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17 「若いっていいよね」についてのとある考察

 別にもてたいわけではない。

 だが魅力的でいたいとは常々思う。

 魅力とお給料がほぼイコールの仕事をしているので、最近ずっと考えていることがあった。昔々、携帯電話のメールといえばカタカナだった頃、私はなぜか売れっ子だった。その理由が知りたいと、自分探しに出ていた。

 あの頃と今。違うことを探そう。まず年齢。それはもう仕方ない。見た目は、ちょっと太ったかな? 三キロくらい。でも、自慢ではないが老けたということはないと思う(すげぇ〜十年以上たってるのに……ちょっといいすぎです、ごめんなさい)。ノリも変わってないし、酒の飲める量も種類も前よりも増えた。話題の引き出しも年とともに増えてきたし、少々色んな肉が重力に負けているとはいえ、そんなものは物理の力でなんとかなるものさ。――では、何が変わったのか。一番大きなことは、「お先にどうぞ」という言葉を覚えたこと。

 そう、あの頃は譲るなんてことは考えていなかった。前にでて当然とさえ思っていたのだ。

 若いときに、私は最大の武器を持っていた。それは「根拠のない自信」。今考えればこっぱずかしいが、なぜか自分に自信があった。それは多分、家庭の中できちんと愛されてきたからだと思う。「うちのこ」という観点で大切にされてきたのだ。「社会全体からいえば」可愛いかどうかはわからないし、「社会全体からいえば」賢いほうに入るかどうかもわからないし、「社会全体からいえば」会話が上手かどうかはわからないけれど、「あなたは可愛いし、賢いし、面白い」とちゃんと励ましてもらっていたのだ。だから井の中の蛙な私は「私は可愛いし、賢し、面白いし、おまけにいけてる」なんて周りから見たわけではなく、親の目から見た可愛い子供としてつけた自信をそのまま持って社会に飛び出していった。

 「自分に自信がある」というのはとても魅力的なことである。特に私のように「どうみてもS」と見られる人間にとってこれ以上の追い風はない。自信のない人の言葉よりも、自信がある人の言葉のほうが心に響くに決まっている。全く信仰心のない人が宗教について話すのと、信じている神がいる人が宗教について話すときの温度の差に等しい。だけどどちらも神様をその場につれてきて、その姿を可視状態にすることはできない。

 ではその自信をいつ失ったか。私の例では、二十五六のときに危うくなってきて、二十八のときには完全に崩壊していた。二十五六で、

「もしかして私の持っているものさしのメモリは、世間とはずれているのではないか」と思い始め、二十八のときに、

「……私のものさし、一ミリがすごく大きい」と気がついてしまった。見た目は「S」でも小心者の私は、

「それでもわが道をいくのよ!」と開き直ることはできず、「いい人」へ路線をシフトしていった。そして魅力が半減、またはそれ以下となり、

「若いっていいわね」と皮肉でない笑顔を浮かべられるようになっていた。こうなる年齢に関しては人によるので、これとは限らない。

 もともと根拠が「そういわれてきた(ごく少数の間で)から」であり、それが「ごく少数だったからそういわれてきた」と理解して崩壊してしまった。その自信は二度とは取り戻せない。乳歯が再び生えないのと同じだ。あの頃の自分に戻りたい。その気持ちが、

「若いっていいよね」という言葉につながっていくのではないか。

 たいていの大人が「戻りたい」けれど「戻れない」状態にいると思う。世間のものさしを持ってしまっているからだ。それは決して悪いことではない。むしろ持っていないといけないのだと思う。そうしながら「あの頃」を取り戻すにはどうすればよいのか。

 方法は二つある。正攻法は「自信に根拠をつける」。根拠のない自信を失ってしまった自分を嘆いたときに、音楽仲間に実際に言われた言葉が、

「今は『根拠』はないかもしれないけれど、『実績』があるじゃない」だった。相手が一回りも上のお兄さんで、しかもその業界での活躍があった人だったのでとても励まされた。それを自信にすればいいというのだ。今の私の仕事の状態に当てはめると「昔かも知れないけれど、自分は売れっ子だった」という実績を自信にすればいい。そして、それの自信を保つために実績をつけ続けるため精進し続ければいい。

