プロローグ
雪には――花に例えた色々な言葉がある。
六花、天花、牡丹雪。
おそらく――舞うその美しさから先人が見立てた言葉なのだろう。
が、
「…………はぁ」
佐伯翔太は、がっくりと肩を落とし虚ろな目で駅のホームに佇んでいた。
スーツ姿の20代半ばかそこらの男性。
黒い髪の毛は短く、綺麗にセットされていた。
時刻は午後9時。会社帰りの、ごく普通のサラリーマンといったところだ。
電車の時刻表と、左手の腕時計を交互に見つめながら、よくもまぁ、綺麗な言葉を作ったものだ――佐伯翔太は思った。
「……何なんだ。この“吹雪”は!!」
独り言を呟いた後、翔太は視線をホームの窓ガラスへと目をやった。
ガラスは凍てつく寒さと止めどなく吹き荒れる暴風により激しく軋んでいた。
その窓ガラス越しの外の景色は――更に酷いもので、
「綺麗」
や
「美しい」
などといった言葉は、嘘でも言えない。
風と共に舞い散る白銀の結晶は、寒さを纏い大きな粒となって、建物や電車に激しく打ちつけている。
バチ、バチ、バチ。
ゴォォォォー……。
「普通、雪は“さらさら”や“ふわふわ”だろ!! なんだよ!! この効果音は何だよ!!」
生まれて初めての吹雪。佐伯翔太は――この北国に転勤して、まだ1ヶ月足らずであった。
「冬だし。仕方ないし」
と言わんばかりに、周りからの視線に、翔太は深く溜め息を吐いた。
確かに――
同僚からは冬の厳しさを聞いてはいたが、想像していたものよりも、遥かに上回る光景である。
電車が止まったり、停電したり……。物の数分で何十センチも積もっていく雪。
こんな光景に遭遇した事は、暖かな所に長く暮らしていた翔太には――もはや一種の戦争地帯。それに匹敵するほどに凄かった。
まぁ、それはさておいてもだ。
「また……なんで“こんな日”に……」
ホームを冷気と爆風が轟く。
あまりの寒さに、翔太は白と黒のボーダー柄のマフラーに顔を埋めた。よく目を凝らせば、所々縫い目がぴょんっと解れている。
この日、翔太にとって“特別な日”だった。
一般的には“忘れ去られた日”と言ってもいいかもしれない。
結婚して3年。
翔太には1つ下の妻がいた。
尻に敷かれていると呼ばれる程に、翔太は妻を溺愛していた。
残業は致し方ないとして、仕事が終われば一目散に帰宅。寄り道は無縁。
同僚からは、
「少し遊べ」
や
「ちょっと冒険してみろよ」
など散々言われていたが、どうもその気にはなれかった。
「……はぁ。待っているんだろうな―……。連絡とるにも何分待ちだよ」
思わず漏れ出す文句に、顔をしかめながら人の列を見る。
先程からずっとだ。
ホームに設置された2台の公衆電話には、普段見られない長蛇の列が出来ていた。
悲しく流れる、無機質で機械的なアナウンス。
――吹雪の為、運休。
そこをなんとか走らせろ! と言ったところで何も変わらないんだろうな、と翔太は呆然と立ちすくんでいるだけだった。
今日は――妻との年に一度の“記念日”。
ただし、結婚記念日ではない。
その前の――2人が付き合う事となった“お付き合い記念日”。
妻曰わく、
『結婚記念日も大切だけど、2人が出会い、付き合う事になったこの日が、私には大切なの』
結婚してしまえば……どこかで忘れてしまう初々しい感情。
翔太の妻は――少し変わっているかもしれない。
だが、そんな妻が翔太は愛おしくて仕方なかった。
今日もおそらく、毎年の様に豪勢な手料理と、いつもより着飾った服装で自分の帰りを待ちわびているに違いない。
翔太は鞄から小銭入れを取り出した。普段から財布に入れる金額が少ない為、小銭入れを愛用していた。
別に妻に取られている訳ではなく、翔太自身、ジュース代があれば十分な男だったのだ。
開いた財布には……珍しく3千円。
本当はこのお金でケーキを買う予定であった。
が、
この天気だ。電車も止まったままであるし、いつ復旧するかも分からない状態。
