屍と少女と終わらない終末
喉を傷めつける煙を吸い、静寂の街へと吐き出した。
仄かなブルーベリーの香りと焦げた匂いが鼻腔を刺す。
いつの間にか短くなった煙草を捨て、靴で踏みつけた。
かつては煙草のポイ捨てをする人間が嫌いだったことを思い出し、唇が歪む。
正しくあろうと努めてきた半生の面影は薄く、世界の終わりと共に自己が揺らいでいるのを感じた。
殺人すら経験した今の自分は、一体何者だというのだろうか。
箱を見る。
残ったのは二本だけ。
美味いとは思わないが、気が付けば減っている。
中途半端な自嘲は煙と共に消え、俺は歩き出した。
街は死んでいる。
人が絶えた建物は静かに佇み、道には主を失った車が列を成す。
生きているものといえば、空を飛ぶ鳥くらいなものだ。
荒れた道、燃えて朽ちたコンビニ、服を着たまま腐敗した死体。
歩を進める度、周囲の光景が世界の終わりを突き付ける。
すっかり見慣れた惨状に、じわじわと心が蝕まれていくような感覚がした。
心というものが何を指し、それがどこにあるかは知らないが。
それでも胸を締め上げる苦しさは現実の感覚として身体に焼き付き、あてのない旅を続ける原動力として足を動かし続ける。
肩に吊った機関拳銃もまた、終末を象徴している。
いつだったか、遺棄された警察車両から回収した代物。
かつての生活ではおよそ縁がなかったが、今ではこの禍々しい塊に命を委ねていた。
街を彷徨う“隣人”たちは、俺の姿を見るなり歯を剥き出して襲い掛かってくるからだ。
終末が始まったのは、昨年の夏だった。
新種の感染症に侵された人々は歩く屍と化し、世界を終わらせた。
感染者に噛まれた者は同様に転化し、死の連鎖が起きたのだ。
感染症の流行初期、諸々の事情から彼等には“保有者”という名称があてがわれた。
顔から血を垂れ流して歯を剥き出す怪物を表現するには簡素な響きだが、少なくとも“ゾンビ”と呼ぶよりはましだろうと思える。
とにもかくにも、世界は一変してしまった。
仕事に追われることも世間の雑事に心の容量を奪われることもなくなった。
しかし、同時にいくつもの大切な存在を失った。
その孤独を埋めるように、俺は人を探すことにした。
引き籠っていた拠点を出て、特に目的地もなく彷徨っている。
動機の差こそあれ、人を探し求めて彷徨う保有者たちと、生存者を探して放浪する今の自分に大きな違いはなく、その点においては“隣人”という表現が馴染むのだろうか。
曇った空の隙間から、夕陽が差していた。
そろそろ今日の寝床を探さねばならない。
ちょうどいい店や民家はないだろうかと路地に入る。
――気配がした。
住宅が並ぶ生活道路。
何の変哲もない風景だが、終末に馴染んだ本能が警戒を告げている。
やがて足音と低い呻き声が聞こえ、確信に変わる。
電柱に突っ込んだ車の裏から、男が姿を現した。
この時期にしては薄手のTシャツは赤黒く染まり、裂けた腹から内臓が露出している。
虚ろな双眸には生気がなく、血が滴る。
肉の紐を引きずりながら、男は歯を剥き出した。
それだけの負傷をしながらも、痛がる素振りは見せず、何の感情も伺えない顔付きでこちらへ迫る。
――保有者だ。
彼等の痛覚は麻痺し、人間からすれば信じられないような傷でも平然と活動することができる。
その姿は、やはり彼等が怪物なのだろうと認識させるに十分だった。
銃口を上げ、銃床を肩に当てる。
その勢いのまま、安全位置にあったセレクターを単射へと移す。
照準器に投影された赤い光点を屍の眉間に合わせた。
引き金にかけた人差し指を絞る。
二度、減音器に抑えられた鈍い銃声が鳴った。
九ミリ弾は屍の頭蓋骨を砕き、脳幹を破壊した。
続いて着弾した二発目で半ば肉片と化した頭部から、脳漿が迸った。
保有者の弱点は頭部であり、脳幹を撃ち抜かれた男は力なく倒れ込む。
空薬莢がアスファルトに転がる音を聞きながら銃を下ろした。
ゾンビには二度撃ちが必要だと言っていた映画の主人公がいたが、その教訓通り二発の鉛弾を叩き込まれた保有者は完全に沈黙している。
どういう原理かは知る由もないが、彼等は脳を破壊されると活動を停止する。
つまり、“死ぬ”のだ。
殺すという行為自体には慣れていた。
彼等を殺すことで生き永らえてきたし、そのことに罪悪感はない。
既に死んでいるものをもう一度殺したところで、何が悪いというのか。
それでも、思い出すことはあった。
初めて殺した人のことを。
脳裏に焼き付いた“女”の顔と匂いが蘇り、息を吐いた。
それから少し歩くと、一軒のコンビニを見付けた。
住宅街の中にぽつんと佇むそれは、略奪を逃れたようで、他の店舗よりも幾分ましな外観をしている。
