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冷たい石畳の上にヴァンは俯せに寝そべっていた。
そのヴァンの上には大きな塊が乗っかっていた。
体は疲れ切っていて、すぐにでもその塊の上から這い出したい。
少しずつでも体を動かすが、体力が尽きていることを除いても、その巨大な塊からは一人で抜け出せる気がしなかった。
迷宮内に日の光は無くとも大凡の時間感覚で既に夜が更けていることには気付いている。
いっそこのまま夜が明けるまで寝ていたいとなどとだらけた事を思うのは気が滅入っている所為か。
ただ、寝るにしてももう少し柔らかい地面が欲しい。
上に乗っかっている塊は形というものを持たないゾル状物質のため堅さは無いが、掛け布団としては申し分無い。
……触れている相手を溶かすような特性を持っていなければ、の話だが。
「無様ね」
そんなヴァンの姿を見た黒髪の少女が、凍るような音色で冷ややかに言う。
少女は手にした弓を構える事もなく、地に這い蹲るヴァンを見下ろしていた。
冷たい瞳には仲間が窮地に陥っていることに対する侮蔑の色以外は微塵も浮かんでいない。
天然の光が無く、自然に作られた訳でもない場所で死の淵にあるヴァンを、まるで他人事のような冷たさで瞳に入れている。
ヴァンを助ける気など、どこからどう見ても欠片も見受けられなかった。
「スライムごときにアッサリ負けおって。やれやれじゃ」
続けて、狐のような栗色髪の少女が感想を述べる。
手には鉄の扇。
しかしそれ以上に少女は特徴的な格好をしていた。
冷酷な冷気を纏った黒髪の少女よりも頭一つ分以上背の低い巫女服姿の少女。
だんだんと体温を奪われ死に至りそうな寒さに見舞われ始めたヴァンには、見た目の印象温度だけで言えば巫女服少女の方が自然の懐炉に適している。
実際には体格差と胸の表面積の広さで黒髪少女の方が懐炉に相応しいのだが、人肌で暖を取るなら絶対に巫女服少女の方だと誰もが思う。
それだけの差が二人の少女の間にはあった。
いや、そう思ってしまう程に、黒髪少女の印象が冷たすぎた。
「ぬしさまよ、格好良い所を見せようとするのは良いが、先に相性を考えた方が良かったの」
しかし、思っているほど二人の間にはヴァンに対する温度差はほとんど無かった。
地ベタに突っ伏し刻一刻と命を削られているヴァンに、どちらも救いの手を差し伸べない。
「分相応ね」
「どうでも良いから早く助けてくれ」
「いやよ」
黒髪の少女が死を宣告するかの如く即答する。
ヴァンは懇願の瞳を隣にいるもう一人の少女へと向ける。
「ほれ、早く抜け出さぬと全身を溶かされてしまうぞ」
艶やかな巫女服姿の少女は膝を折り、身動き出来ないヴァンを鉄扇でつつくだけだった。
ヴァンの上に乗っかっているのは巨大なスライムの塊。
元々は小さなスライムの集団だったもの。
しかしヴァンの足をタコのように絡め取り引き倒したあと次々に合体し、今では少女2人の背丈よりも大きな塊へと変貌していた。
その特徴からユニオンスライムと名付けられている、それほど珍しくもないD級眷属魔者。
戦い方さえ間違わなければ苦せずして倒せる最下級の雑魚である。
魔者とはモンスターや魔物の類ではなく、自然の摂理から逸脱した【魔】属性の生命体のことであり、その生まれ方と特徴から一応の区別をされていた。
モンスターが動物が狂暴化した存在の事を言うならば、魔物は人外の存在。
対して魔者というのは、〈魔素〉と呼ばれる悪しき力が集まり無から生まれた者、もしくは〈魔素〉を取り込み変貌した存在の事を言う。
ゆえにモンスターと魔物の両方の特徴を持っているともいえるが、その存在の成り立ちに必ず濃密な〈魔素〉が関わっているため区別は出来る。
むしろ幅が広すぎて、今ではモンスターや魔物という言葉はほとんど使われず、一様にして魔者という言葉で統一されていた。
〈魔素〉を取り込み変貌した存在の中には人の種も含まれており、魔者指定されていながらも人と同じ様に意思を持ち村を形成して暮らしている者達も多くいる。
