選ばなかった人
この物語は、
誰かを裏切った恋の話ではありません。
選ばなかったからこそ残り続けた感情と、
踏み外さなかった誠実さについての、
静かな短編です。
歌えなかった言葉たちに、
そっと耳を澄ませてもらえたら嬉しいです。
ビアは、自分が鼻歌さえラブソングを歌えない人間だということを知っていた。
感情がないわけではない。ただ、それを軽々しく扱えなかった。
メリンガと出会ったのは、ジェラードよりも先だった。
若くて、無防備で、互いの未来を深く考えなくても成立してしまう恋だった。
それでも、彼女は選ばなかった。
ジェラードと出会い、生活という現実を思い描いたとき、
隣に立っていたのが彼だった。
だからビアは、メリンガを振りほどいてジェラードを選んだ。
後悔はなかった。
少なくとも、その選択をした自分を誇れる程度には。
結婚生活は穏やかだった。
最近は子供を作るかどうかで、何度も話し合いを重ねていた。
ビアは子供を望まないと伝えた。
それでも二人で町医者を訪ねた。
確認のためだったのか、納得のためだったのか、自分でも分からない。
医師は淡々と告げた。
彼女の体は、妊娠を継続できない可能性が高いらしい、と。
帰り道、ジェラードは多くを語らなかった。
苛立ちがあることは分かった。
それを彼女にぶつけない人だということも。
だから、何も言えなかった。
そんな頃、メリンガと再会した。
かつて選ばなかった人。
それでも、胸の奥に静かに残り続けている人。
彼は何も聞かなかった。
結婚のことも、後悔の有無も。
ある日、別れ際にビアは聞いてしまった。
「あなたは、私が誠実でないと、向き合わないでしょう?」
メリンガは軽く笑った。
「君はさ、僕が不誠実に乗ったら冷めるでしょ。横暴だよ」
冗談めいた声だった。
でも、その言葉は境界線だった。
――この人は、察している。
ビアは甘い言葉を飲み込んだ。
今さら欲しがるのは、違うと思った。
「片思いなら、いいんじゃない?」
それは肯定でも拒絶でもなく、
互いが踏み外さないための距離だった。
去ろうとする背中に、ビアは一言だけ投げた。
「もし、私が未亡人になったら……
そのときは、向き合ってくれる?」
少しの間のあと、メリンガは振り返らずに答えた。
「先に僕の未来を責任取るって言ったのは君だろ。
言質は取ったつもりだよ」
約束ではなかった。
ただ、未来に置かれた可能性だった。
家に帰ると、ジェラードは食卓に座っていた。
連日の話し合いで、空気は重い。
「怒ってる?」
「今は、聞かない方がいい?」
彼は頷いただけで答えなかった。
この居心地の悪ささえなければ。
一瞬、そう思ってしまい、ビアはその考えを押し戻す。
それは言い訳になる。
もしメリンガを選べば、それは恋ではなく駆け落ちだ。
家で待つ人を置き去りにする選択。
彼女はそれを望まなかった。
夜、ひとりで息を整えながら、
心の中でだけ言葉を転がす。
Ti amo.
声に出さない愛。
歌わないからこそ、壊れない感情。
ビアは今日も歌わない。
選んだ誠実さの中で、
選ばなかった恋を静かに抱えたまま。
この物語は、
「叶わなかった恋」ではなく
「叶えなかった恋」を描いています。
誠実であることは、ときに感情を管理し、
声を奪い、歌を奪います。
それでも踏み外さなかった選択は、
きっと誰かを救っている。
歌えない恋にも、
確かな愛は存在すると信じて。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




