総理の復縁
総理の復縁
目 次
1 出 奔 3
2 遣らずの雨 8
3 旧 家 13
4 回 顧 19
5 東京タワー(1) 24
6 東京タワー(2) 27
7 俠 ? 33
8 舞い戻り 37
9 再 会 42
10 家 族 46
1 出 奔
その男は東京駅に降り立った。
これからどこへ行くというでなく、所在無げに、
「とうとう、来たなあ。そやけど……、これから、
どないしようかなあ」
という面持ちで通りの向こうのビルの看板、広告などをぼんやりと眺めていた。手をポケットに突っ込み、もう一方の手は僅かばかりの物を入れた鞄らしきものと上着を小脇に抱えていた。
そこへいきなり、ドンと激しくぶつかられ、男は思いっきり歩道にたたきつけられた。
「あっ、ごめんなさい。よそ見してたのっ」
女はしきりに謝った。〝犯人〟は女だった。男は頭を打ち付けて顔をしかめ、そこに手をやって「うーん」と唸っていてかなり痛そうな様子である。女は、
「大丈夫? 大丈夫? ごめんなさいねっ」
と、なおも、眉を八時二十分にして謝っているが男の痛みはそう早くには引きそうにない。
女は散らばった物を手早く拾い集めて手に持ち、心配そうに男の顔を覗き込んだ。男は目は閉じたまま、さも痛そうに顔をしかめている。
その女は、襟先が丸い白のブラウス、金ボタンの付いた濃紺のブレザー、茶のチェックのスカート、髪は目の上でそろえて肩にかかっている、所謂〝難攻不落〟という出で立ち、一見、二十前後である。男はむくつけき感じながらも童顔が漂い、襟元もかなりゆるい白シャツに紺のズボン、少しよれ、紐なしの一応、革靴を履いている。
女は手に持った物を置いて歩道に膝をつき、男が当てているその手を離し、打ったと思われる辺りを見た。血は出ていないようだが見るからに腫れており、所謂、たんこぶができている。女がそこをそっとさすると痛いかして男の体がびくっと反射的に動いた。
見回すとベンチがあるので、女は男の腋に手を入れ、
「立ちましょう」と立たせてベンチへと誘った。男は、頭に手をやったまま俯き加減で、もつれながら足を交わした。
女は、ベンチに男を座らせ、
「ごめんね……」
と女は謝るが男は相変わらず押し黙っている。女は男の顔を覗き込んだりして、どうしたものかと考え あぐねていたが、ふと、
「ちょっと待っててね、ちょっと……」
女はそう言い残して小走りに駅舎の中へ向かった。女はすぐ戻ってきた。手に濡らしたハンカチを持っており、それを男の手を離してたんこぶに当てた。男は「うーん」とうめき、細目を開けた。足もとには自分の靴と隣に座っている女の履いている、先の丸い靴が映った。声を聞いて自分にぶつかったのは女だと判っていたが、その女が寄り添うように並んでいる。目を少し上に移すとチエックのスカートが目に入った。その女の喋り方と合わせて、自分を痛い目にあわせたのは自分より二つか三つ、年上の女だと思った。
それまでは痛い目に遭わされて「このォっ」と思っていたが急転直下、顔からカーッと火が出そうになった。この男にとって、女と席を一つにするのは初めてのことで胸に去来するものがあった。女は、
「大丈夫?」
と声をかけ、つづけて、
「吐き気はしない?」
と訊いた。男は、
「うぅうん」
と、抑揚をつけて答えた。女はその返事を計り兼ね、
「するの?」
とやや詰問調で言った。男は、今度は頭を横に振った。女は、
「じゃあ、しないの?」
と問いかけると、今度は、
「うん」
と頭を縦に振った。それを見て、女は少し安心したようだった。こういう場合、救急車を呼ぶものであろうが女はそれはしなかった。それは血が出ていなかったことにもよる。女は男の患部に当てているハンカチを時々裏返している。その手は男の首を回ったりして、そでが頬を撫でたりした。女はその手を放し、
「あのっ、私、矢野っていうの。あなたは?」
矢野と名乗る女の、その男に対する振る舞いは、その男のことを前から知っているような、また、その男を見るからに自分より年下に思っているような馴れ々れしい感じがした。男は、
「こいすみ」
と小声で答えた。矢野は、
「えっ? 小泉さん?」
「こいすみ」
と再び小声で答えた。
「じゃあ、あの濃墨さん? 総理と同じ濃墨さんね」
と言うと「ははは」とも「ほほほ」とも付かない声で笑った。濃墨は少し気に入らない風に矢野とは反対の方に目をやった。
「あーら、ごめんなさい」
矢野の目もとはまだ微笑んでいた。
「あの、違ってたらごめんなさいね」
濃墨は「何?」という面持ちで視線を矢野の膝の方へやった。
「こちらは初めてなの?」
と話すと濃墨はまたも視線を矢野と反対の方へやった。
少し間が空き、
「ねぇ、食事していかない?」
と、前を見ていた矢野は濃墨を覗き込んだ。濃墨はつられて矢野の方へ目をやった。至近距離なのでピンぼけのような感じながらも、初めて女の、矢野の、頭からつま先までが目に入った。目の醒めるような美人でもなければのけぞるようでもないが、清楚な感じがして、その顔つきには何か惹かれるものがあった。濃墨は前を虚ろに見たままで答えなかった。 矢野は左手を前に出し時計を見た。その時計は掌の下が12時である。男物の時計とは文字盤が90度違っている。
「ほら、時間も時間だし……」 「行きましょっ」。