例えばダークエルフの様な存在。
黒エルフとも呼ばれる彼等は、一般的な定義としては墜ちたエルフだったり闇に染まったエルフだったりする場合が多いが、その生誕過程に於いて〈魔素〉に魅入られ肌を黒く染め上げられている事から魔者の眷属とされている。
もっとも、エルフという言葉自体がこの世界では神域や精霊の森から見放された者達という意味を持っているため、既に彼等の仲間からはダークエルフ予備軍とされている訳だが。
また他にも、ほぼ全ての魔族もこの魔者というカテゴリーの中に含まれていた。
元々【魔】属性の洗礼を受けている魔族は、魔者と呼んでも差し支えがない。
それどころか、本来は魔者と呼ぶには相応しくない筈のドラゴン達ですら魔者として一括りに扱われていた。
もはや魔者の定義云々の話ではなく、色々と使い分けるのが面倒だからと言うのが人々の本音だったりするのは、誰も指摘しない真実である。
そんなこの世界特有の呼び方である魔者の一体、合体して大きくなったユニオンスライムに押し潰されながら、ふとヴァンは思う。
実は真面目にピンチではないのかと。
助けてくれる筈の仲間がすぐ近くにいるというのに、まるで助けようとしてくれない事実に今更ながら気付き、ようやく焦りを覚える。
「シェイニー、助けてくれ」
美少女二人、男一人というある意味羨ましいパーティー構成でこの迷宮に挑んだというのに、蓋を開けてみればこの有様。
これはぬしさまへの試練じゃ、と言ってまるで助ける気のない巫女服少女を見限り、ヴァンはもう一度懇願する。
今度は名指しで請われた少女は、求められた事に気を良くしたのか唇に柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたを助けたら、何でも一つ私の言う事を聞いてくれる?」
「何でも、か?」
「そう、何でもよ。私はあなたを助けた後であなたにこう命令するの。死になさい、とね」
「それ、助ける意味ないだろう……」
「あるわよ。何故なら、あなたが……」
確実に死んでくれる、確実性が違うと黒髪少女は躊躇いなく口にした。
胸の下で腕を組んだ姿勢のまま見下ろしているだけのS型黒髪少女――シェイニーとそんなやりとりをしている間にも、ヴァンの瞳には刻一刻と減っているHPバーが見えていた。
それはヴァンだけに見える、ヴァンだけの特別な能力。
この世界の人間ではないヴァンだけに与えられた特権。
今この時に於いてはあまり嬉しくない特権だったが。
死に行く自身のカウントダウンなど、誰も見たくは無い。
但し、ヴァンはその磨り減っていくHPバーにあまり緊張感は持っていなかった。
何故ならHPが減る速度は欠伸が出るほどゆっくりとしたものであり、また痛みも感じていなかったために。
だからと言って、背中の上に乗っかっているユニオンスライムによって体が徐々に溶かされているという事実には変わりない。
先に溶かされている服の方を気にする余裕はあっても、悠長にそれを受け入れている訳でもない。
抜け出そうと藻掻いても背中の上のスライムも一緒にずりずりと移動するため、ほぼ千日手状態。
先程までは体力の続く限り匍匐前進を試みていた。
が、結果は現在の通り、何ら状況が改善していないだけでなく、体力が尽きたことで自力での脱出はほぼ不可能。
頼りになる筈の仲間は見ているだけで一向に助け出してくれない。
それでも、目の前にいる2人の仲間の事をヴァンは信じていた。
「これでまた貸し一つじゃな」
数十分後。
巫女服少女に鉄扇で薙ぎ払われ水のようにあっさり分裂したスライム達が、黒髪少女の手によって次々弓で射られて消滅していくのを見ながら、ヴァンは深い溜め息を吐く。
「素手じゃまず倒せないって事、出来れば教えて欲しかった……」
記憶を失った状態でこの世界へ飛ばされたヴァンが、ひょんな事から手に入れた美少女2人を連れてその迷宮に入ったのは今朝の事だった。
目的は迷宮に巣くう魔者を退治し、経験値を稼いでレベルアップするのと同時に討伐報酬で懐を温かくすること。
だった筈なのだが……。
「ぬしさまが足手纏いになってどうするのじゃ」
