すくい金魚すくい
【昭和五七年・千夏】
ぬるりとしたあかい金魚が、宙でほどける。
いつの間に、金魚は空を飛んでいたのだろう。それとも、私が水槽の中に落ちたのだろうか。
水の中で絵の具の付いた絵筆をゆすぐように、金魚は赤をほどいて宙に軌跡を描く。
赤を失った金魚たちは──ああ、色とりどりで綺麗。
あれは青に朝顔、こちらは桃に蜻蛉。
今の私はきっと、白に撫子の金魚だ。
・・・
高い笛の音がやたら耳につく。境内なんて人だらけなのに良く響くよね。うるさいお囃子だなぁ、と、私はお母さんとお守りを売っている社務所の中から境内を見回した。
売れたお守りをお客さんに手渡しながら、私はちらちら時計を見る。あと二〇分で一八時。つまんない家の手伝いはここまでだ。
お客さんがちょっと来なくなったのを見計らって、立ち上がる。お母さんは少し迷惑そうな顔をしたけど、一八時前に出るって約束だ。神社の娘だって、お祭りの日は遊びたい。手伝いばっかりさせられてたまるか。
巫女の白い小袖と朱袴のまま、私は神社の隣にある家に戻った。
ベッドの上にはこの日のために買った白地にピンクの撫子の浴衣がもう広げてある。
紅の帯を締めながら、こういうとこは神社の娘で安上がりだったなぁと思った。浴衣の着付けで、いちいち美容院に行かなくて済む。
仕上げに、奥の神棚の傍にある大きな姿見の前で帯を確かめる。
もっとふわっとさせた方が可愛いかも。
迷っていると、社務所に差し入れに行くらしいおばあちゃんが通り掛かった。
「あら、千夏。その結びは具合がよくないわね。文庫結びは身幅じゃないと」
帯の後ろの結びを大きく膨らませたことが、おばあちゃんには気に入らないらしい。
おばあちゃんはおじいちゃんをお婿にとって、この浅倉の家と神社を継いだマジメな人だ。だから礼儀とか作法とかにうるさくって、
着付けだって、昔ながら、って感じのじゃなきゃ認めてくれない。
また始まった、と、私は逃げ出す準備をする。
「それにねえ、その浴衣。別のにした方がいいと思うわよ。だってあなた、香子姉さんは丁度そんな浴衣で消えてしまったのよ」
「香子さん」の話は聞き飽きた。
「香子さん」は、おばあちゃんのお姉さんで、本当はこの神社を継ぐはずだった人だ。
決められたお婿さんを取ってこの神社を継ぐはずだったけど、彼氏がいたからそれが嫌でしょうがなかったらしい。でも、その頃って親に逆らうことなんか出来なくて、結局夏祭りの後に結婚式をすることに決まっちゃったそうだ。
香子さんも逃げられないことは解っていたからすっかり諦めているように見えたらしい。なのに、香子さんは夏祭りの最中、ふらっと消えたそうだ。誰に見られることもなく。
おばあちゃんはそれを、境内のどこかで神隠しに遭ったんだ、って言った。私や内に遊びに来た友達に、繰り返し繰り返し。
お祭りの日は用心しなさい、って。
「でもそれ、ただの駆け落ちでしょ?」
おばあちゃんは私たちを脅すけど、香子さんの彼氏も同じ日に消えたんだって、怖がる私にお母さんが教えてくれた。だったら神隠しなんかじゃなくてただの駆け落ちだ。
おばあちゃんはマジメだから、結婚するのを嫌がった香子さんに罰が当たったって信じてるのかも知れないけど。
私は黙り込んだおばあちゃんを振り切り、玄関に出た。時間はちょうど一八時。そろそろ玲が迎えにくる時間だ。
幼馴染の玲と付き合い始めて、初めての夏祭り。これでも手一杯きれいにしてやったつもりだ。文句なんか言ったら許さない。
「よう」
玲はいつものようにTシャツにジーンズで、目つきも悪く私のことを見回していた。
確かに浴衣の色も柄も事前に喋ってしまったけれど、何か──何か一言くらいないのか。
「やるよ」
ぽい、と渡されたのは、小さな端切れを合わせて作ったらしい、紅色の巾着だった。
「あ、ありがと……」
浴衣の撫子の花より少し濃いその巾着に、私はあわてて持っていた巾着から中身を移し、元から持っていた方を玄関に放り込んだ。