 しかし、正攻法はとても難しい。結果がでるのが遅かったり、思うような結果が出なかったりと、自信をつける以前に人格が崩壊してしまいそうになる(弱っちい私だけかもしれないけど)。そこで考えた方法が「キャベツ作戦」だ。

 あんまりかわいいからちょっと預からせてといいだしたおばさんの家へと母は向かっていた。祖母は止めたけれど、おばさんは、

「わたしだって何人も子供を育ててるのよ」と聞かず、一日だけの約束でまだかわいらしかった母を連れ帰った。途中、自転車のうしろで揺られながら白菜畑の隣を通ったとき、当時二歳の母はこう言い放った。

「ママも、みんなも、あれを白菜と呼ぶけれど、私はキャベツという」

 あまりの頑固さに仰天された母はおばさんの家へ到着することなく、白菜畑から自分の家へとまっすぐ返品されてきたという。

 開き直りとはちょっと違う。「みんなが白菜という」ことは認めている。だが「私はキャベツという」なのだ。世間のものさしの一ミリの幅はどれくらいか知っているけれど私のものさしの一ミリはこの幅であるとする。世間的には可愛くも賢くもないけれど、私のことを可愛くて賢いと思ってくれている人がいることを自信にする。根拠のない自信や開き直りとの大きな違いは『白菜の漬物』を用意するときにいけしゃあしゃあと『キャベツの漬物』を用意して「うちではこれが白菜の漬物です」というか、『白菜の漬物』を用意しておいて心の中で「うちではキャベツの漬物っていうんだけどね」と思うかである。同じ自信でも大いに違うのだ。それをやる傍ら、正攻法も進めてゆけばよいのではないか。しばらく実践してみようと思う。

 つらつらとこんなことを書いたのは、もちろん自分の悩みからの発信ではあるが、最近多発している無差別殺人の容疑者が「家庭での接され方」について何かを抱えていることが多いという。映画「セブン」の中で、社会情勢や環境が悪く子供を持つべきかどうか悩み、妊娠を夫に告げあぐねている妻にモーガン・フリーマン扮する老いぼれ刑事がこう語る。

「子供を持たないこと選ぶなら夫には妊娠を告げるな。子供を持つことを選ぶならばすぐに夫に話せ。そして子供が生まれたらできる限り甘やかしてやれ」

 キャベツ作戦にたどりつくまで、私は大いに悩み苦しみ、時にはあまりのつらさに泣いてしまうこともあった。最初に持たされたものさしが世間とは違ったからだ。勉強だってなんだって、その子供にとってできているのならばそれでいい。世間に出る前から世間のものさしを教えるのは、もちろん子供ためを思ってだろうが、最終的には自分のものさしが世間とは違うということを自分で感じとる機会を奪っているのではないか。そもそもその親が世間のものさしだと思っているものは正解なのか。親だけではない。ものさしの一ミリの幅も素材も、昭和と平成だけでも、たとえば小説というカテゴリー一つとってみても、刻一刻と変わってきているものだ。

 私は自分の持っている「世間のものさし」が旧式で、合わせても合わせても変わっていくことがわかっている。だから他人に押し付けたものの言い方をするのは好きではない。うちの母は、私が大人になった今でも、断定的で押し付けがましいものいいをする。でもそれはそれでいいのだ。母は持っているから。かなり一ミリの幅がばらばらではあるものの普遍的である「娘への愛情」がたっぷりと含まれたものさしを。

 ――売れっ子だったあの頃と何が違うのか。もちろん、社会の流れや景気や周りのスタッフや……あげればもっとたくさんあるけれど、それは私にはどうすることもできない他動的なこと。とりあえずは「キャベツ作戦」を決行する。しかし――ああ、こんなことで悩めるなんて、あたしもまだまだ若いよなぁ。

 やっぱ、若いっていいよね?

 

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