「だったら俺にもその武器を使わせてくれ」
「素手で十分だと言ったのはぬしさまじゃろうに。せめて今日ぐらいはその我を通してみせてくりゃれ」
ヴァンだけがまだまともに魔者を倒す事が出来ないでいた。
その主な原因は、ヴァンだけが武器を買う事が出来なかったため。
ヴァンがわずかに持っていたお金はすべて少女2人の装備を整えるために使われてしまっていた。
「ユフィ、男にも二言はある」
「我は認めぬ」
二回りも背の低い巫女服少女――ユフィの言葉に、ヴァンは項垂れる。
「あらあら、これじゃどっちが主か分からないわね。私の弓を貸してあげましょうか?」
「弓だけ借りてもな。法術で矢が作れない俺には荷物にしかならない」
「ならいっそ荷物持ちに転職すればいいじゃない」
「それじゃ何の解決にもならないだろうに」
実際、シェイニーは弓は持っていても矢は持っていなかった。
ユフィが鉄扇の一撃でスライムをバラバラにした後、大小様々に分裂したスライム達にトドメをさしていった矢は、全てシェイニーが法術で作り出したもの。
つまり、物理的な攻撃ではなく法術による攻撃。
粘体生物であるスライムを倒すには、法術で攻撃するのが最良だった。
最悪は、素手による物理攻撃。
ちなみにユフィは鉄扇を法術で強化した状態で一撃を入れている。
「ぬしさまよ。少し皮膚が溶かされておるが、やはり痛くはないのかや?」
「ああ、ほとんど痛くない。呪いの効果さまさまだな」
所々薄くなった皮膚からジワッと血が滲み出てきている腕を見せながらヴァンは言う。
ユニオンスライムは所詮最下級のD級魔者。
いくら集まって合体したところで溶解力が変わる訳でもなくただ大きくなるだけ。
倒し難くなる事はあっても人が溶かされ尽くすまでの時間はまず変わらない。
飲み込んでしまい体内からも溶かされるような事でもない限り。
尚、最下級のD級と言っても、戦闘力の無い一般人から見れば十分に脅威となる存在なのは、ヴァンが危うく殺されかけた事からしても分かる通りである。
D級と言えど数が揃えば飽和攻撃により並の使い手でも呆気なく倒される。
ヴァンのように相性の悪い攻撃方法を選択すればまるで攻撃が通らいので、単体が相手でも殺される事例は少なくなかった。
D級というのはあくまで指標であり、一般的な脅威度であり、絶対という訳ではない。
B級の魔者を軽くあしらえる程の実力者であっても、法術が全く使えない状況に追い込まれ、武器もなくユニオンスライムの集団に取り囲まれれば死ぬ事もある。
迷宮内にはそんな悪質な罠もたまに仕掛けられているため、単身で迷宮に潜るというのは余程自分の力に自惚れているかそれなりの対策を講じている者だけである。
もしくは、迷宮をなめている新米か。
「あまり過信せぬようにの。痛みは大事な危険信号じゃ。知らず知らずのうちに取り返しのつかない傷を受けぬように気をつけてくりゃれ」
「分かっている」
「なら良いのじゃが」
傷を放置したままの時点で忠告の意味をあまり分かっていないヴァンに、さてどうしたものかとユフィは思案する。
ユフィとシェイニーの武器は揃えることが出来たものの、そこで資金が底をついたため、3人は傷薬などの回復アイテムは一切持たないまま迷宮に入っていた。
その時点で既に無謀と言える。
とはいえ、シェイニーが回復法術を使えるので、軽い傷程度ならばそれで問題ない。
問題は、そのシェイニーとヴァンの仲があまり良好とはいえない所にあった。
明らかにヴァンを毛嫌いしている素振りを見せるシェイニー。
実際には、ただ単にそれが彼女なりのじゃれ合い方に過ぎないのだが、現実問題としてシェイニーはヴァンに回復魔法をあまりかけようとしない。
折角の保険も、適用されないのであれば無いのと同じ。
加えて、嫌われている素振りを見せるシェイニーにお願いするというのはヴァンにとって非常にやりにくいことこの上ない。
ヴァンもシェイニーのそれが素振りだという事には気付いているので、むしろ総合的には二人の関係は良好とも言えるのだが、結果的に回復魔法が二人の間で飛び交わないのであれば解決になっていない。
