1-1 引きこもりの猫と少年
目を開けると、何度見ても見慣れない天井が目にはいる。大きな梁が露出した高い天井、木造だての広い日本家屋、畳の匂い、障子を通して感じる日の光。なにもかもが見慣れない。
別世界にきてしまった。
目覚めるたびに猫ノ目久遠はそう思い、両親の死を実感して悲しくなった。
起きたら全て夢になっていないか。そう願いながら眠り、現実だと突きつけられて目が覚める。そんなことをここにきてから毎朝繰り返している。
いっそ、両親と一緒に自分も死んでいれば。このまま布団に横たわって、食事もとらずに死んでしまえば。そんなことをぼんやりと考える。
考えるだけで実行する度胸はない。けれど体を動かす気力もない。宙ぶらりんのまま、生きているとも死んでいるとも思えない日々を過ごしている。
「久遠様、お目覚めでしょうか」
障子の向こう、廊下から人の声がする。ハキハキとした少年の声。いまの久遠とはかけはなれた生気を感じる声。
それだけで久遠は、自分を否定されたような気持ちになった。
ぼんやり眺めていた天井から目をそらし、布団を目深にかぶる。寝ているふりをするつもりだったが、声の主は久遠の動きで起きていると気づいたらしく、さらに明るい声をあげた。
「朝餉の用意ができております。皆様と一緒にお召しになりませんか?」
穏やかな声。怖がらせないようにと精一杯気を遣った声に、久遠は答えない。布団を握りしめ、拒絶の態度をとる。
しばし様子をうかがっていた声の主は、無言が返事だと理解したようで、「では、朝餉は持って参りますので」と立ち上がる。
布団から目だけ出す。朝の光で障子に影ができ、少年のシルエットを浮かび上がらせた。
久遠より背が高い。おそらく年上。細身ではあるが喋り口調や身のこなしに品を感じる。久遠とは別世界の人。
障子に区切られて見えないというのに、少年はいつも一礼してから久遠の部屋を離れる。そのことに気づいてから、立ち去る少年を見守るようになった。
根比べだと久遠は思っている。
世界を拒絶して死んでしまいたい久遠と、どうにか外に出てきてほしい少年の根比べ。この勝負は久遠が勝つだろう。返事もせず動きもしない。死んでいるようなろくでなしに、構い続ける人間がいるはずもない。
久遠がこの家にやってきた当初、ちやほやとうるさかった奴らと同じく、そのうち失望してこなくなるに違いない。
少年がこなくなり、たった一人になることを想像して少しだけ胸が痛んだ。それに気づかないふりをして、久遠は布団の中で丸くなる。
期待してはいけない。望んではいけない。世界はとても怖くて、久遠に優しくないのだから。
※※※
猫ノ目守は肩を落として廊下を歩いていた。久遠がやってきてから毎日見られる光景だ。
久遠の部屋の前では、非の打ち所のない完璧な者であろうと振る舞っていた。だが、部屋をはなれた守の表情は暗い。
「今日も出てきてくださらなかった……!」
廊下に膝から崩れ落ち顔を両手で覆う。
どうしたら出てきてくれるのだろう。せめて返事くらいしてくれないだろうか。そう毎朝祈っているが、一向に状況はよくならない。
守は久遠の顔を見たことがない。顔どころか声すら聞いたことがない。
久遠という名は、久遠を迎えにいったものから聞いた。黒い髪に金色の目。ここ百年あまり生まれていない、猫の獣の血を色濃くついだ特別な人。
久遠が戻ってきて猫ノ目は沸き立った。長らく行方不明であった、獣の血を引く子がやっと戻ってきたのだ。誰もが久遠を歓迎した。
しかし、その歓迎ぶりは長く夜鳴市を離れ、猫ノ目家とは関係なしに育った久遠には、まるで理解ができなかったらしい。ひどく怯え、部屋に案内されるなり押し入れに引きこもり、出てこなくなってしまった。