どう、と、聞くことはできずに視線だけを向ける。玲はつった目で私のことを上から下まで見やり、口を開いた。
思わず目をつぶった私に、彼は言う。
「最初はから揚げだよな。次に何食う?」
「……お好み焼き」
答えた自分は、バカだと思う。
【昭和七年・香子】
高い笛の音の印象的なお囃子が鳴り響く。人で噎せ返りそうな境内をものともせず、私と母がお守りをお渡しする社務所まで届いた。
時刻は、一八時まであと二〇分。
背広にパナマ帽や着流し、浴衣と色々にゆきかうひとたちを眺めながら、私は母に「下がります」と声を掛ける。
母はそっけなく頷いた。私が縁談を厭ったことを、まだ怒っているのだろう。
浅倉の家は、代々神職にある。私の父には私と妹の杏子の他に子供は出来なかったので、私は割合幼い頃から、いずれ婿を貰って家を継ぐのだと教えられてきた。
かつては誇らしかったその役目が、今の私には厭わしい。
社務所から出て、神社の隣の家に向かう。衣紋掛けで、自分で仕立てた、白地に撫子の浴衣が待っていた。
私はこの浴衣を着て、婿に来て下さる方と、今夜の夏祭りを見て回らなければならない。
きっと、良い人なのだと思う。神職の家の次男坊らしく、おっとりとして、上品で。
でも。
浴衣に着替え、私は家を出る。待ち合わせ場所は鳥居の下だ。
重い足を引きずるように一歩、二歩と雑踏の中に踏み出した私の手を、誰かが掬う。
はっとした私の手を強く、決して逆らえない強さで引いていたのは、正人さんだった。
小さな頃から憧れていた、そうして、いけないと解っていながら想いを交わした、私にとってただひとりのひと。
開襟シャツに洋袴の彼は、無言のまま私をどこかへ導こうとしていた。色素の薄い髪と目が映える白い肌は、常より一層白い。
もう私たちが逢ってはならないことなど、私が結婚を控えていることなど、このひとは誰より良く知っているはずなのに。
「正人さん」
「この人ごみなら、逃げ切れる」
出来っこない。帝大にお通いなのに、そんなこともお解りじゃないの?
声は掠れて、出て来ない。
幼い頃から難しい外国の本を片手に、いずれ本朝を支える人間になるのだと、神童だと謳われた貴方。貴方がどうしてこんな暴挙に。
「今の時代はもう、西欧からの科学全盛なんだ。古い日本の神の因習なんかに縛られて、僕らが裂かれることなんかない」
貴方はいずれ、高級官吏におなりでしょう。
私はいずれ、この神社を継ぐでしょう。
最初から、私たちに先なんかなかった。あなたは良いところのお嬢様をお迎えすべきだし、私は神職のお家から婿を取る。
それくらいのことはわきまえている程度に、大人になったつもりだった。
なのに、私は彼を止めらない。少女雑誌の小説のように、このまま私を攫って欲しかった。いっときの夢くらい、私にも。
お祭りの雑踏に紛れ込む。お祭りの赤い灯りとお囃子という幻のような光景の中では誰もが見知らぬ他人にしか見えない。ゆきすぎる出店は蝦蟇の油に見世物小屋に飴細工。
どれもこれも、ゆめまぼろしのよう。
曖昧な世界は、けれど、神域の直ぐ隣だ。そんな神聖な場所で男の方と逃げるなど、私はなんて業が深いことを。
思ったしなに、目の前が真っ白になる。とっさに正人さんの腕に取りすがってしまったのが、私の正直だろう。
なに、と、互いに言い合った私たちの足元が揺らいだ。こぷこぷ、と、周りがぬるい水で満たされていく。
目の前をゆくのは、ああ、何て美しい金魚。
今の私はきっと、白に撫子の金魚だ。
【昭和五七年・千夏】
浴衣にコメントをしなかったことは、まあ見逃してやってもいい。別にそんな、小さいころから一緒に泥まみれになって遊んでたんだし、今更可愛いも何もないだろう。そもそも甘ったるいことを言ってくれるようなヤツじゃないのはよーく知ってる。
だけど、何このラインナップ。
から揚げにお好み焼きに、かき氷と、ああ、じゃがバタも食べた。食べてばっかで手も繋いでくれやしない。私は男友達かっての。
……ほんとは男友達と来たかったのかなぁ。
