39本目・呪縛の鎖 ― 裏切りと犠牲の試練
遺跡の最奥。壁面の古代文字が赤黒く脈打ち、空気が重く震えていた。
足元の石が軋んだ瞬間、黒い鎖が地下から蠢くように伸び出し、優衣の手足を一瞬にして絡めとった。
「きゃっ――!」
鎖は冷たく、鋭く、骨の内側まで冷気を染み込ませる。その力は生き物のように意思を持ち、優衣を祭壇に縫い付けるように縛り上げた。
「優衣っ!」
瞬が飛び出すが、鎖は彼の行く手に壁のように立ちはだかり、進路を阻む。
きいは背を丸め、毛を逆立てながら低く唸った。「これは……試練にゃ」
空気が歪み、黒煙の縁取りの中から幻影が浮かび上がる。
その姿は瞬ときいだが、表情は冷たく、声は石の底から流れるようにひんやりとしていた。
「俺はもう行く。仲間のために命を張るなんて、馬鹿げてる」――幻影の瞬。
「利用価値があるからいただけ。鎖に囚われたら、それが終わりにゃ」――幻影のきい。
幻影の言葉は、まるで鋭い針のように優衣の胸に突き刺さる。
幼い頃から姉めぐみに支えられ、いつも守られてきた自分。強くなれない自分。――その影が、今になって疼き出す。
(私がいることで、みんなは幸せなんだろうか。私のせいで足手まといになってないだろうか)
疑心は鎖の力に養われ、締め付けを増していく。呼吸が苦しくなる。視界の縁が暗くなる。
――囚われの娘を救うには、代わりを選べ。
――お前が囚われれば、彼女は解放される。
幻影の囁きが、瞬ときいの耳にも届く。
瞬は鍬の柄にしがみつき、真っ直ぐに叫んだ。「俺が代わる!」
きいは飛び出して「わたしが代わるにゃ!」と同時に叫んだ。
「お前が犠牲になるくらいなら、俺が!」
「違うにゃ! 犠牲なんて意味がないにゃ、みんなで帰るにゃ!」
本物の声が、鎖に囚われ苦しむ優衣の心へ届いた。幻影の冷たい嘲りと正反対の、温かい叫び。
優衣は震える胸でそれを受け取り、ふるえながら答える。
「……違う。私が、ここで諦めるなんて――そんなの、まっぴらだ。私は、瞬もきいも信じる!」
優衣は腰に差したダガー《黒焔・フレイムファング》を強く握った。
刀身の黒炎が僅かに揺れ、瘴気を裂くような低い唸りを上げる。鍛冶工房で手入れされたその刃は、ただの武器ではなく、彼女の“覚悟”の象徴でもある。
「絶対に、裏切らない……!」
優衣の決意の叫びとともに、黒焔が刃先で瘴気の紋様を切り裂くように光る。
瞬が鍬を振り下ろし、力任せに鎖の一節へ一点突破の一撃を叩き込む。火花と黒い粉塵が散り、鎖は軋む。
きいがすさまじい勢いで飛びかかり、鋭い爪で鎖の節目を引き裂いた。幻影は裂け、冷たい嘲りは泡のように消える。
鎖は悲鳴を上げ、砕け散った。黒い煙がはじけ、空気が断続的に澄み渡る。
優衣はふらつきながらも膝をつき、顔にかかった髪を払って二人を見上げた。
「……ありがとう。二人がいてくれてよかった」
言葉に震えが混じるが、その瞳は確かに光っていた。
だが、安堵は長くは続かなかった。奥の巨大な石扉が、ゆっくりと不吉な唸りをあげながら動き出す。
これまでは控えめだった瘴気が、扉の奥から噴き出すかのように押し寄せた。
扉の隙間から漏れる風は酸っぱい血の匂いと油と鉄を混ぜたような臭気をはらみ、壁の文様は黒々と脈打っている。空気に混じる魔力は、明らかに「魔族のそれ」だった。かつて聖が宿していた清冽さは影もなく、代わりに腐敗と支配の色が濃厚に滲んでいた。
「……これは、聖の力じゃない」優衣がかすれ声で言う。
「魔族の瘴気だ」きいの声にも震えが混じる。耳が立ち、毛が逆立つのがわかる。
瞬は鍬の柄を握りしめ、拳に力を込める。刃と鍬と猫の爪──三つの小さな力が、今はまだ決戦の前触れに過ぎないが、それでも互いの存在が頼りだった。
扉は重く、低く、そして絶対的な力を伴って開いていく。開いた隙間からは、赤黒い渦が溢れ出し、三人に襲いかかるように巻き付いた。瘴気の奔流は身体の内側をえぐるように冷たく、魔力は脳裏に直接圧をかけてくる。
「中に……何かが、いるにゃ」きいは唸るように言った。
「いるな……」瞬が短く答える。
瘴気と魔力が彼らの周囲を包み込み、視界は赤と黒の渦に染まっていく。三人の鼓動が高鳴る。
扉の向こう、その冷たい奥底に、まだ姿を現していない「何か」が確かに息をひそめていることを、全身で感じながら——。
遺跡の扉は、ついに完全に開かれた。