普通ならば、仲間が傷を負えばすぐに回復する場面。
しかしシェイニーはヴァンに必要とされるまでは自分から回復しようとはせず。
ヴァンはシェイニーの毒舌に尻込みし、呪いの影響で痛くもないからまぁ良いか、と傷をそのままにしようとする。
それは生死を分ける戦いの中に身を置いている3人にとって、歓迎すべき状況ではない。
放っておけば黴菌が入って傷の治りが遅くなる。
もしくはその傷のせいで動きが鈍り、いつかどこかで戦闘に支障をきたす。
場合によっては、その傷が致命傷となる可能性もある。
ヴァンもシェイニーも、傷を軽んじている。
つまりそれは、死の危険性が常につきまとう迷宮の中で、二人が油断している事と同義であった。
「フン。そんな傷、舐めておけば十分よ」
ただ、シェイニーもその事には気が付いていた。
気が付いていたからこそ、あえてヴァンが求めてくるまで待っていた。
傷を負ったらきちんとそれを報告すること。
そして、必ず早く回復すること。
勝手に回復してくれる事を当たり前だと思わないこと。
例え言い出しにくかったとしても、それと物事の重要度を区別すること。
それをシェイニーは自分なりの方法でヴァンに分からせようとしていた。
が、いつまで待ってもヴァンが求めてこない。
求めてこないからつい虐めたくなる、そっぽを向きたくなる。
そしてそれがちょっと楽しい。
だから更に過剰な反応を見せてしまう。
それがまたヴァンを尻込みさせてしまい悪循環していく。
見る者によっては、それはただ二人がいちゃついているようにしか見えない光景だった。
ただ、だからと言って本当に放置して良い訳ではない。
最終的には物事の重要度を区別出来るシェイニーの方が折れて、仕方なくシェイニーは嫌々ながらも自分からそれとなく話を切り出した。
舐めておけば十分、と。
その挑発に対し、ヴァンが「なら舐めてくれ」と言ってくれば、「嫌よ」と答えて代わりに回復魔法を使う……そんな流れを期待して。
「そういえば、唾液には殺菌作用があるんだったな。だが、腕はともかくとして、流石に背中は自分では舐められないか」
まるで示し合わせたかのように舐めてもらう事を期待しているかのようなヴァンの切り返しに、しかしシェイニーはつい別の答えを導き出してしまう。
「あら、私に傷を舐めて欲しいの?」
「……なんかシェイニーにそう言われると、心の傷も一緒に舐められそうな勢いだな」
これは処置無しの烙印を心の中で押すシェイニー。
「そんなもの、ないくせに」
そう言った後、シェイニーは腰に下げていた袋から何かを取り出して、シャクッと囓る。
「さぁ、傷を出しなさい。この私があなたの傷を舐めてあげるわ」
「……今、何か食べなかったか?」
「気のせいよ」
薄い笑みを浮かべたままシェイニーが近づき、ヴァンの腕を取る。
柔らかな温もりがヴァンの手を包み込む。
ヴァンは言い様のない不安を感じながらも、美少女自らの申し出だったため、その奉仕を抵抗なく受け入れた。
シェイニーの艶やかな舌が、手の甲をゆっくりと舐め上げる。
氷菓子を楽しむように、舐める。
――瞬間。
「いたたたたたたっ!?」
ヴァンの手に、電撃の如き強烈な痛みが鋭く走った。
「ウフフフフ……この血の味、本当に久しぶりね。美味しいわ」
「ちょっ!? 痛い痛い痛い痛い痛い、痛いっ!」
暴れる腕をガッチリ掴んだまま、尚もシェイニーはヴァンの腕を舐めていく。
手の甲の次は手首。
二度ほど丹念に舐め上げた後、上腕へ。
シェイニーの舌がゆっくりとヴァンの腕を伝い、たっぷりと唾液を付けていく。
うっとりとした表情をシェイニーは浮かべていた。
「呪いの効果で痛みを感じないんでしょう? それはきっと錯覚よ」
「いやいや! 錯覚じゃなく、物凄く痛いからっ! もう舐めるのをやめてくれ! 頼むから!」
「分かったわ。やめてあげる」
舌が二の腕に差し掛かったところでようやく舐めるのをやめたシェイニーに、ヴァンはほっと肩をなでおろした。
と、そこで気がつく。
痛みのあまりシェイニーの柔らかい手をガッチリと握っていた事を。