私の少し前を歩く玲の、野球部らしく染める気配もない黒い後頭部を睨み付けながら、私は一人で拗ねる。
「……食べてばっかじゃない?」
「だって祭りのメシってウマいじゃん。お前も好きだろ。俺のポテトまで食いやがって」
「いくつのときの話してんの!」
ポテトを容器ごと奪って食い尽くしたのは、幼稚園のときだったか。そのあと魔法少女レイリィの綿あめを取られたんだから、あれはお互い様のはずだ。
ああもう、ダメだこいつ。もう少し、なんかこう。
上手く言葉に出来ないイライラが溜まる。それが私のわがままだって解ってるから、なおさらだ。
私はぷいと横を向き、あ、と、呟いた。
境内の隅に、金魚すくいの屋台が出ている。
ほかの金魚すくいには小さな子供がたかっているのに、あの金魚すくいは空いていた。今がチャンスと言いたげな金魚すくいに、私はふらっと引き寄せられた。
このままだと、玲にイライラをぶつけてしまいそうだ。そんなつまんないケンカなんか、したくない。
「おい、千夏?」
玲は困惑気味に後ろからついてくるようだった。口を開いてイライラが飛び出すのが怖くて、私は口をぎゅっと結ぶ。
「三〇〇円だよ」
店番のおばあさんに言われて、私は巾着からお財布を取りだした。
玲がくれた紅色の巾着に、わがままな自分の心は少しだけ揺れる。でも、後ろに立ってる玲に何を言っていいのか解らない。
私はおばあさんから紙で出来た道具を受け取って、水槽の前に屈み込んだ。
青い水槽だった。端っこには、ぶくぶくと泡を立てる管が差し入れられている。緑色の水草がゆらゆらしていて、その合間を、ついっと赤い金魚が泳いでいた。
屋台の白熱電球の下、橙色に光る水面に咲く花みたいに、赤が泳ぐ。どれを掬おうかと目で追っていると、暑さのせいなのか、ぼうっとしてきた。
また一匹の金魚が、私の目の前を横切る。
──横切る?
はっとして周りを見回すと、いつの間にか、本当にいつの間にか、私の周りを金魚が泳いでいる。赤い金魚たちが、尾びれを優美に動かして。
空飛ぶ金魚? と、言葉が口をついて出るのと、私が自分の周りに水を感じるのは同時だった。
こぷり、と、私の体を取り巻くのは、ぬるいぬるい水。だけど息は少しも苦しくない。水の中でも呼吸出来るようになったみたいだ。上を見上げると、ずうっと遠くで橙色の灯りが揺れている。
「あ、玲!」
思わず玲を呼んだ。するとすぐ後ろから「なんだこれ」という玲の声がする。
振り返ると、玲は、ぽかん、と、周りを行きかう金魚を見ていた。
「ね、玲。あの金魚すくいって、金魚すくいじゃなくて手品だったの?」
馬鹿なこと言ってるんだろうな、って自分でも思ったけど、ほかに考えられない。
考えたくない。
「かもしれないな」
玲も私と同じなのかも知れない。いい加減なことを言ったのに、玲は少しも私の言ったことをバカにしなかった。
優美に泳ぐ赤い金魚は、ぬるりとしたその赤を、水の中にとろかしていくようだ。私の目の前でいくつもの金魚が次々に色を変えていく。
あれは青に朝顔、こちらは桃に蜻蛉。
今の私はきっと、白に撫子の金魚だ。
【昭和七年・香子】
真っ白いものに掬われて、気づけば私たちは水底にいた。
といっても、不思議に息をすることは出来る。骨肉を責めるような水温でもなく、ぬるくやさしく、このままいくらでも眠ってしまえそうだった。
周りには、数多の金魚が行きかっている。優雅な金魚たちは赤色を融かし、次々に色合いを変えていった。
あちらは縹色に菖蒲、こちらは紅色に花手毬。どの金魚もそれぞれの色に変じる。
色柄もとりどりの金魚たちは更に水を渡り、やがてふっと人の姿になった。
着物を着ている彼ら、彼女らは笑顔で水底を歩き始める。いつの間にかお囃子の音が聞こえて、出店さえあるようだった。
なのに、見上げると橙色に揺らめく水面があるのだ。ここは確かにみなそこなのだろう。
一人のご夫人と目があった。
