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夜になるまで待って

食事が終わるとみんなは連れ立って食堂を後にした。長い廊下には等間隔に窓が並んでいて、月の光がぽつぽつと深紅の絨毯を照らしている。

絨毯を縁取る金の刺繍が月明かりに照らされて、時折キラリと光るのがアニエスは好きだった。

重厚感のある外観からは想像できないほど、内装は繊細で美しい。

マリエンブルク城はかつて有名な貴族の邸宅だったという話だが、戦争が始まると修道会の拠点として利用されるようになり、やがてその修道会も戦争の波を受けて壊滅の危機にさらされることとなった。

その際に流された大量の血をマリエンブルク城の赤い城壁にたとえて「真紅の城」と呼ぶ人もいるらしいが(この話を聞いたエリーゼは数週間アンナの部屋で寝泊まりすることになった)、今では城の一部を孤児院として使っているに過ぎない。

食堂からいくつかの回廊を通り抜けると、天井の高い小部屋にたどり着く。

この小部屋はアニエスたちが普段から談話室として使っている場所で、赤いレンガに縁取られた暖炉と豪奢な布張りのカウチのある何とも贅沢な一室だ。

夕食後は使用できない決まりがあるため夜は各個人の部屋で過ごすのが暗黙のルールだが、知ってのとおりこのルールが守られることはほとんどない。


「ベル。さっきの話なんだけど」


談話室のさらに奥、子ども達の部屋が並ぶ廊下へ出たタイミングでアニエスが切り出した。

イザベルの言う“今夜の予定”に当の本人は心当たりがなかったのだ。


「さっきの話というと、今夜の密会についてのことかしら」


「あれはエリーゼを助けるための方便よね?」


「いいえ。本当に話があるの。あとで部屋に行くから、いい子で待っててね」


そう言ってアニエスの頭をひと撫ですると、イザベルは自室へと姿を消した。まるで寸劇みたいに流れる動作でひらりと居なくなった姉の姿を思い浮かべて、自分と少ししか年齢の変わらないイザベルの”大人な振る舞い”に感嘆するのだった。


部屋に戻ったアニエスは燭台に明かりをつけて寝着に着替えたあと、抽斗からペンとノートを取り出して日記を書き始めようとした。

ところが日付を書いた途端に書く気力が萎えてしまって、ノートを閉じてベッドにぱたりと倒れた。マリエンブルク城に連れてこられた6年前から、ほとんど毎日のように日記を書いている。

最初は「心の整理と文字を書く練習のため」とフィリーネさんの提案で書き始めたのだが、いつの間にか切り離すことのできない生活の一部になっていてた。

『特に何かがあったわけじゃないけど、書きたくない日もあるわ。でも何より重大なのは、書くことが何もないという事実ね』と考えて、長い溜息をついた。

せいぜい書けたとしても『今日はイエジー先生に怒られました。今年に入ってから九回目です』ってことくらいだ。

マリエンブルク城は何百年間もこうして立派に建っているのだから、アニエスの暮らしたほんの数年の間に事件らしい事件が起きないのも仕方のないことである。

最近では”人生は、二度聞かれさる話のように退屈だ”という言葉を身にしみて感じていた。それなのに、日記で三度目の人生を演じることに何の意味があるのだろう。


コンコン--


考えに耽っていたアニエスが慌てて飛び起きて扉を開けると、眉をひそめたイザベルが立っていた。


「アニエス、扉を開ける前にちゃんと確認しなくちゃダメよ。私じゃなかったらどうするの」


「ごめんなさい、つい嬉しくて」


「あら、可愛いこと言ってくれるのね。何かいいことでもあったの?」

ニコニコしながら出迎えたアニエスに目を丸くして尋ねると、


「いいえ。何もなさすぎて、ベルに会えるだけでも楽しいの」

と肩をすくめた。


「そんな退屈姫のアニエスにとっておきのおもしろい話があるわよ」

そう言ってイザベルは白い封筒を取り出した。口元は上品な微笑みを浮かべているが、目は子どものように輝いている。その瞳のきらめきの正体をアニエスは知っていた。


「あの方からのお手紙ね!」

ぽんっと嬉しそうに手を叩くと、イザベルがクスクス笑って頷いた。

さっきまでの退屈はどこへやら、すぐに二人分の席を用意して姉を座らせると「早く読んで」とせがんだ。


「今回はどんな素敵に詩的な言葉が書いてあるのかしら」

アニエスの夢見るような視線を受けて、イザベルはペーパーナイフを取り出すと踊るような動きでゆっくりと手紙の封を切った。


「ステキにシテキ、ね。戯言(ナンセンス)より沈黙(サイレンス)のほうがずっと素敵だわ」


封筒の中にはきっちりと畳まれた三枚の便箋と見慣れないクリーム色の用紙が封入されていた。


「この紙は何かしら……」

つぶやきが空気に溶けていくと同時にイザベルの顔がみるみる蒼くなっていくのを見て、アニエスは用紙を覗き込んだ。


「読めないわ。向こうの国の言葉かしら。ねえ、なんて書いてあるの?」


不安げに問いかけると、イザベルは我に返ったように目を瞬かせて、

「ええ、これはその……つまり、一種の婚約届みたいなものね」


婚約届という予想外の言葉にアニエスの頭の中は真っ白になった。

『一種の婚約届だなんて、婚約届けに一種も二種もあるものなのかしら』となどと訳の分からない思考が通り過ぎて、やっと自体が明晰な頭で理解されると「結婚を申し込まれたのね!」と叫んだ。


「しっ、声が大きいわ」


すでに真っ青な顔をしたイザベルが口元に指を当てて制すると、アニエスは無言のまま何度も首を縦に振った。


「でも、そういうことでしょう?」

知らず小声になって尋ねたが、イザベルはそれには答えず静かに「手紙を読んでみましょう」と言った。

手紙には以下のように記してあった。


麗しのイザベルへ


あなたと初めて出会ったのは、三年前の冬の寒い日でしたね。

私はマリエンブルク城の視察へ行くことになり……否、視察などと言うのは政治家の使う言葉。私はただ祈りに参じたのです。

伯爵の肩書をもつ私でも歴史を変えることは出来ませんが、時の潮流に橋を掛けることはできましょう。

あなたをひと目見た時から、私の心は愛の奴隷となったのです。

愛(love)には過去も国境もありません、あるのは希望(hope)だけ。

夏の太陽から身を隠す木陰のようなブリュネット。聡明な瞳、積もったばかりの雪のように美しく白い肌(ここでアニエスは思わず口笛を吹いた)。

今でも目を閉じれば眼裏にあなたの麗しき姿を浮かべることができます。

しかし、これからはその必要もなくなるでしょう。何故なら、ついに私の側にあなたを迎える準備が万事整い、橋から手を差し伸べるときが来たからです。

どうか私の手を拒まないでください。

あなたにお会いできることを何よりも楽しみにしています。


ヴァルターより


さらにその下には、イザベルを迎える使者を派遣したこと、その人物は手紙よりも数日遅れてマリエンブルク城に到着するであろうこと、そういった諸々の事情については院長に通達済みであることなどが列挙されていた。

手紙を読み終えた二人はしばらく困惑気味に顔を見合わせていたが、やがてアニエスが「夢みたい……」とつぶやいた。イザベルは泣きそうな顔で微笑み、妹の頭をそっと撫でた。


<2.fin>

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