挿話 青正十二年 結ばれた縁。
はっ、はっ、はぁっ。
相模国小田原近辺のとある街道に一人の青年が走っていた。
茶色の短髪に少年のような印象を与える顔つきは中々整っている。
だが彼は何やら恐ろしいものに追われているように、恐ろしい顔で後ろを振り返りながら駆けている。
しかし青年の後ろには何も追いかけてきてはいなかった。
気が狂ってしまっているのだろう。街道の人々は足早にその場を通り過ぎて行った。
青年は一人考えた。
どうしてこうなったのか。
わからない。
後ろからずるずると黒い影がついてくる。それは禍々しさと不安を与える。
あれに捕われてはならない。理性ではなく本能の部分でそう思わせていた。
青年は嘆いた。どうして僕ばかりこういう目に会うのだろう。
何故、僕が招いてしまうのだろう、と。
青年の出身は武蔵国の小さな村だった。
どこにでもありそうな街道や町から外れた寂れた村だった。
青年は村の小さな家に五男として生まれた。
「お前の名は―――と名付けよう。」
父が言った。
春になれば野の花の蜜を吸い、夏になれば川で遊んだ。
秋になれば収穫祭に心躍らせ、冬になれば囲炉裏の炎を眺めた。
決して裕福ではない、貧しい家だったがそれなりに楽しかった。
変わってしまったのは僕が人には見えぬものを見るようになってからだった。
「遊ぼ、遊ぼ!」
色鮮やかな鳥が話しかけてくる。
しゅるりときらきら輝く鱗の蛟が中空を泳いでいる。
子猫の様な虎の子は僕の顔を舐めたし、亀は我関せずとばかりに日光浴をしていた。
彼らだけなら幸せだった。彼らだけなら。
ある日僕は濁った緑色の光を見た。
森の方からいくつもふわふわと飛んでいる。
僕の友達のような輝きに走り寄ろうとして、足を止めた。
違う。何かが違う。
心臓の拍動が聞こえる。身体には薄く汗をかいている。
僕を招くかのような明滅。でも行く気にはなれなかった。
諦めたのかちかちかと輝きながら森の方へ飛び去っていく。
「今のは…?」
ひとり呟いたが誰も答えをくれはしない。
僕は考える事を止めて家に戻った。
その晩。森が騒いだ。
局地的な嵐、暴れる風の一閃に、着弾し燃え上がる雷の弾。
為すすべもなく茫然とみな森を見つめていた。
そして僕は森の中にあの緑の光を見た。
不吉な輝きを放ちながら狂おしく舞う姿に、戦慄した。
そしてその場を離れて家で布団をかぶって震えていた。
それから時に災いは幾度も濁った光と共にやってきた。
村を痛めつけ、人の命を奪い、去っていく。
人は、僕も含めて頭を垂れて去るのを待つしかなかった。
いつもいつも光は僕を誘うように点滅していた。
(行くもんか。絶対に。)
そしてそれが繰り返されたある日のこと。疲弊した村の内で。
僕はある恐ろしい事に気がついた。気がついてしまった。
災いは僕の為に起こっているのではないか、と。
(考えてみれば辻褄が合う。)
僕はそう思った。
(幾度となく僕は呼ばれた。)
何故か僕は彼らにとって魅力があるのだろう。だが僕は断ってきた。
そのために怒りを買ったのではないのか。
(僕があの光のもとに行けば村での災いは収まるのかな。)
想像した。でも僕はどうしてもそうしたくはなかった。
思い返してみて、やはりとても友好的には思えなかった。
濁った色は獰猛な獣の瞳を思い起こさせる。
群れの中に子供を見つけたかのような歓喜と残酷な色を宿した瞳を。
僕は村の為に命を捨てられるほど尊い人間ではなかった。
そして決めた。
家に戻り、わずかな路銀と荷物を持って家を出た。そして村を出た。
これが最善だと、そう思った。
確かに行く道であれらの濁った色に出会った。
そして僕を追ってきた。僕は走った。ひたすらに走っていた。
「すごいのを連れてきたね。」
不意に僕の脇から苦笑するような声が聞こえた。
思わず立ち止まって、声の方を見る。
そして思わず目を丸くした。そこには僕がこれまでに見た事もないほどの美しい女性がいたのだから。
まるで姫君のような品のある美貌には似つかわしくない刀が、僕の目を惹く。
でも何より驚いたのは。
「見えるのですか。」
その女性の言葉だった。
「見えるよ。」
女性はあっさりと返した。
「怖くないんですか。」
思わず聞いてしまう。
「もちろん怖いよ。」
その女性は笑った。
あの黒い影は立ち止っているうちにもうこちらに近づいていた。
(逃げなきゃ!)