彼女は旦那さまと思しき方と腕を組み、私に向かって会釈をして「ごきげんよう」とおっしゃる。苦しさも悲しさも、その方からは少しだって感じることは出来なかった。
「新しくおいでになった方?」
ご夫人は優雅に団扇をお使いになり、楚々と笑まれた。そしてお隣に立たれる丸い目の印象的な旦那さまにそっと視線を流し、こう仰有ったのだ。
「わたくしたちは、このみなそこに参ってから、もう百有余年になるかしら」
「百……」
呆然とした私に「ここはそういうところなのだわ。ずっと変わりはしないの」と、ご夫人は仰有った。
しず、と、ご夫人の名前らしきものを、彼女の旦那さまが仰有る。優しいそのお声に「はい」とご夫人はお返事された。そして「ではまたどこかで」と、お二方はお祭りの雑踏の中に消えて行かれる。
「──香子」
呆然としていたらしい正人さんが、このとき漸く口を開いてくださった。
「僕は、日本の神は何て狭量なのだろうと憤っていたんだ。
でも、もしかしたら、そうではないのかも知れないね」
同じことを、私も考えていた。
わたしたちは、すくわれたのだ。
「で、でも正人さん。貴方は帝国大学からいずれ官吏におなりに」
「香子、いいんだ」
もういいんだ、と、正人さんは優しい目と声とで繰り返された。
あのまま逃げていても、私たちはいずれ見付かっただろう。
いいや、見付かっていなくても、きっと私たちはただ幸福にはなれなかった。
家族のこと、継がねばならない家のこと。幼いころから教え込まれたそれから、どうして逃げられるだろう。
そしてきっと、置いてきた安楽な暮らしに対する打算も消えはしない。
罪悪感と欲とが私たちを苛み、帰り道への切符へ幾度も手を伸ばさせようとする。切符を手に取っても取らなくても、戻りたいと思ったことが、私たちを苛んだだろう。
逃げても、幸福にはなれぬはずの恋だった。
けれどここに来たのは私たちの意思ではなく、出る術すらない。そこに言い訳が出来る。
言い訳出来てしまう。
私は正人さんと、ここで永劫たゆたっていられるのだ。金魚の姿であったとしても。
私の身体は、まるで初めからそうあるべきものだったかのように正人さんの腕に収まる。
「香子は僕の妻だ。いいね」
「──はい、正人さん」
私たちは、金魚になった。どことも知れない、神なのか魔なのか解らないものが拵えた、この永遠の水槽の中で。
ここは、確かに不変だった。
いつまでも続くお祭りに、どこまでも広がる境内。そしてそこを行き交う、人なのか金魚なのかもう解らない者たち。
私たちのような夫婦ものもいる、女の子同士連れ立っているのも、男の方たちが肩を組んでいるのだって。どの方々も、いつお見かけしたってしあわせそうだった。
固く手を握り合わせた私たちと同じように。
【昭和五七年・千夏】
どこを見ても溢れてた色とりどりの金魚の群れは、いつの間にか、ふっ、と、人の姿になっていた。
気が付けばお囃子が聞こえるし、目の前には屋台もある。夢でも見ていたのかと思ったけど、見上げたら水面もある。
「玲、玲、なにこれ」
「お、俺にだって解るか!」
こんなのもう、手品じゃない。
おばあちゃんが言っていたことが、今更頭の中をぐるぐるする。
神社の手伝いを放り出して玲と遊んでいるから罰が当たったのかな。
考えてたら気持ちが悪くなって、しゃがみこみそうになる。その私の腕を、玲が支えてくれた。昔は私の方が強かったのに、がっしりしているのがずるい。悔しい。うれしい。
「どうかなさいましたか?」
声を掛けてくれたのは、薄い緑の夏着物の女の人だった。後ろには、旦那さんなのか彼氏さんなのか、背の高い男の人がいる。この男の人もきっちり着物を着ていた。
いまどきお祭りに浴衣じゃなくて夏着物で来るなんて、と、思ってからおかしくなる。
そもそもここは、普通じゃないんだった。
黙り込んだ私に、女の人は「ああ」と小さく呟いた。
「来られたばかりなのね。ここは……こういうところ。ずっとずっと、こういうところよ。それだけ」
「なっ、なんでこんなところに私たちが連れて来られなきゃいけないんです?」
