[大切なもの]
ごめんなさい。
暗く、静かで、寂しい空間。
全身を拘束され、五感も奪われた百済ミズハは、その牢獄にてただ一人で謝罪を続けていた。
キョウカに連れ去られた後に正気を取り戻したミズハは、自分は『厄災の匣』であり、災害の化身であり、人を傷付ける存在でしかないことを知らされた。……いや、思い出した。
自分はかつて『百済ミズハ』の名を受けて生きていた人間の身体に宿った"誰か"だ。兵器として運用されるために生み出された怪物が、一時的に被った"仮面"にすぎず、本来なら生まれるべきではなかったのだ。
それなのに、人を頼ってしまった。
初めて誰かに優しくされたのが嬉しくて。初めて誰かと共にいるのが心地よくて。
その誘惑に負けてしまったから、多くの人を巻き込んでしまった。罪悪感でいっぱいになる。自分はあのまま死んでいればよかったのだとミズハは後悔する。
その結果、自分がやったことはマヤとリベルを誑かし、2人を命の危険に晒しただけだ。厄災という強さを秘めているにも関わらず、誰かを守るためにはこの力を使えない。ただ暴走し、周囲の人間を危険に晒すことしかできない。
こんな自分になんの意味があるのだろうか。
ごめんなさい。
それが誰への謝罪なのかも分からぬまま、ミズハは謝り続ける。今の彼女には、そうすること以外何も思いつかなかった。
「て」
「……?」
懐かしい声がした。
何も聞こえるはずがないのに、声がした。幻聴か、とミズハは自身の耳を疑う。
「……まして」
「…………これって――」
「お願い! 目を覚まして!」
しかし、その声は幻聴などではなかった。
「……え、マヤ、さん?」
ミズハが目を開けると、そこには表情をぐしゃぐしゃにして、彼女の肩を懸命に揺らしているマヤの姿があった。ミズハの身に取り付けられていた拘束具は外されており、彼女が意識を取り戻したのを見るやいなや、マヤは彼女を抱きしめる。
「よかっ、たぁ……」
マヤの衣服はボロボロで、胸の残る命の火は半分ほど削れていた。激戦の末に、やっとここに辿り着いたのだろう。涙をこぼしながら、マヤはミズハを抱き寄せた。
「なんで、どうしてここに、マヤさんが」
「助けに来た」
「……どうして、ですか。私は『厄災の匣』ですよ? 一緒にいたら、また危ない目に――」
「関係ない!」
マヤは目元を拭い、ミズハの目を見つめて言った。それに対し、ミズハは何も答えられず目をそらしてしまう。
「なに? 迷惑をかけたくない? それとも災害である自分は死んだほうがいいと思った? ……そんなの、関係ない。私はミズハにいなくなってほしくない。誰が何と言おうと、私はあなたに幸せになってほしい」
「で、でも。わたし、私、は――」
「でも、ごめん。無力な姿を晒しちゃって。不安にさせちゃったよね。リベルも謝りたがってたよ。守りきれなくてごめん、って。だから、ミズハ。ここから逃げよう? もう何も気負う必要はないんだから」
再びミズハを抱き寄せ、優しい声で語りかけるマヤ。ミズハは思考がまとまらなくなり、ただ黙り込むことしかできなかった。
そんな時間が永遠に続くかに思われたが、その静寂はすぐに破られることになる。
ブザーのような警報音が、けたたましく鳴り響く。周囲を見回したマヤは、思わず舌打ちをした。
「……やられた。扉を封鎖された」
「えっ、ご、ごめんなさい、私がぼんやりしてたせいで――」
「大丈夫、これくらいの扉なら手持ちの爆薬でこじ開けられる。ていうかミズハ、そんな情けない表情するの禁止! いつものニコニコしたミズハが私は見たいよ」
マヤは頭上を見上げた。薄暗く、だだっ広いホールのようなこの空間にあったはずの天井が、いつの間にか開き、無くなっている。そして、上から何かが降ってくる音がしていた。
「……とはいえ、これはまずいかも――」
まるで地獄に響く悲鳴のような、恐ろしい絶叫をあげてそのエネミーは落ちてきた。一軒家ほどの巨躯、3つの頭部、体に巻きつけられた鎖。その大顎から溢れ出る唾液が、コンクリートの床を溶かす。
「ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ」
そのエネミーの名は、ケルベロス・エネミー。
シナーズ・ゲームにおいてプレイヤーが遭遇できるエネミーの中で最強クラスである、Aクラス級のエネミーであり、『強欲の帝国』が所有する"処刑獣"である。
「やばい!」
咄嗟にミズハを突き飛ばし、自身も攻撃を回避するマヤ。3つの口から吐き出された炎が、危うく2人を焼き焦がすところだった。
「くっ!」
マヤは拳銃の引き金を引き、見事ケルベロス・エネミーの眉間に弾丸を命中させた。しかし、その分厚い皮膚は銃弾など容易に弾き、全くダメージを受けることなくケルベロスはマヤへと襲いかかる。
「……あ――――」
これまでのマヤなら、『全知』の力を使い、ケルベロスの行動を予知してその攻撃もなんとか回避できたことだろう。
しかし、今の彼女の肉体は限界に達していた。間宮トモキとの戦闘、そこからシンジュクエキまでの休息なき全力疾走、道中遭遇したエネミーとの戦闘。力を手にしたとはいえ、マヤはつい最近までまともに戦闘などしたこともなかった普通の少女だ。いくら精神が強靭であろうと、先に肉体の限界が来る。
