夕暮れの長さはどれくらい
先に断っておこう。この物語は、実際に起こった歴史上のできごととは何らの関係もない。
そのことについては、早い段階で読者も理解してくれようと思う。
また物語の舞台についても、現実に存在する場所とは何らの関係もない。
しかし事実というのはある出来事の一つの側面に過ぎないということもまた、理解しておく必要があろう。
してからに、さも偉そうな事をだらだらと述べている我輩は一体何者なのかと、読者は思ったに違いない。
ここで吾輩は猫であるなどと言い出せば、ホウボウから苦情がでるであろうことを予期して、あえて言おう。吾輩は猫である。名前もちゃんとある。
これから語る物語は、ある少女の数奇な運命にまつわるお話だ。
物語は、とある美しい城から始まる――
読者よ、吾輩につづけ。
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長い冬も終わりに近づいて、大地がわずかに色づいてきた季節。
夕暮れの空は紫色に染まり、真っ赤なレンガ造りのマリエンブルク城を幻想的に浮かび上がらせている。
陰影をつけた大きな雲が西へ西へとゆっくり流れていくのを、城の裏手にある小さな庭園のベンチに座ってアニエスは夢見心地で見送っていた。
夕暮れ時のこの時間は彼女にとって至福のひとときだった。
『この景色を見るためなら、イエジー先生に怒られるのだって怖くはない』そんなことさえ考えた。
けれどすぐに、イエジー先生のひっつめ髪とつり上がった恐ろしい目が頭に浮かんで、その考えを打ち消した。
あまりにもきっちり髪を結い上げているせいで、顔つきまで鋭くなってしまったらしい。
イエジー先生は修道院の子どもたちへボランティアで勉強を教えてくれている女性だ。
この城に住んでいるわけではなく隣町からわざわざ毎日通ってきているらしいが、大抵怒ったような顔をしているので、どうして先生を勤めているのかアニエスはいつも疑問に思っていた。
院長に弱みを握られているというのが、唯一の納得できそうな答えだった。
「またこんなトコでさぼってるのね。もうみんな食堂に集まってるっていうのに」
呆れたような声に後ろを振り向くと、姉のイザベルが頬を膨らませながらズカズカと庭園を渡ってくるのが見えた。
乱暴な歩き方をしているため、ふわりとしたブルネットの髪が大きく揺れている。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
さあ説明してと言わんばかりのイザベルを前にして、アニエスは申し訳なさそうに下を向いた。
「また空を眺めていたの?」
イザベルの問いかけにこくりと頷くと、アニエスはすっかり暗くなった空を見上げた。
夜の闇が雲を飲み込んでしまったようで、先ほどの幻想的な景色は消え去っていた。
代わりに、水平線の向こうの街に灯りが灯り始めて、まるで巨人が山にシトリンをばら撒いたみたいに煌めいていた。
「ねえ、あの街にはどんな人が住んでいるのかな」
「うーん。そうねえ……きっとブタが王様で白馬が王子様。召使いは猫ね。にぎやかな動物たちの帝国だと思うわ」
くすくすと笑いながらイザベルが答えた。
「もー。バカにしてるでしょ」
「そんなことない。さあ、冷えてきたし中に入りましょう。みんなが待っているわ」
そう言ってアニエスの手を取った。
この修道院では暗くなる頃に食堂へ集まって、皆でお祈りをした後に食事をするのが習わし。
しかし日が長くなってきたこの季節では、まだ夕方なのに食事が始められてしまう。
太陽の沈んでいく景色が見れるか見れないかは、アニエスにとっては何よりも大事なことだった。他の誰も、そんなこと気にしてないけれど。
イザベルの言ったとおり、食堂には皆が顔を揃えて待っていた。
泥んこアンナ、泣き虫エリーゼ、迷惑者マルタに加えて、院長と修道女のフィリーネさん、そしてイミジー先生。