「さあ、解らないわ。ずっとここにいるわたくしたちも、どうして、誰がここにわたくしたちをお連れになったのかはわからないの。きっとここにいる、誰にも」
そんな、と、呟いたのは私だけじゃない。私を支えていてくれている、玲もそうだ。
「でも大丈夫よ。ここにいれば何も心配いらないの。おなかいっぱい食べられるし、いつまでもこのまま、楽しくいられるわ」
ね、甚三郎さま、と、彼女は男の人に言った。この人たちは、どれ位前からここにいるんだろう、と、改めてぞっとする。
それじゃあ、と、行ってしまった二人が遠くなってから、私は玲の体を揺さぶった。
「ね……ねえ、どうしよう。どうしたら」
「……俺は、悪くねえと思った」
「え?」
思い掛けない答えに、つい「何言ってんのこのバカ!」と声を荒げてしまう。だってここから出られないということは、家に帰れないってことなのに。
「お前がいて、別に生活に困りゃしないんだろ? だったら……それもいい」
「玲……」
浴衣ひとつ褒めてくれなかった癖に、なんてばかな。
どうしよう。
うれしい。
【昭和五七年・香子】
ここに来てからどれくらいの時間が経っただろう。
時々、家のことを思う。私がいなくなって、後は杏子が継いだに違いない。あの子は誰かと引き離されたりしていないだろうか。両親は、正人さんのご実家は……。
私たちが消えたことで、運命が狂った人は多い。申し訳なさに心が焼けることはある。
それでも帰る術がないのをいいことに、私たちはしあわせに漂った。金魚が優美に泳ぐ中で、正人さんの手は私の手にあるのだもの。
周りも皆しあわせそうで……けれど時々、迷子を見つける。
一人ぼっちでぽつんとしているか、あるいは、とても金魚にも人にも見えないものに親しげに語りかけているか。
すくいそこね、ということもあるのだろうか。そもそも私たちが「すくわれた」と思うことさえ、私の勝手な想像なのだけれど。
私は時々、そういう人に声を掛ける。正人さんとふたりで、今あなたが手を繋いでいるひとは、本当に手を繋ぐべきひとなのか、と。
しあわせのあまり、人に優しくしたくなったのだ、私は。
とても傲慢だと解っているけれど、永遠にしあわせでいられるのだろう私は、泣いている人を見過ごしには出来なかったのだ。
声を掛けると、何人かに一人はふっと消えていく。行く先は私には知れないけれど、帰るべき場所に帰れていることを祈っている。
今日もまた、私はそんな子を見つけた。
「あの浴衣、君と揃いだね」
正人さんが仰有る通り、白地に撫子の花の浴衣を着た、気の強そうな女の子。
はっとした。
「……杏子」
その子の面差しが妹に似ていることに、私は気づいてしまったのだ。
あの女の子は、妹の係累に違いない。
【昭和五七年・千夏】
玲がこんなにはっきり、私がいればいいって言ってくれるなんて、思ってもみなかった。
それが本当なら、本気なら。
「ほ、ほんとにバカなんだから! だ、だってそんなの」
「お、俺だってな。そのうちその、結婚とか考えてなかった訳じゃないんだからな」
がくん、と、気持ちが落ちたのが解る。
玲と、本当に、このまま。
「ね、貴女」
いきなり声を掛けられた。さっきの女の人とは違う、私たちとおなじ──高校生くらいの女の子だ。白地に撫子の浴衣で、何だか、誰かに似ている。
女の子の隣には、大学生くらいの男の人が立っていた。髪が茶色っぽい、すごく優しそうな人だ。
二人はしっかり手を繋いでいて、私には、何だかそれがすごく羨ましかった。
「貴女、一緒にいらっしゃるのはどなた?」
なんで知らない人にそんなことを聞かれなくちゃならないの。
思わず言い返しそうになったけど、やけに真剣な顔をしているので言いかえし損なった。
彼氏です。そう言おうとした私に、女の子は「貴女が仰有ろうとしていることに、間違いはないですか?」と畳み掛ける。
今度こそ頭にきた私は、手にある巾着をぎゅっと握り──気づいた。