「ばか……動けよ私の足――」
思わず膝をついてしまったマヤに、ケルベロスが噛み付いた。そのまま彼女の身体は上空へと放り投げられ、下半身をケルベロスの中央の顔に、右腕を右の顔に、左腕を左の顔に噛みつかれて身動きが取れなくなってしまう。そのままケルベロスは彼女を食いちぎろうと、3つの頭で各々の方向へ引っ張り始める。
「クソ、しくったぁ……この、離せ、このぉ……!」
必死にもがくマヤだが、こんな状態ではもはや詰みだ。ここから逆転する可能性はゼロに等しい。
「ああ、マヤさん……!」
ミズハは、意識を失いそうになる。自分より大切な人の危険、というショックがトリガーとなり、再び『厄災の匣』が目覚めようとしていた。しかし、ここでその力を使えば、彼女は厄災を制御できず、必ずマヤもろとも全てを破壊してしまう。結局のところ、人を傷付けるだけの力では人を助けることはできない。
「嫌、だ、でも、私は――――」
力はあるのに、無力。
そんな自分に嫌気が差すミズハ。
マヤは、強い。
力がなくても、行動できる。誰かを守ろうとすることができる。
リベルは言わずもがなだ。
二人には、大切なものを守る力がある。
自分には、ない。
「『……本当に?』」
「えっ……!?」
誰かの声がして、ミズハは思わず声を漏らした。その声はよく知っていて、それでいて誰の声だかすぐに分からない声だった。
と、同時に。
ころせ。ころせ。ころせ。ころせ。
家族を奪った世界をころせ。ささやかな幸せを奪った社会をころせ。自分から何もかもを奪った人間をころせ。わたしはあめ。ゆき。かみなり。じしん。かぜ。ふんか。つなみ。かわき。どしゃ。目の前のすべてをころせ。
何重にも重なった、呪怨のような声が聞こえる。
それは間違いなく、百済ミズハ自身の声だった。
「『これは、わたしたちの声。百済ミズハだったわたしたち――そしてあなたの怨嗟の声』」
「誰!? 誰なんですか!?」
自分の声が語りかけてくるという、奇妙な状況に思わず頭を抱え、うずくまってしまうミズハ。そんな彼女に、もう一人のミズハが語りかける。
「『わたしは現世で生きていた頃、全部を奪われた。知らない人に家をめちゃくちゃにされて、わたしは連れて行かれて、とてもくるしい目にあった。そして、わたしはわたしたちになった。憎しみが、恨みが、わたしに力を与えた』」
「それって、『厄災の匣』――」
ミズハは、声の主が誰なのか理解した。
この声の主は、かつて現世に生きていた百済ミズハ本人の人格。人格が分裂してしまい、そして今は表に現れることがなくなった本来の人格だった。
「『くやしかった。無力だった自分が。だからわたしは思うがままに手にした力を振るっていた。けれど――それももう必要ないみたい。大切なものを得た私には、厄災はもう要らない。……さようなら。この身体は、もう私のものだよ』」
「待って! あなた……いや、わたしは――」
もう一人の自分が言い放った言葉は、今のミズハが肉体の主である人格となることを告げるもの。
本来の自分を引き止めようとするミズハだったが、声は彼女を諭すように言った。
「『まだ、あの大切な人に言っていない言葉があるでしょう? 『ごめんなさい』よりも、言うべき言葉が』」
ああ、そうだった。と、ミズハは頷く。
謝罪よりも前に、言うべき言葉があった。
「『それとも諦めるの? あなたはあの勇者さんに、何を伝えられたの?』」
諦めなくていい。そうリベルに伝えられた。
「『そしてあなたは、どうしたいの?』」
マヤと共にいたい。
……そして、リベルとも。
あの夜に伝えられなかった言葉の続きを、彼に伝えたい。
ミズハの決意が固まる。
そのささやかな"わがまま"が、彼女に力を与えた。
「現在の表の人格である私には、まだ異能力が覚醒していない。だからこそ、まだ私は力を手にすることができる。大切なものを守るための、力を!!」
ばちん。
ミズハの中で、何かが爆ぜるような感覚があった。
「さようなら、そしてありがとう、わたし。あなたの分まで、私は頑張るから。目覚めて、私の力――『水禍』!」
その声と共に勢いよく大量の水がミズハの手から放たれ、それに押し飛ばされたケルベロスはマヤを吐き出した。落ちてきたマヤをミズハは抱き止める。
「ミズハ……?」
「マヤさん。ありがとうございました、助けてくれて。そして、ここからは。私にも戦わせてください」
[シナーズ・ゲーム TIPS]
【ケルベロス・エネミー】危険度クラス︰A
危険度クラスAのエネミーは、同名の個体は存在せず、一個体しか存在していない。トウキョウダンジョンに出没するケルベロス・エネミーは、ギリシャ神話に登場する三頭の番犬の怪物をモデルにしたエネミーであり、一軒家ほどの巨体を有している。その毛皮は銃弾を弾き、口から吐かれる炎と唾液が敵を溶かす。非常に獰猛で好戦的であり、『強欲の帝国』に捕らえられるまでに多くのプレイヤーがその餌食となった。また、『強欲の帝国』も完全なコントロールをできてはいない。




