返さない鍵
この物語は、
誰かを選ばなかった人の話です。
愛してはいけないと分かっていても、
気持ちまで終わらせることはできなかった。
そんな静かな未練を、
鍵ひとつに託しました。
短いお話ですが、
少しでも余韻が残れば幸いです。
ベルには日課があった。
毎朝、身支度の最後に、リップだけを鏡に向かって塗る。
頬も、目元も見ない。唇だけを確かめる。
それが終わると、引き出しの奥から小さな鍵を取り出し、指先でなぞった。
誰の部屋の鍵なのか、ベルは人に話さない。
話す必要がないからだ。
彼は今も、あの部屋に住んでいる。
私たちの関係は終わってしまったけれど、
私の気持ちは、終わりきらないままだった。
鍵を返す機会がなかったわけではない。
返せなかった理由があったわけでもない。
返さなかったのだ。
ベルはそれを、ずっと自分の中で選び続けていた。
チャイムが鳴る。
荷物を運ぶ業者が来たのだろう。
明日、ベルはこの街を出ていく。
もう戻る予定はない。
鍵を使うことは、きっとない。
それでも、返すことはできなかった。
ベルは鍵をそっと箱に戻し、引き出しを閉めた。
唇には、彼が褒めてくれた彼色のリップがあった。
忘れたくないわけじゃない。
ただ、まだ愛しているだけだ。
心の奥で、消えない火が、静かに燃えていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この作品では、
相手の名前や関係性をあえて多く語っていません。
語らないことで残る感情や、
選ばなかった未来を大切にしたかったからです。
返さない鍵は、
約束でも、執着でもなく、
ただ「まだ終われない気持ち」そのものです。
あなたの中にも、
返せないままの何かがあれば、
そっと重ねて読んでいただけたら嬉しいです。




