1本目・転生した先にタバコはあるの?
「今日も普通の一日が始まるな」
瞬がそう呟いた、その瞬間だった。
部屋の空気がふっと重くなる。
耳鳴りのような低い音が響き、テーブルの上の皿やコップが細かく震え出した。
「……地震?」
優衣が慌てて身をかがめる。きいは「にゃっ!」と短く鳴き、毛を逆立てて瞬の腕に飛び込んできた。
次の瞬間、床の下からまばゆい光が突き上げるように広がった。
リビング全体が白に包まれ、重力が消えたかのように体が宙に浮く。
「な、なんだこれっ!? 優衣、きい!」
必死に手を伸ばす瞬。優衣もまた、目を見開きながら彼の手を握り返した。
光はさらに強さを増し、視界を完全に奪っていく。
鼓膜を揺さぶる轟音の中で、どこからか荘厳な声が響いた。
――〈選ばれし者たちよ。我らの世界を救うため、ここへ降り立て〉
瞬の意識は一気に闇に引きずり込まれ、すべてが途切れた。
乾いた風が頬を撫でる。
瞬はうっすらと瞼を開け、眩しい陽光に顔をしかめた。
そこに広がっていたのは、見たこともない大地だった。
緑に覆われた森でもなければ、近代的な街並みでもない。果てしなく続く草原と、ところどころに隆起する奇妙な岩山。遠くには紫がかった山脈がそびえ、空には二つの太陽が並んで輝いている。
「……嘘、だろ」
喉の奥からかすれた声が漏れた。
確かにさっきまで、自宅のダイニングでコーヒーを飲んでいたはずだ。優衣ときいも一緒に――。
「瞬……ここ、どこなの?」
背後から優衣の震えた声が聞こえる。彼女も無事に一緒に来ていたらしい。
腕の中では、きいが怯えたように毛を逆立て、「にゃあ」と不安げに鳴いた。
瞬はゆっくりと立ち上がり、腰のポケットを探る。
指先に触れたのは、見慣れた箱の感触。
「……あった」
タバコの箱を取り出し、蓋を開ける。
だが、そこに並んでいたのは十数本――たったそれだけ。新しいカートンを買ったばかりだったのに、召喚の衝撃か、それともこの世界の理なのか、残っているのはこの一箱だけだった。
「マジかよ……」
瞬は顔を歪め、一本を取り出して火をつける。
肺に煙を吸い込むと、ほんの少しだけ現実感が戻ってくる。けれど、その心地よさも束の間、残り本数が頭にちらついて胸の奥に重く沈んだ。
――この世界にタバコはない。
そう直感した瞬、冷たい汗が背を伝う。
優衣はそんな夫を見て、呆れたようにため息をついた。
「……ねえ、こんな状況でまずタバコ? 本当に信じられない」
「いや……だからこそだ。落ち着くには、これしかない」
「バカね」
やり取りの最中にも、風に運ばれてくる草の匂いはどこか異質だった。地球の植物とは明らかに違う芳香――もしかしたら、この世界には未知の葉が生えているのかもしれない。
瞬は煙を吐き出しながら、ぼんやりと考える。
――タバコがないなら、作るしかない。
彼の胸の奥で、小さな決意が芽生えた。
異世界での生き残り? 魔物や魔法? そんなことより、まずは葉っぱを見つける。
この世界で、俺は再び“タバコを吸う”ために生きていくのだ。