そして、それ以上に強い力で握り返され捕縛されていた事を。
ほとんど敵を倒していないヴァンのレベルはまだ2。
それに対し、弓で散々敵を倒してきたシェイニーのレベルは既に7。
男女差を鑑みても、そのレベルの開きは力の差を覆すだけに十分な数値だった。
ちなみにシェイニー達には自分のレベルは見えていない。
これもヴァンだけに許された特権だった。
……とはいえ、2人には知ろうと思えば知る事の出来る情報ではあったが。
「シェイニー、さっき食べたのは何だ?」
傷口を舐められる事で痛みが発生するのは当然だとしても、明らかに痛みの度合いが異なる事にヴァンは疑いの目を向ける。
ヴァンが受けている呪いは痛みを麻痺させるものだが、痛みを完全になくすものではなかった。
とはいえ、余程の痛みでなければ思わず悲鳴あげるほどの痛みを感じる事はない。
例えアルコール消毒されたとしても、あれほどの痛みを感じるとは到底思えなかった。
「気のせいと言った筈よ。あなたの耳は腐っているの?」
「あれはどう考えても隠すつもりすらなかったように思うんだが……」
しっかりと目の前で行われた行為に、ヴァンが気付かない訳がない。
「もしかして、これの事かしら?」
そう言いながら、シェイニーはヴァンの手を握っている手とは反対の腕で持っていた丸い果実をまたシャクっと囓り食べた。
瞬間、飛散した果汁の霧がヴァンの腕に降りかかり、ピリピリとした刺激を生む。
「何だそれは」
「サンレモンよ」
「サンレモン? そんなもの、いったい何処で手に入れたんだ? 敵が持っていた……訳じゃないよな」
道中にもそんな物は落ちていなかった。
サンレモンの実がなっている木も見ていない。
どころか、木自体を迷宮の中で見ていない。
ユフィを見るも、ユフィも首を横に振る。
「宿を出る前に、こっそり女将から譲り受けたのよ」
「何のために?」
「勿論、あなたをいたぶって楽しむために」
「動機が不純すぎないか!?」
ちなみに、サンレモンはその名の通りレモンの親戚である。
レモンよりも酸味が強く、しかも若干のアルコール成分を含んでいるため、天然の消毒液としても利用される事が多かった。
但し、傷口にサンレモンの果汁をそのまま塗るとあまりの激痛で失神する可能性すらあるため、消毒液として使う場合は通常10倍以上に薄めた状態で使用する。
勿論、食材としても良く使われている。
「よくそんなもの、生で囓れるな……」
「あなたのためなら大した苦労じゃないわ」
「それは傷口を消毒するための苦労なのか、それとも俺への嫌がらせのための苦労なのか」
「後者に決まっているじゃない」
「いや、ハッキリ言わなくていいから! ……せめて夢だけでも見させてくれ」
「あなたが望むなら、いつでも永遠に夢を見続けさせてあげるわよ」
「結局そこへ行き着くのか」
ユフィが試しにとサンレモンを囓り、酸っぱ顔となる。
十分すぎるほどの間苦しんだ後、ようやく回復しシェイニーへ質問。
すると、舌を待避させつつ皮の表面だけを少しだけ囓るというテクニックを伝授される。
だが、チャレンジするも失敗。
以後、二度とユフィはサンレモンを囓ろうなどとは思わなくなった。
ユフィは嫌いな食べ物が増えた。
ちなみにサンレモンを囓った動機は、先程シェイニーが行った悪戯をユフィも試してみようかと思ったからだった。
その不純な動機を察していたヴァンだったが、ユフィにも舐めてもらえる可能性を期待して黙ってみていたのは内緒である。
むしろその可能性が消えたことで酷く残念に思ってしまう。
例え強烈な痛みが伴うとしても、美少女に傷口を舐めてもらうというのはとても嬉しい事である。
色んな意味で。
「言い忘れたけど、代金はツケにしておいてくれるそうよ」
「貰ったんじゃないのか……というか、お金がないことが分かってるんだから、俺に悪戯するためだけにわざわざ買ってくるなよ」
ヴァンの財布には今現在空気しか入っていない。
ユフィとシェイニーも右に同じ。
何も武器を持っていない分、ヴァンの身体も空気のように軽かったが。
「別に買いたくて買った訳じゃないわ」