玲は本当に、本当に、家族も何もかも捨てて、私と一緒にいたい、なんて言うだろうか。私が浴衣を着たって、屋台のごはんばっかり勧める──昔通りに、家族みたいに私を喜ばせようとするばっかりだった玲が。甘ったるいことなんか言えない玲が。
私は肩越しに恐る恐る振り返る。黒髪につった目の、彼女としてのひいき目を差っ引いても整った玲の顔がそこにある。
でもなんだか、そう、表情が。
「あきら、どこに、いるの」
ぱきん、と、大きな音が巾着から聞こえた。
途端、周りの水が私に襲い掛かる。息が出来ない。苦しい。
私はきっと、金魚ではなくなったのだ。
ごぼごぼと水を掻く私の前で、白地に撫子を描いた金魚が叫ぶ。
「貴女がもし浅倉杏子を知っているなら、伝えて! 香子は今も正人さんとしあわせです、と!」
ああそうか、あのひとが「香子さん」だったのか……。
「千夏!」
肩を揺さぶられてはっとした。
身体中に嫌な汗を掻いている。いつの間にか、拝殿の裏手に私は立っていた。
私の真正面には玲がいて、らしくもない必死な顔で私を揺さぶっている。
「あき、ら?」
本物? と聞くより早く、玲は私のことを抱きしめた。びっくりして、つい突き飛ばそうとしたのだけど、玲は私から離れない。
「びびらせんな、バカ! いきなりこんなところに向かって走りやがって」
「ここに? 私が?」
「……覚えてねえのか?」
玲は私の身体を離すと、私から巾着を取り上げた。ためらいもなくそれを開け、中に指の長い手を突っ込む。
やがて玲が取り出したのは、入れた覚えのない、真っ二つに裂けたうちのお守りだった。
「お前のばあちゃんが、俺らが子供の時に、祭りの日には神隠しがどうたらって言ってただろ。お前危なっかしいから、縫いこんどいたんだ」
正解かよバカが、と、吐き捨てられて、私は思わず涙ぐみながら笑っていた。
「お手製だったの、あんたの!」
「野球部なめんな、ユニフォーム繕うのは俺らの仕事だ!」
照れ隠しだと解っている怒鳴り声なんて怖くない。泣き笑いに笑っていると、玲はもう一度私を抱きしめた。なんだ、怖い目にあったのか、と、大人の男の人の声で。
「千夏、お前一回帰って休め」
「うん……そうする、ごめんね」
玲が私の手を取る。普段は手なんか引いてくれないくせに、と、悔しくて嬉しかった。
玄関扉を開け、そのまま中に入ろうとする私を止めるように、玲が「すみません!」と中に声を掛ける。手は繋いだまま。
慌てて振り払おうとするのに、玲は私を離してくれなかった。
はーい、と、奥からぱたぱた出てきたおばあちゃんに、玲は「千夏、少し具合が悪くなったみたいです」と言う。
「あらまあいけないこと」
お布団敷かないと、と、奥に戻ろうとするおばあちゃんの、しわしわの手を私は掴んだ。
「おばあちゃん、香子さんって白地に撫子の浴衣だよね? 正人さんって、なんか、茶色い髪で優しそうな人だよね?」
おばあちゃんがはっきり凍りつくのが解った。ああ、やっぱりあれは夢じゃない。
「千夏、お前に正人さんのお名前まで話したことがあった?」
「香子さん、言ってた。今も正人さんとしあわせだって。浅倉杏子を知っているなら伝えて、って。私、会ったの、何だか水の中みたいなところで」
おばあちゃんの腕が、ぶるぶる震える。
いたずらを言うなと叱られるのか、それとも泣き出しちゃうんじゃないかと思った。
それなのに、おばあちゃんは顔中をくしゃくしゃにして笑ったのだ。
「そう……姉さんしあわせなの」
それがずっと気にかかっていたのよ、と、おばあちゃんは聞いたことがないほどしあわせそうに、呟いた。
「うちのおじいさんは姉さんの婿さんになるはずの人だったの。私は幸せだったから、申し訳なくてねえ」
お前が帰ってきたことと合わせて、神さまにお礼申し上げないと、と、おばあちゃんは微笑む。
さあお前は寝なさい、と、おばあちゃんが私の背中をそっと撫でた。
私は玲に手を振って、家に上がる。
白地に撫子の柄の金魚は、すぐ近くをしあわせそうに泳いでいる。
なぜかとても、そんな気がしていた。