煙草が切れかけていたことを思い出し、物資と寝床の確保を兼ねて探索することにした。
電源の切れた自動ドアを手で開き、銃口を差し入れる。
床に落ちた菓子パン、開いたままのレジ、乾いた血痕。
動くものはない。
カウンターを乗り越え、煙草を手に取る。
青と紫を基調としたパッケージ。
これを見て真っ先に思い出されるのは、“彼女”の姿だった――。
一つ年上の彼女は、襟足の伸びた派手な髪を好み、凛々しいようで時折儚く、どこか飄々とした雰囲気を纏っていた。
今まで関わったことのない属性の人間で、何を考えているのか分からなかった。
関係を築いてからも、彼女がなぜ自分を選んだのだろうかと不思議でならなかった。
実際、思わず惹きつけられるような振る舞いと整った顔立ちで、異性に困ることはなかったはずだ。
ただ、面倒臭い人間であるという点において、彼女と自分は似ているという直感があった。
必要以上に深く思考し、他者よりも正しくありたいと願い、感情すら理屈で説明したがるような人間。
自らの行動にいちいち意味を見出そうと足掻き、こと恋愛においても精神的な繋がりを欲し、そうでない不誠実な他人を憎んでしまうような人間。
彼女も、自分も、そういう面倒な人間だった。
その面倒臭さが二人を繋いでいたのだと思う。
ある時、冗談交じりに尋ねたことがあった。
他の異性に興味はないのかと。
彼女は少し微笑んでから、またいつもの深く考える時の表情で言った。
「私にとって、キミといることが一番正しい」
正しい、という言葉が腑に落ちた。
彼女は自分と共に時間を過ごすことを正しいと認識しており、自分もそれに応えなくてはならないと感じた。
そして、その通り誠実に正しく生きてきたつもりだ。
そんな彼女がしていた唯一正しくないこと、それが喫煙だった。
自分と向き合って何かを考える時、頭が冴えるから辞められない。
そう言って紫煙をくぐらせていた。
俺に喫煙の習慣はなく、試しに吸っても美味いとは思えなかったが、相手が吸うことに抵抗はなく、彼女の人間らしさを感じて嬉しくもなった。
しかし、彼女と時間はあまりにも虚しい終わりを迎えた。
世界が急速に滅んでいく中、彼女の家で二人で息を潜めて暮らしていた。
しかし、食料が底を突きかけた頃、近くの避難所で食料を配給しているという放送を耳にした。
やむを得ず避難所に向かう道中で保有者に襲われた。
物陰から飛び出した屍に気付いた時にはもう遅く、彼女は肩を掴まれ、噛まれた。
家に戻った彼女は金属バットを差し出し、自分を殺すように言った。
それが「正しいこと」だと付け加えて。
そして、俺はその通り、再起した彼女を殺した。
それが初めての殺しだった。
それからは、彼女と同じ銘柄の煙草を美味くもないのに吸い続けている。
彼女の遺した思考を共有できるのは最上の喜びであり、悲しみでもある。
自分もつくづく面倒な人間なのだろう。
店舗の奥から響いた物音で、回想の渦が引いていった。
煙草の箱をポケットに押し込み、銃を構える。
ハンドガードに載せたフラッシュライトを照射した。
バックヤードへと続くドアの向こうで気配がする。
保有者の呻き声は聞こえないが、何かが潜んでいる。
いつでも発射できる姿勢のまま、ゆっくりと進む。
建物内を安全化していないというのに、完全に油断していた。
ドアを開ける。
薄暗い室内をライトの白光が切り裂き、明度を上げた。
少女がいた。
肩まで伸びた黒い髪。
どこかの高校指定と思しきジャージ。
冷たい床に座り込み、大きな瞳でこちらを見つめていた。
銃口を向けられているというのに、少女の表情は落ち着いている。
床には少女の物であろう回転式拳銃が置かれているが、それに手を伸ばそうともしない。
その視線には何もかも捨て去りたいという諦観が滲み、得体のしれない鋭さで俺の思考を抉った。
そして、あることに気付いた。
袖が捲られた左腕。
手首に赤い血の線が幾重にも走っていることに。
「――噛まれてるのか?」
声が意図せず低くなる。
引き金に添えた人差し指に力を込めた。
感染しているならば、この場で引き金を絞って彼女を殺すことになる。
「違う。自分でやった」
細く透き通るような声で少女は言った。
その響きに感情は籠っておらず、どこか開き直っているようだった。
少女がポケットから剃刀を取り出した。
ピンク色の柄は大半が赤に染まり、刃も乾いた血で固まっている。
これが自傷の証拠だとばかりに、顔の前で掲げる。
小さい輪郭と血塗れの凶器のアンバランスに、じわりとした悪寒を覚えた。
血には慣れている。