押し入れから布団に移動するまでにも、ずいぶん時間がかかった。誰も入らない。勝手に障子を開けないと何度も訴え、やっと久遠は押し入れから出てきた。部屋から出てくることはなかった。
時折、トイレにはいっているようだが、人のいない時間帯を狙っているようだ。その警戒する様、音もなく移動する姿はまさに猫。そう最初は笑っていた家の者も、引きこもり期間が一週間、二週間と延びるにつれ誰も笑わなくなった。
気配はする。だから生きてはいる。食事も少量ではあったが手をつけている。
しかし、あれでは死んでいるのとほとんど変わらない。せっかくの金目だが期待はずれだった。そういって一人、また一人と久遠を気遣うものはいなくなり、いま久遠の世話をしているのは守ただ一人だった。
「まだ、諦めもせずに世話を焼いているのか」
顔を覆ったまま物思いにふけっていた守は、冷たい少女の声に顔を上げた。
長い髪をポニーテールに結い上げた、目尻のきつい少女。透子が守を見下ろしている。
あわてて守は礼の姿勢をとり、頭を下げた。
猫ノ目の中で透子は特別な存在だ。その他大勢である守が気安い口を聞ける相手ではなかった。
「透子様、おはようございます」
「挨拶なんていい。まだアレの世話を焼いているのかと聞いている」
顔を下げていても猫のようにつり上がった透子の目が、守を睨み付けているのがわかった。アレと評されたものが久遠であることも。
とっさに怒りで顔を上げそうになったが、なんとか耐えた。
「はい、久遠様のお世話が出きることは、目に余る光栄でございます」
「部屋から出てこない、死に損ないの世話が?」
今度は我慢できずに守は顔をあげ、透子を睨み付けた。透子は無言で守を見下ろしている。その目はただ冷たく、おそらく久遠に向けた嫌悪だけが見てとれた。
「いつまでも死にたがりに構っている時間はない。守、お前は優秀な追人だ。世話など適当なやつに任せて鍛練に励め」
守はそれに答えなかった。ただ頭を下げる。それは明確な拒絶であったが、しばし守を見下ろしていた透子は舌打ちをすると踵を返した。
「あれが金目だと……ふざけるな。あんなのが金目ならば私は……兄上は……」
去り際聞こえた声は怒りでひりついていた。その言葉だけで全てを焼き尽くしてしまいそうな激情。それでも音もなく透子の背中は遠ざかる。
透子の瞳は黄色。怒りで歪み、いくらつり上がろうとも、その色は金色ではない。
黄色と金色。その小さな違いが猫ノ目では重要だった。猫ノ目は長らく黄色ではなく、金色の目を持つ子供を求めてきたのだ。
守は深く息を吐き出して立ち上がる。それほど長い時間ではなかったのに、体が鉛のように重い。
「私は久遠様を見捨てたりしない」
幼い頃一度だけみた金色。あの瞳が、生まれたばかりの赤子の愛くるしい顔が、自分の指を握りしめてくれた小さな手が、守はずっと忘れられなかった。いつの日かまた、あの瞳をみたい。あの子に仕えるのだと今まで生きてきた。
だから誰になんといわれようと、見捨てることはありえない。
「だか……どうしたものか……」
守は天を仰ぐ。守の憂いとは裏腹に、今日の天気は快晴。晴れ渡った青空と、朝の日差しに目を細目ながら守は考える。
猫ノ目にきてから久遠は朝日すら見ていない。
両親を亡くし、住んでいた場所から引き離され、知り合いもいない家に連れてこられた久遠。
生まれた家ではあるが、赤ん坊の頃に行方不明になった久遠に記憶などあるはずもない。猫ノ目は久遠にとってしらない場所。閉じ籠った小さな部屋だけが、いまの久遠にとって安心できる空間なのだ。そう思ったら守は悲しくなった。
猫ノ目は、世界は、怖いところじゃない。そう久遠がいつか思えるようになるまで、守は待ち続けようと思う。
そのためにもまずは、久遠に朝餉を用意しなければならない。立ち上がった守は台所に向けて歩きだした。