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若葉

作者: 有栖川 幽蘭

書斎の机に向かい、私は窓の外を眺めていた。初夏の強い日差しが、向かいの家の白壁に反射して、目に痛いほどだ。世間では、若葉の美しい季節などと浮かれている。その言葉を聞くだけで、私の心は鉛のように重くなる。生命が横溢する季節であるからこそ、生命の澱んだ人間にとっては、それが毒になるのだ。


私は、その毒を呷るために、わざわざ外へ出た。


向かったのは、鎌倉の古寺だった。観光客の喧騒から離れたその場所は、楓の若葉が天蓋のように境内を覆い尽くしていることで知られている。石段を登り、山門を潜ると、世界は一変した。


そこは、緑一色だった。


光が、無数の若葉を透過し、乱反射し、大気そのものが淡い緑色に染まっているかのようだった。それは、あらゆる影を消し去り、すべての色を塗りつぶしてしまう、あまりに純粋で、暴力的なまでの緑だった。目に痛い。呼吸が、苦しい。私はその圧倒的な生命の色に包囲され、逃げ場を失った罪人のような気分になった。


人々は、この光景を美しいと言う。しかし、私の目には、それはほとんど狂気の沙汰としか思えなかった。一枚一枚の葉が、その薄い葉脈に青々とした血を漲らせ、「生きている」という事実を、これでもかと私に突きつけてくる。それは、書斎の薄闇に慣れ親しんだ私の精神に対する、容赦のない攻撃だった。


私は、苔むした石の上に、崩れるように腰を下ろした。そして、目の前の一本の枝から伸びる、一枚の若葉を、まるで憎い敵を検分するように、じっと睨みつけた。


その葉は、完璧な形をしていた。生まれたての赤子の肌のように滑らかで、その縁は繊細な鋸歯を描いている。太陽の光を透かして、その葉脈はまるで血管のように、隅々まで生命の養分を送り届けているのが見えた。影がない。淀みがない。ただ、在る。その絶対的な肯定の姿が、私には何よりも耐え難かった。


私の内にあるのは、淀みと、欠落と、死への静かな傾斜だけだ。この一枚の若葉が持つ生命の輝きに比べれば、私という存在は、なんと見すぼらしく、醜いことか。


衝動的に、私はその葉に手を伸ばした。指先が、その柔らかく、ひやりとした面に触れる。私は、その葉を、ぷつり、と枝から引きちぎった。


ほんの小さな抵抗があった。生命が、そのささやかな繋がりを絶たれる瞬間の、声なき抵抗。


私は、その若葉を掌に乗せた。枝に繋がっていた時にはあれほど傲慢なまでに輝いて見えたものが、私の薄汚れた掌の上では、どこか頼りなく、途方に暮れているように見えた。


私は、もう一方の指で、その葉をゆっくりと二つに折り、そして、捻り潰した。


途端に、青臭い、強い匂いが立ち上った。それは、若葉の血の匂いだった。凝縮された生命の、生の叫びだった。その匂いは、私の鼻腔を突き、脳髄を直接痺れさせるような、鮮烈な刺激となって私を襲った。


私は、指先で緑色に染まった葉の残骸を、じっと見つめていた。完璧だったものは、もうない。それは傷つき、毀され、ただの緑色の染みとなって私の指を汚している。


しかし、その時、私の心に去来したのは、奇妙な安堵感だった。


あの圧倒的で、私を拒絶していた生命の奔流が、今や、私の掌の中に収まる、このちっぽけな、毀れたものへと変わったのだ。私は、この完璧な美を破壊することによって、初めて、それと対等に関わることができた。


私は立ち上がり、その緑の染みのついた指先を、懐紙で拭うこともせず、山門の方へと歩き出した。背後では、相変わらず何万、何十万という若葉が、私には目もくれず、生命を謳歌している。だが、もう、それは私を苛むものではなかった。


私の指先には、まだ、あの青臭い鎮魂の香りが、微かに残っていた。

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