この面々にアニエスとイザベルを加えた八人が、普段マリエンブルク城で見られるすべての人間だ。
アニエスたちが食堂へ入ると、皆が一斉にこちらを見上げた。
お祈りの途中だったらしく、両手を胸の上で合わせている。
「当然、お料理が冷めてしまった理由を説明していただけますわね」
想像した通りのイエジー先生のひっつめ顔を前にして、アニエスは口を開きかけたものの、小さなうめき声しか出てこなかった。
何か言わないと……でも言葉が浮かばない。
小さくなったアニエスの肩に、柔らかい手のひらが乗せられた。
「そのような厳しい視線を前にしては、どんなお料理だって冷え切ってしまいますもの」
穏やかなイザベルの声。イエジー先生はわずかに眉をひそめただけで、無感情に答えた。
「その言葉が本当なら、せいぜいアニエスが肝を冷やしてくれていることを祈ります。さあ席に着いてください。時間はとうに過ぎているのですから」
アニエスはちらりと視線でイザベルに感謝の念を送り、黙って席に着いた。
院長がコホンと控えめに咳払いをすると、時間が再び流れ出したかのように子供たちは祈りを再開し、この日の夕食がはじまった。
「いい?今夜はアニエスの部屋に集合よ」
紅潮したほっぺたに麦パンを詰めながら、マルタが言った。
打ち明け話をするみたいに声を潜めているけれど、全員に聞こえている。
狭い食堂内では内緒話なんて不可能だ。
「もしかして、またアレをやるの……?」
今にも泣きだしそうな声で問いかけるエリーゼに対し「もちろんよ」と威勢よく返事をすると、ぐるりとみんなの顔を見回す。
マルタは“迷惑者”のあだ名通り、ほかの人を巻き込んで遊ぶことが大好きだった。
一人で遊ぶという考えが彼女の頭にはないらしく、新しい遊びを思いついては誰かを誘って試さずにはいられない性格なのだ。
その行動力にはいつも感心させられてしまうのだが、ちょっぴり面倒だというのもまた事実だった。
「怖いなら来なくてもいいのよ、エリーゼは部屋で待っていればいいわ」
みんなが集まっているのに一人だけ部屋で過ごすなんて、寂しがり屋のエリーゼには出来っこないことを知っていて、マルタは意地の悪いほほ笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。今夜はアニエスと予定があるから、朗読会はまた今度でもいいかしら」
思い出したかのようにイザベルが言った。
「なあんだ。ちょうど物語も面白くなってきたのに、残念」
ちぇっと肩をすくめて引き下がったところを見ると、さすがのマルタにもイザベルに逆らう気はないらしい。
「朗読会」とは、マルタがこっそり持ち出してきた ” 非推奨図書 ” の本をみんなで代わる代わる朗読する遊びで、今読んでいるのはアレックス・ヘイリーの『ルーツ』だ。
奴隷として生きる少年の壮絶な物語と ” 非推奨図書 ” という言葉が相まって、少女たちの中で中世の秘密結社めいた背徳的な結束が生まれていた。
「朗読会だなんて、ずいぶん素敵な集会が行われているのね。いったい何を読んでいるのかしら」
フィリーネさんが手を合わせて喜ぶ姿を見てアンナとエリーゼとマルタがくすくすと笑った。
「ハムレットです」
とっさにアニエスが答えると、みんなは吹き出すのを堪えるために息を止めたが、フィリーネさんは感極まって息をすることを忘れてしまったようだ。
「シェイクスピアね!素晴らしいわ。どの台詞が一番好きなの?」
すっかり舞い上がったフィリーネさんは目を輝かせてアニエスに尋ねた。アニエスは少しの間逡巡したあと、
「Get thee to a nunn'ry.(尼寺へ行け!)」
と言った。堪えきれなくなった三人からどっとクスクス笑いが起こった。
姉のイザベルでさえ肩を震わせて小さく息を零した。
少女というのはいつだってクスクス笑いに秘密を隠しているものなのだ。
<1.fin>