「うん? どういう事だ?」
「うまくいったと思ったんだけどね。盗んだのが見つかってしまったのよ」
「おいっ!?」
「冗談よ。本気にしないで」
「そ、そうか……吃驚させるなよ」
質の悪い冗談にヴァンがほっと肩を撫で下ろして気を緩める。
そのタイミングを見計らったかのように、シェイニーがまたサンレモンをシャクッと囓ってヴァンの傷口を舐めた。
「いたたたたたっ!? って、おい!」
「暴れないでよ。舐めにくいじゃない」
「舐めるなよ! というか、さっき舐めるのやめてくれるって言ってなかったか?」
「ええ、言ってたわね。だからちゃんとさっき言ったじゃない。それは冗談だって」
「会話が繋がってないぞ」
「ちなみに、盗んだのはあなたの命令だって言っておいたから。貧乏って大変ね。女将さん、まるで疑っていなかったわよ」
「……冗談だよな?」
「さぁ、どうかしら」
「いや、そこではぐらかすなよ……」
シェイニーの楽しそうな笑みに、ヴァンは思わず溜め息を吐く。
尚、サンレモンは無償で譲り受けたものである。
アイテム類を何も持ち合わせていない事を懸念したシェイニーが、傷の消毒に丁度良いサンレモンを厨房で見つけ、女将に事情を説明して頭を下げた次第である。
ヴァン達が今夜の宿代すら払うお金を持っていない事を知っていた女将は、シェイニーの献身ぶりに心を打たれ、約束を一つ交わす事でシェイニーのお願いを聞き入れる。
ヴァンはこの後、女将の説教が待っている事をまだ知らない。
「シェイニー。舐めて消毒するぐらいなら、いっそ法術で回復してくれ」
もし本当にシェイニーがヴァンの事を嫌っていれば、きっと恐ろしく嫌そうな顔をした事だろう。
ヴァンのその要望に、シェイニーが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「私の法術は高いわよ?」
「一蓮托生なのに金取るなよ」
「なら、たまには貸しを返して欲しいわね」
「その服と弓を買ってやっただけで十分だろ」
「この弓を買える金額まで値切ったのは私よ。それと、服はツケだという事を忘れていないかしら?」
「そうだった……」
ちなみに、シェイニーが持っている弓は梓弓と言った。
東方では神事などにも使用される小ぶりな弓だが、シェイニーが持っているのは実用一点張りに作られたもの。
単純に梓の木を使用している事からの弓の名。
とはいえ、射るべき矢が法術で代用されているので、今のところその真価はまるで発揮されていなかったが。
「ぬしさまよ。シェイニーとじゃれ合うのも良いが、ぬしさまはこの小休憩の間に先程の戦闘について反省というものをちゃんとしているのかや?」
「そんな暇があるように見えたか?」
「たわけ。今、思い切り暇しておるではないか」
シェイニーが法術で傷を治してくれている間、ヴァンはずっと警戒していた。
いったい何に対してか。
シェイニーがまた何か悪さをしてこないかと、ヴァンは気が気でなかった。
さっきからずっとシェイニーの方へ意識が向いているのを寂しく思ったユフィが、すねた猫のように八つ当たりの攻撃を始める。
一撃ごとに受けるダメージ量はスライムの溶解攻撃よりも多かった。
回復魔法を受けているのにHPバーが減っているのは、これ如何に。
ユフィの八つ当たり攻撃に隠れてシェイニーも攻撃を加えている事にヴァンはまるで気付いていない。
「ぬしさまが我等の手綱を握るつもりがないというのは、まことに喜ばしいことなんじゃがな。ぬしさま自身の手綱も放り出されてはたまらぬ」
ユフィがそう言うと、何かを思い出すように、ヴァンは視線をそらしてばつが悪い表情を浮かべた。
「まぁ、そのなんだ。ユフィというしっかり者が支えてくれているから、俺は安心して無茶が出来るということで」
「頼る事と甘える事は同じようで違うんじゃがの」
叱る事よりも褒める事の方がユフィは好きなのだが、その肝心の褒める事がなかなか見つからない事にユフィは溜め息を吐く。
素手で戦う事を選び、その我を貫くかのように相性の悪いスライムへ素手で立ち向かった事を褒めようかと一時は思った。
