18 誤字脱字
感想や評価を見ていると、誤字脱字の指摘をしている声が多いなぁと思う。
私もある作品で「おねえさん」と書くところが「おねさん」と何度もなっていて、丁寧にメッセージという形でご指摘いただいた。その節はとても助かりました、ありがとう。
よく考えてみると、最近の出版物には誤字脱字が少ないなぁと思う。私が小説を読み漁っていた小学校の高学年から中学校の頃なんて、そこいら中に誤字脱字があふれていたように思う。それを指摘するクイズ番組なんかもあったから、気のせいではないのではないか。
誤字脱字が減った要因を想像してみる。ちゃんと調べたわけではないので、想像ということでご容赦いただきたい。
まず、執筆方法。手書きが主であったであろうところから、ワープロ、パソコンと変わってゆき、その機械自体の性能も上がり、漢字や送り仮名の間違いも減ったのだろう。文章を声に出して録音しておき、それを書き起こす専門のスタッフを持っているという作家さんのテレビもみたことがあるが、そう多くはないだろうし、このスタッフさんも機械の恩恵は受けているはずだ。
次に流通の発達。うちの母がしばらく校正の仕事をしていたことがあるが、原稿が届くのが驚くほど速かった。無駄な時間が省かれるということはそれだけ多くの人間が校正に携われる時間ができるということだから、チェックの回数も昔よりは増えているのではないのだろうか。
そして印刷技術。実物をみたことはないが、鋳造活字というのか、一文字ずつの判子のようなものを文章どおりに並べている映像は見たことがある。学校での印刷物でさえ、私の小学校の頃はガリ版というやつで、原稿の上にインクの着いたローラーをひたすらぐりぐりやらされた覚えがある。日常的に配られる印刷物が、コピー機を通して出てくるものに変わったのは高校生くらいの頃か。学校という限られた空間と限られた枚数の中でもこれだけ変化しているのだから、それを生業としている出版業界での変革は目覚しいであろう。
とにかく、昔よりは誤字脱字は減っているのであろうし、私は元来そこまで気になるほうではない。
だいたい小学校三年生のときに文庫本を読んでいれば、わからない漢字が腐るほど出てくる。いちいち辞書を引いたりせず、飛ばして読む。そこに正しい文字が書いてあっても読んでいるほうが脱字にしてしまっているのだからどうしようもない。それでも読む。わからない漢字なんて前後の文脈から想像すればいいし、内容が面白ければ次々と進んでしまうものだ。その癖がついているからか、脱字の指摘を見てはじめて「あ、ほんとだ」となることが多い。
次に誤字。学生の頃の友達にとても理数系の男の子がいた。頭は切れるし、よって話の組み立ても上手く面白い。しかし、漢字が全くだめ。数学の勉強を教えてもらったとき、つらつらと問題を連ねた先頭に、
「過去の中をうめなさい」と書いてよこした。もちろん勉強不足の過去をうめろというのではない。私は問題を一生懸命考えて解き、最後に「過去」に二重線を引いて「括弧」に訂正して彼に提出した。二度と数学を教えてはくれなかった。
また別の友達は電話で、
「だってそういうことはあなたのほうが経験もトウフだし」
と真剣に語り、また別の友達は、
「明日、ヤキマワシした写真持っていくね」
とはしゃぎ、昔の彼氏は、
「いやぁ、やっぱりチョクビ焙煎のコーヒーは一味違うね」
と通な発言をし、娘は風呂の「追い炊き」のことをずっと「オユダキ」と言っていたけれど特に気にならなかった。そのたびに訂正はしたけれどそれは訂正したときの反応が面白いからという意地悪な理由であって、それが支障をきたすからではない。
もちろん、他人にお披露目する限りはチェックすることは必要だけれど、そんなに神経質になることかなぁとも思ってしまう。間違っていようが抜けていようがそれを気付かせないほど物語にひきこめれば、それが一番ではないかと思う。
かくいう私も他人様の作品に「ら」抜き言葉について指摘したことがある。今考えると感想の欄に書くのではなく、私が以前そうしていただいたようにメッセージでこっそり教えてあげるべきだったのではないかと反省する。私の場合は明らかな間違いであったのだが、「ら」抜き言葉は「言葉」という生き物の進化形かもしれないからだ。旧式の私でさえ、まだまだ引っ掛かりが多いものの、しゃべり言葉の中ではかなり多用している。もしかしたら作品の中にも出没しているかもしれない。
まあ、読むほうも書くほうも誤字脱字なんかに目くじらたてずにさぁ、内容に着目したほうが素敵だぜ――と伝えたくてここまで書いたが、読み返してみて少々心が揺れている。だって、超感動巨編、青春、スポコンものの涙腺全開場面で、
「いいか、お前たち! 辛かったこと、悔しかったこと……あいつの死もだ。すべてをモヤシにして成長しよう! そして来年の夏必ず……」
なんてなってたら……