10 携帯小説の書き方形態
私は小中学校の頃、すごい勢いで色んな本を読んでいた。それ以前からかもしれない。
うちはとても貧乏だったのだけれど、本に費やすお金は多分半端じゃなかった。保育園のときには絵本を定期購読していたし、母の離婚後住んだ祖父母の家には、壁という壁に本棚があるようなところだった。誕生日やクリスマスのプレゼントはほぼ本か絵画用品か手芸用品。おかげで編み物も得意。
小学校の低学年くらいまではハードカバーを読んでいた気がします。世界の偉人や世界的名作を読み飛ばし、
「ふーん。偉い人もいるんやね」程度の感想。
その後、何気なく手を伸ばしたじいちゃんの本棚に確か小松左京先生の「さよならジュピター」があり、
「ちっちゃい本のほうが面白い」
なんて見解にいたり、読めそうな本から手当たり次第に読んでいたかな。整理整頓の能力に完全な欠陥のある私は、元の場所に本を戻すことができず、たいそう怒られていた記憶が薄っすら。小学校三年生のときに祖父母とは別にすむようになり、図書館へ通い、片っ端から読みました。
でも、今でも多分そうなんだけれど、ストーリーを読んでいるのであってその中の表現のすばらしさなどは全くわからない。大量に読むことに慣れてしまっていて、深く読むことができないのではないか、と悩んだことがある。だって国語の授業で、
「この文章は主人公のどのような気持ちを表現しているか」の問いに、正しく答えられても内心では、
「私はそうは思わないけど、答えはこれなんでしょ」なんて思っていたから。書くのも自由、読み取るのも自由というスタンスはすでに出来上がっていたから。
それでも読みやすい文章と読みにくい文章はあった。時代物を読めるようになったのはここ五、六年のような気がする。
書き方についてもそう。初めて読破した洋書は本当に読みづらかった。まず、横書き。小学校に入って初めて算数や理科の教科書に触れ、
「うわぁ、開き方が違うんや」
と思ったときのような違和感。そして台詞の書き方。なんとも読みづらい。それでも和訳が出るまで待てなかった私は辞書片手になんとか読み終えることに成功した。
その後、娘が持ってきた携帯小説の文庫本版を手にとりまたショックを受けることに。日本語なのに横書き。しかもなんだか間延びした行間。あぶり出しでもすれば何か出てくるのか、と思うほど。それでも内容は、まぁそれほど過激なものでもなく、ぼちぼちだったのではないかなと。ちょっと苦手な恋愛物だったので、穢れた大人にはあわなかったけれど。
私はどちらかというと携帯小説の一般的な書かれ方にかなりの抵抗があるけれど、ふと、それもいいんじゃないかなと最近思った。
たとえば、道を尋ねるとき。いかにもいかめしい、不親切そうな小汚い人と、いかにも親切そうな優しいこぎれいな人とどちらに尋ねるだろう。Tシャツを着ている社長とスーツをきっちり着こなしている社長、どちらが社長っぽいか。はたまたどちらが社員に近く感じるか。見た目が九割ならば、横書きで見やすくするのもありではないか。メールを書くときにいちいち文頭を一マスあけたりしない。読点も打たないときもある。段落のかわりに行間を空ける。それが見やすいからだ。
例えば新聞の横向きの見出し。あれはちょいと昔は右から左に書かれていた。市販本の中の鍵括弧は、その会社によって半角だったり全角だったりする。それも読みやすさの追求からだという記事を読んだ。時代がかわり書き方がかわっても仕方ないのではないか。車が普及していなかった時代には歩道橋も横断歩道もなかったはずである。
とはいえ、私は大学ノートには横書きながら段落をつけ、頭を落とすことも忘れなかった。だけど数字はアラビア数字。その時点ですでに多分間違っているから、とやかくいう権利を放棄している気もしないではないけれど。
文化として定着するのか、紙媒体とは別な路線で独立していくのか……
「ばあばの時代は縦書きで段落っていうのがあってね」
「ええ、なにこれ! 古い! 読みにくい! 絵文字はどこ? なんで白黒なの?」
なんていわれてしまうのかも。でも今はまだ、そこまでは浸透していない。現代のルールがあることはわかっておくべきだとも思う。
正直、旧式の私には携帯小説書きの文章は読みにくい。「これはメールの文章だ」と言い聞かせて読む。まあ、ストーリーを追うだけの斜め読みなら段落があろうがなかろうがそんなに関係ないけどね。