スライムの核を狙って拳を打ち出した事も十分に褒められる内容ではあった。
しかし、すぐにあっさりと負けてしまったのがいけなかった。
相手はスライム。
その事は、戦う前に説明していた。
故に、褒め言葉も下手をすれば揶揄となりかねない。
そのまま言葉を探している間にヴァンがシェイニーと戯れ始める。
切っ掛けを探してサンレモンを囓り、軽く後悔。
沸点の低いユフィが八つ当たりしたくなるのも仕方がなかった。
これは嫉妬ではないと自分に言い聞かせながら、あくまでその道の先輩風を吹かせて誠に優しい説教を続ける。
「ぬしさまが受けておる呪いの事は、まぁ仕方がないとしてもじゃ。ぬしさまには真剣さがまるで足りぬと我は思う」
「これでも戦闘中は真剣なんだがな。流石に命がかかっているし」
「あっさり白状しおったか」
シェイニーも流石にヴァンのその言葉は聞き逃せなかったのか、回復の手を一端止める。
ヴァンも流石に二人の雰囲気が変わった事に気が付く。
「……何かまずい事を言ったか?」
ヴァンが恐る恐る聞くと、ユフィは呆れた顔をして少し怒ったように言う。
「たわけ。ここをいったいどこじゃと思うておるんじゃ」
「迷宮の中だが?」
「そう、迷宮の中じゃ。いつどこで罠が発動し、敵が襲ってくるやも知れぬ危険な場所じゃ。だというのに、ぬしさまは戦闘中だけ気を張っておるというのかや?」
「いや、戦闘中以外も一応は気をつけている。それは言い過ぎだ」
「一応のぉ」
気配を消したシェイニーが、サンレモンを物音を立てずに再び荷物袋から取り出す。
今度は囓らないまま、まだ手当てしていない傷口へと直接向ける。
ユフィはその光景が見えていたが、ヴァンに悟らせないため鉄の意志で瞳をヴァンへと固定する。
「ぬしさまにはもう少し教育が必要じゃな」
「うん?」
まだよく分かっていないヴァンの注意が、ユフィの手の上で遊ばれている鉄扇へと向く。
そのヴァンの背中へ、躊躇なくサンレモンが押し当てられた。
「いっ……!?」
ヴァンの悲鳴は、たまたまその迷宮を訪れていた者の耳まで届いたという。
それから約半刻後。
冷たい石畳の上にヴァンは俯せに寝そべっていた。
そのヴァンの上には、山のように盛り上がった大量のゾンビ達の姿。
道中も真剣に取り組んだ結果、何も変わらなかった未来がユフィとシェイニーの足下に転がっていた。
「先に気が付くべきじゃったか。真剣じゃったのにスライムに負けおったことに」
狐のような栗色髪をした巫女服少女がチラッと横を見る。
「罠、見事なかかりっぷりだったわね。惚れ惚れしそうなぐらい」
同意を求められた黒髪の少女が、まるで氷の如く温度の感じられない言葉を淡々と言う。
「よくこれで今まで無事だったわね。何度か単身で迷宮に入っていたのでしょう? 嘘を吐いているとしか思えないくらい信じられないわね」
「教える事は多そうじゃの。じゃがその分、成長後の姿が楽しみでもある」
「酔狂としか思えないわ」
「甲斐甲斐しく世話をやくだけをよしとしないのはぬしも同じじゃろう?」
「……死ねば良いのに」
その言葉が本心でないことを確信しているユフィが、やれやれと言いながら重たい足で歩き出す。
窮地に陥った時、助けるのはユフィ。
傷を負った時、癒すのはシェイニー。
事前に2人で取り決めた今日の方針に従って、ユフィが膝を折り鉄扇でヴァンの頭をつつく。
それに気付いたヴァンが首を持ち上げる。
ユフィとシェイニーという仲間がいなければ絶体絶命の状況だというのに、ヴァンの顔にはあまり緊迫した感情の色は浮かんでいなかった。
仲間への信頼の証。
その前に現実というものをもう少しハッキリと理解して欲しいとユフィは思う。
余裕は甘えでしかなかった。
「ぬしさまよ」
ユフィの問いかけに、ヴァンの瞳が申し訳なさそうに懇願の色を浮かべる。
そんな情けない姿を見せ続けるヴァンに。
「少しは我に良い所を見せて、我を惚れさせてくりゃれ」
そんな願望をつい告げてしまうのは、おそらく一瞬でも惚れてしまったからじゃろうな、とユフィは思うのだった。