バットの殴打で裂けた皮膚も、銃弾で砕けた頭部から溢れる脳漿も、露出して干からびた内臓も、そういった類のものは何度も見てきた。
しかし、目の前のこれは、異なる感覚をもたらした。
「――分かった」
銃口を下ろす。
全身を確認しないことには感染の有無は判断できないが、まさか服を脱がせて見る訳にもいかず、取り敢えずは普通の人間として扱うことにした。
それでも警戒は解かず、セレクターは単射のまま。
腰に吊った拳銃をすぐ抜けるように身構えつつ、女に近付いた。
敵は保有者だけではなく、敵意を持った人間もまた、危険だ。
もっとも、この少女からは俺をどうにかしようという意思は窺えなかった。
「動くなよ」
剃刀を取り上げ、遠くに放る。
タクティカルベストのメディカルポーチから用具を取り出し、簡易的な処置を済ませた。
手首の傷はそう深くなく、すぐに血も止まった。
処置の間も少女は落ち着き払っていた。
自分がどうなろうが、俺がどうしようが、お構いなしなのだろう。
いっそのこと喚いて暴れてくれた方が分かりやすい。
ひとまず隣に腰を下ろしてみたものの、人間に会うこと自体が久々な上、この奇異な状況に合う話題を繰り出せるほど対人経験は豊富ではない。
そもそも、自傷行為をしている異性に遭遇した経験などなく、迂闊なことを言おうものならさらに厄介なことになりかねない。
かといってここを去る気にもなれず、やはり自分は難儀な性格の持ち主だと自覚する。
少女は何も言わず、包帯の巻かれた手首を見つめている。
手先が器用な自覚はなく、我ながら歪な処置だ。
悪いことをした訳でもないのに居心地が悪く、耳に掛かった髪を後ろに撫で付けて沈黙を誤魔化した。
「――ありがとう」
呟くように言った彼女の声が一瞬だけ沈黙を揺らした。
「痛そうだったから」
気の利いた言葉など浮かばず、偽りのない感想を返した。
それを聞いた少女は、間の抜けたような表情を浮かべてそっと微笑んだ。
「お兄さん一人?」
「――今はね」
「私も。生き残っちゃった」
彼女の顔を見る。
微笑は悲しみを湛えた自嘲に変わり、不自然に細められた双眸が痛々しかった。
「恥じることじゃない」
俺は確信を持って言った。
それは自分自身に言い聞かせるためのものであり、目の前で涙を堪えている若い少女に向けたものでもあった。
「あの子の方が生きるべきだった」
少女が痛々しい笑顔のまま言う。
溜まった涙を流すまいとひたすら口角を上げていることに気付き、俺は言葉を続けた。
「俺も後悔や未練は山ほどある。それでも、満足するまで生き続けることが正しいと思ってる」
正しい自分でありたい。
たとえこの手が汚れていても、そう思う気持ちは残り続けていて、だからこそ、少女を見捨てたくはないと思う。
「お兄さんは強いね」
「弱いから生きてるのかも。死ぬ手段はあるのに結局生きてる」
少女も同じだろうと思った。
銃を使えば一瞬で全てが終わり、解放される。
しかし、それでも踏み切れず、リストカットで誤魔化し続けていた。
俺のしている喫煙だって緩やかな自傷行為に変わりなく、手首を切るか、有害な煙を吸い込むか、その違いしかない。
「私ね、仲が良くて大好きな友達がいたの――」
少女が堰を切ったように話し始めた。
彼女が語ったのは、悲しくもありふれた話だった。
夏休み直前、終業式の最中に学校が保有者に襲撃された。
仲の良い友人と逃げ出し、近隣の避難所に逃げ込んでしばらくは落ち着いた生活を送ったという。
しかし、流入した避難民の中に感染者が紛れており、転化して周囲を襲い始めた。
阿鼻叫喚の地獄の中、親友は少女を庇って犠牲になった。
そして、自身を責め、手首を切るようになった。
それが少女の物語だ。
「先に逃げて。あの子はそう言った。その言葉がずっと頭から離れないの」
もはや涙を堪らえようともせず、少女は吐露した。
俺は何も言わず、古い煙草の箱を差し出した。
残っているのは二本だけ。
片方を口に咥え、根本のカプセルを砕いて手本を見せる。
少女は一瞬だけ逡巡したが、一本を取ってカプセルを押し潰した。
小さな口に咥えられたそれに火をつけてやる。
そうしてから、自分の分にも着火した。
「――美味しくない」
少女が言った。
それでも、むせて煙を吐き出さないあたり、素質があるのだろうか。
「俺もそう思う。でも、痛くないだけマシかなって」
「――次からはこっちにする」
未成年に喫煙を勧めることは、倫理的に正しくない。
しかし、この終わった世界に残った二人の間においては、最も正しいことだと思えた。
狭いバックヤードの中、並んで煙草を喫む。
新しい“隣人”との一時が始まった――。