豪華なケーキは買っていってやれないが……早く帰って安心させてやりたい。おそらく、心配でうろうろと“いつもの癖”を発揮しているのだろうな、と翔太は思った。
「――よし。仕方ない。タクシーで帰ろう」
3千円で自宅までは少し足りない。少し歩いて距離を稼ぐ。
駅近くのコンビニに寄り、小さなケーキを1つ買ってタクシーで帰ろう。
自分に言い聞かせる様に頷き、翔太は足早に駅のホームを下りていった。
駅を出た翔太を出迎えたのは――氷点下が支配する世界。絶えることのない爆風が雪運び視界を遮る。冷気が体感温度を更に下げていた。
ぶるっと身震いを一回、薄めのコートに身を隠し、マフラーに顔を埋めた。
突風に押されながらも、翔太は一歩ずつゆっくりと進んだ。耳や鼻が一瞬で冷たくなってゆく。次第に痛み、段々と肌が見えている部分が熱くなっていった。
(はぁ……もたもたしていたら凍傷確実だな)
すぐ、タクシーを拾いたくなる衝動に駆られるが、我慢だ。妻のケーキの為。
腕をさすり摩擦を起こす。ちっとも暖かくはならなかったが、気分的に幾分かましだった。
もう少しでコンビニがある。そこでケーキを買って、公衆電話からタクシーを呼ぶ。
「寒いっ!! ……もう少しもう少し……」
小刻みに体を振るわせながら、翔太は寒さで赤くなった顔をあげた。
視界は――悪い。が、次第にぼんやりとしたネオンが翔太の瞳に映った。
それは翔太の目指した場所。
「……もう少し」
もう少しでケーキが買える。しばらく暖かい店内にいれる。
翔太の足取りは自ずと早くなった。
ぼんやりとしたライトが徐々にハッキリと視界に入ってくる。
コンビニまでの距離が目と鼻の先。あと一歩。
嬉しさのあまり、マフラーに埋めていた顔をあげた――刹那だった。
コンビニと建物の間。
淡く光る球体の様なものが目についた。
一瞬。
翔太は目を疑った。
慣れない寒さで……少し頭がおかしくなったのだろうか?
いや、違う。
翔太の瞳に確かに移るものがあった。
この凍てつく寒さの中――だっぽりと肩まで下がった大きめの、淡いピンクの着物。栗色の長いストレートの髪。潤んだガラスの様に透き通った瞳が、焦点が覚束ないのか? ぼんやりと遠くを見ていた。
年齢とし、3・4才そこらの女の子。
吹雪の中、少女を取り囲む様に光る七色の光。
翔太は目を凝らした。
街路樹にうずくまる様に、そこに確かに少女がいた。手には何か持っていたが、腕で囲むようにしている為、一体何かは定かではない。
そんな事よりも――
「なっ!! 君! 何してるんだよ!?」
この吹雪の中。
少女が一人で……どうした事であろうか。
「お父さんとお母さんは? こんな吹雪の中で……薄着じゃないか!?」
普通に考えて――おかしな事だった。この凍てつく吹雪の中、親も近くにいず、ただ一人ぽつんと残された少女は――異常である。
ただ今の翔太には、“変だ”と思ってもそこまで問い詰める思考がなかった。
身につけていたコートを脱ぎ、症状は少女へかけてやった。
「君、ダメだよ!! こんな所で……。っ、死んじゃうよ!? ほら、こっちに……」
辺りを世話しなく見渡して、翔太はマフラーを少女の首へ巻き付けた。 触れた少女の頬は、氷のごとくひんやりと、体温の暖かさはなかった。
「! 冷たい!! こっちにおいで! ……この子の親は……一体何をしているんだ!!」
「…………れて」
少女がか細い声で呟いた。
暴風でかき消されたその声に、翔太は顔面蒼白の表情で、少女の顔をのぞき込んだ。
「えっ?」
「……れて」
「ごめん。何? 寒い? 寒いよね! ほら、まず温まろう!!」
「……忘れて」
「えっ?」
「……忘れて……忘れて」
それは、翔太に言っているのかはたまた別の誰かなのか……焦点の覚束ない少女の瞳から読み取る事は出来なかったが――
「……忘れ……ないで」
ぎゅっと力強く瞳を閉じ、薄らと流れ落ちる涙。そして――次に瞳を開けた少女の瞳が――燃え盛る炎のごとく、深紅色に光輝いていた。
翔太が理解出来たのはそれだけだった。