19 脅迫メール
ある日。
家の電話が鳴った。私は仕事前で、今からエクササイズをやってからシャワーを浴びるか、それとも今日はサボタージュでシャワーだけ浴びるか考えているところだった。固定電話に私への連絡が入ることは少ないので母が対応していた。だいたいは親戚からの連絡のはずだからだ。
しかし、母の対応がいつまでたっても他人行儀だ。しばらくして、
「担任の先生」といわれた。娘の高校の担任だった。
頭の中にさまざまなことが回る。先生から電話がかかってくることなんて今まであっただろうか。小学校一年生のとき、ブランコから落っこちた娘のことを『監督不行き届き』と緊張した面持ちで家まで訪ねていらした担任の先生の顔が浮かぶ。子供は怪我をするものであると思っていた私は、その対応のほうに仰天してしまったが、今でもアパートの玄関先にたつ先生の顔を忘れられない。まあ、顔の四分の一くらいガーゼに覆われるほどすりむいて、実はおでこは骨も見えていたくらいの怪我だったから、女の子に対してそれくらいの対応は普通だったのかもしれないけれど、そこには誠意を感じた。
そういえば今日は学園祭だった。今まで必ず、
「絶対来てね」といわれていたのに、
「たいした出し物もないし、中学三年生が学校見学に来るからスリッパが足りないと思う」と意味のよくわからない理由で出席をやんわりと断られていた。
「ははん。これはカレシでもできたな」と思ったけれど、まあまあここは物分りのいい親になって……と出席を控えていた。電話口で先生がおっしゃった。
「後夜祭なのですが、職員室で保護しています」
本当はとんでいきたかったが、あえてシャワーを浴びてから学校に向かった。学校までは徒歩と電車で四十分かかる。その間に考えていたことはあまり覚えていない。先生から、娘の携帯電話に脅迫のメールが入ったときかされていた。
『うざい、死ね』
それだけならいたずらとして済ませても、
『今度笑ったら殺す』
と続き、丁寧にもアドレスが『○○(苗字)shine』というアカウントを取得してあった。
「悪質なので警察へ届けましょう」
という提案を頂き、私は学校に向かった。
学校に行くのは三回目だけれど、こんなに学校までの道のりが遠いとは思わなかった。歩けど歩けど、傷ついているはずの娘のところまでたどり着かない。夜七時を回った道は暗い。向こうからくる娘と同じ制服を着た生徒たちのすべてが娘に悪意を抱いているような気がしてならない。どうしてやろうか、とそればかりを考えていた。
やっと学校にたどり着き、職員室へ向かい、奥のソファーで座っている娘をみた。微妙な微笑を浮かべていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど……」
それでも平穏を取り戻していた。担任の先生と三人で近所の派出所へ向かい、話がぐるぐると回る制服を着たおまわりさんに、
「被害届は本署へ。覚悟を持ってお願いします」といわれた。被害届を出し、事件として扱い捜査することになると、そこには犯人がいてそれを検挙することになるというのだ。
学校での対応を考慮してから本署に行くかどうかを考えることにして、娘と二人で駅までの道を歩いた。
「とっぽい格好をして学園祭に行っておけばよかったね」
私は的外れなことばかり言っていた。娘はぽつりといった。
「こんなやりかたはずるいよね。相手は何かしら私に腹を立てているのに、これじゃあ何を怒っているのかもわからない。私が悪いなら謝る事すらできない」
メールを受け取ったのは学園祭と後夜祭の間の時間だった。着信のランプが光っている。
「なんだろう」
携帯電話を開いてみる。見覚えのないアドレス。
「誰かまたアドレス変えたのかな?」
そんなふうにみていたら自分の苗字の後に『死ね』と書いてある。そして本文には脅迫の文章……
「正直、驚いて泣いちゃったんだけどさ」
すぐに空メールを返信しても着信拒否。近くにいた友達たちが先生に相談しようといってくれたという。
「みんながメール見て激怒しちゃって……」
それまで平気だったけれど、その話を聞いて私は初めて泣きそうになった。
すばやい学校の対応。本人よりも激怒してくれる、きちんとした対応をできるお友達。『死ね』といわれても『殺すぞ』といわれても自分が悪いなら謝りたいと思っている娘。いつの間にこんなに、そしてこんなふうに育ってくれたんだろうと胸が熱くなった。
結局、警察へは学校から『相談』という形をとることにした。今後、さらにあった場合は個人的にも届けを出し、犯人追求へ向かう。メールを送ってしまった人は、ちょっとした出来心だったのかもしれない。男女の隔たりなく、みんなにいじられるちびっ子の娘に嫉妬したのかもしれない。アルバイトもしておらず、高校に入ってから携帯電話を取得した娘のアドレスを知っている人間はほぼ学内だろう。親の顔が見てみたいと思う。娘を傷つけた人間を許せない。朗らかに育ってくれた娘に、『今度笑ったら殺す』なんて世界で一番ひどい言葉かもしれない。人生は辛くて厳しいものだ。生まれたときから父親のいない彼女には一際厳しいものだろう。それを少しでも楽しもうとして笑って生きていることすらわかっていない相手だ。……でも同じ高校に通う同年代の子供。『犯人』『検挙』しいては『退学』『逮捕』というようなレッテルを貼るのもどうだろうか。相手は娘と同じ、前途ある若者であるには違いないのだ。
娘とも相談し、その対応を決めたが、その後仕事に行った私の心中は複雑だった。それは心配ではなく羨望。いいお友達をたくさん持っている娘。私が迎えに行ってからもその前もあとも、娘の携帯はなりっぱなしだった。励ましのメールが山ほど入る。至らぬ私のせいで苛酷な環境に生まれ育っても、初めてでそして三回しかないうちの一度の後夜祭を職員室で過ごしても、それ以上に大切なものを彼女は持っていた。私は持っていない気がしてちょっとせつなくなった。そしてこんなふうにせつなくなれるのも、無事でいられるように配慮してくれた先生方やお友達のおかげだと思うと、うれしく、暖かく、そしてさらに羨ましかった。
メールを送ってしまった相手に、もう何も言うことはない。娘とも一つだけ約束をした。
「友達をうたがわないこと」
アドレスを知られているということはある程度近しい人間だろう。それでも目に見えない誰かを疑って生きるほど悲しいことはない。謝れないことは残念だけれど、後夜祭を一度おじゃんにしたことでチャラとしよう。
すばいやく適切な対応をとってくださったお友達、先生方に心より感謝をいたします。娘の心の傷は最小限ですんだ事でしょう。そして、耐えられなくなって仕事中に泣き出してしまった私をハグしてくれた同僚、上司。真夜中の電話にもかかわらず、何も聞かずにその深い天使のような声で励ましてくれた方にも心の底から感謝します。
――あれ? 私もかなり恵まれた環境にいるなあ……(潤)