走りだそうとする僕を笑って止めた。
「逃げなくても大丈夫。でもここでは少し目立つから林に入ったほうがいいか。」
冷静に対応する。木立の中に影が入った。こちらを見つけて嬉しそうに近づく。
その時だった。
ばちばちばち!!
眩い閃光と共に一瞬その影が光の中に浮かび上がる。
網目のように編みあげられた雷は陰の動きを捉え、その力を奪う。
見る影もなく小さくなったそれに女性は近づく。
≪浄火≫
懐より取りだした札が一瞬輝くと、影は炎に包まれ溶けていく。
そしてあっという間に消滅した。
「これで終わり。もう大丈夫だから。」
その言葉に僕は力が抜けていくのがわかった。
「また追われるかもしれないから、家まで送って行こうか。」
その言葉に僕は俯く。
「僕は村を出てきましたから。」
「そっか…。」
女性はそう呟いた後に思案する。
「これからどうするつもりなの。」
「村を飛び出してきてしまったので、とりあえずどこかで仕事を見つけようかと。」
何でそんな事を聞くんだろう。
「もし行くあてが決まってないなら私の家に来ない?」
あっさりと女性はそう言った。
「ですがご迷惑はかけられませんので。」
僕がそう断ると女性は真面目な顔でそう言った。
「でもあなたがあの怪異を呼び寄せてるんだから、どこに行っても襲われるよ。」
「やっぱりそうでしたか。では誰の迷惑にもならないように山で一人で暮らします。」
精一杯強がってそう言った。
「私の元に来たら、陰陽術で怪異を呼び寄せないように出来るけど。」
強がりもその一言で消し飛んだ。
「本当ですか!?もう呼び寄せないで済むんですか?」
「まあ修行がいるけどね。それを頑張れるなら私が教えてあげるよ。」
その女性の笑顔には僕を騙そうという暗い思いは見えなかった。
それは僕にとっての希望の姿に見えた。
「どうかご指導ください。」
僕は頭を下げた。
「じゃあ家に帰ろう。今日は歓迎会といこうか。まあ私たち二人しかいないけどね。」
僕も黙ってついていく。
そして女性は忘れてたとばかりに言った。
「自己紹介がまだだったね。私は藤堂恭子。よろしく。」
「僕は豊五郎です。宜しくお願いします。」
「よろしくね。明日から陰陽術の修行をしよう。」
「はい!」
僕は元気に返事をした。
「後私の本業は道場主なんだけど。出来たてで門弟がまだいないから剣術も学んでくれると嬉しいな。」
「僕、やった事ありませんけど。」
戸惑ったように言う僕。
「体力もあるし、これまであれに捕まらなかったんでしょ。集中力もあるから磨けば光るかもしれないよ。…なんてね。」
「初心者ではありますがどうかよろしくお願いします。」
「真面目だね。無理を言っているのは私の方なんだけど。」
二人は話しながら小田原の町に戻っていく。
二人の絆は微かにただ確かに生み出され始めていた。
本編より難しかったような挿話でした。
中々書き上がらなかったような気がします。
これより章の終りに一話ずつ付け足していく予定です。
この後は第二章になります。今後も宜しければどうぞお付き合いくださいませ。
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