして……いやリメイクして利用していくのは、『知恵』と『腕』だと思う。
しかし、あんまりやりすぎると、
「あ、これいうと、また小説に書かれちゃうな」
なんて、誰も遊んでくれなくなるかもしれないので、用心が必要です。