2 遣 ら ず の 雨
矢野は濃墨の腰の辺りに手をやり、少し力を込めて自分の方に引き寄せ、立つよう促した。濃墨はややよろけるようにして立ち上がった。腰に当てた手をそのままに歩き始めた。その二人の姿は、見ようによっては男が女刑事に連行されているようにも見え、仲のよい二人連れにも見えた。濃墨の体にはもうその手は触れてはいなかったが手の気配を強く感じた。矢野の背は、頭のてっぺんが濃墨の耳辺りまであった。その耳は赤みを帯びていた。
少し歩くとレストランがあって、矢野は濃墨に、「ここでいい?」と目配せをし、そこへ連れて入った。
二階へ上がって窓際へ席を取った。窓から外を眺めると、道路を行き交う自動車が見える。
やってきた給仕に矢野はフルコースを二つ注文した。その声で濃墨に、
「ねぇ、どこから来たの?」
と、訊くと濃墨は外の景色を見るでなく、ずっとおどおどとした視線を落としていたが、
「きようと」
と消え入るような声で答えた。
「えっ?」
と聞き返すと、「きょうと」と身動ぎもせず答えた。
「あ、そう。京都からねっ」
と矢野は明るい声で相づちを打った。その声は自分の声とは反対に大きいので濃墨は辺りを憚ったようにも見えた。
やがて、スープが届いた。矢野が、
「頂きましょう」
と勧めたが、濃墨は矢野につき飛ばされてたんこぶが出来たことはもう忘れ、今はただただ、矢野に気圧されているだけのことであり、他には何も頭に浮かびもしなかった。
矢野はスプーンを取ってスープを口もとへ運ぶと濃墨もスプーンを手にした。その様子が矢野にはおかしくもあり初々しくもあった。
矢野は食事を取る間合いを濃墨に合わせ、濃墨がそれを必ず先に食べ終えてから自分が終わるように見計らった。そのため食事が終わるのに結構時間がかかった。
そして、コーヒーを飲み始めるとザーという音がし、矢野は目を外へやった。「雨か」と胸の内でつぶやいた。朝は晴天だったので二人とも傘は持っていない。矢野は雨空を見、そして濃墨の方に視線をやった。濃墨は相変わらず俯き加減で、視線は矢野のコーヒーカップの辺りに落ちている。矢野は両手をテーブルの上で絡ませ、
「ねぇえ」
と語尾を上げ、
「あなた、何か好きなことある?」
と話しかけた。濃墨は唐突な話しかけに返事に困っている。好きなことは色々ある、どれを答えたものかと考えていると、矢野は、
「例えばー、プラモデルとか……」
と話し、濃墨の顔の僅かな変化を見逃さなかった。さらに覗き込むように、
「自動車とか」
とつづけると「そうやなあ」と言いた気に口を開けて閉じ、片方の手で頬杖をついた。
しかし、それだけで言葉は出なかった。矢野は濃墨の脈を感じ、
「あなたねぇえ。名前が濃墨だから友達から色んなことを言われるでしょ? 例えば、
『おい、濃墨! お前、総理大臣だからこの世の中をなんとかしろ!』なんて言われたりしないの?」
と話しかけると、濃墨は声は出さないが顔が笑いかけている。矢野もつられて頬が崩れた。濃墨はこのことで過去に何か言われたことがあるらしく喋ろうとして口先が尖っている。それを受けて、
「例えばー、今、国会で郵政問題とか、国連の常任理事国加盟問題とか。あ、普通こんな話しないよねっ……、ははは」 「それはそうと、あなた、まだ、学校に行ってるの?」 と話しかけると濃墨は小さくうなずいた。
「そぉお。じゃあ、クラブ、何かやってる?」。
矢野は何とか喋らそうと試みた。馴れ々れしく感じるも親しみを感じさせる喋り口調であった。しかし、濃墨から言葉は中々出てこなかった。
抑、濃墨は碌々(ろくろく)女と口を利いたことがない。だから、女に近寄られただけで拍動が高まり鼻血が出、悶絶卒倒して何の不思議もないのだ。いわんや、その女と一つのテーブルに座る、差し向かいで飯を食う、いまだそこにそうして正気でいる。これは不思議でさえ
ある。
中々、雨が上がらないのでコーヒーのお代わりをしたら小止みになり、飲み終わるころには雨足が強くなる、これの繰り返しだった。この間、矢野は懸命に話しかけた。
ようやく、雨が上がり二人は外へ出た。二人の影は歩道に長く伸び、東側のビルの上には七色の弧を描いている。二人は何処へというあてもなく歩き始めた。
矢野は時計を見た。
「あなたねぇえ。これからどうするの?」
「…………」
濃墨は頭を傾げ、「うーん、どうしょうかなあ」と言いた気な素振りだが声にはならなかった。矢野は濃墨の方を見ながら
「大事な一日を潰しちゃって、ほんとにきょうはごめんなさいね」
矢野は立ち止まって濃墨の方へ体ごと向き、
「よかったら私ん家へこない? どちらにしても、これから泊まる所を探さなきゃなんないでしょ?」
「???」
濃墨も立ち止まり、初めて訪れた土地で、初対面の自分に昼飯を食わせてくれた、それはこぶたんを作ってくれた〝当然の〟礼と思えば思えなくもない、だが、その上、今夜泊めてやるといっている、これは只事ではない、こぶたんの礼にしては過ぎた礼だ、そう言った、矢野を驚いたような目で見た。
初めて逢った男と女がその日の内に席を同じくすることはない。いわんや、その夜に家を同じくすることなどさらさらないのが普通である。が、女が男を自分の家に誘ったからといってそれが同衾を意味するものではなかろうが、只事ではないのだ。一年とった者であれば尋常でない女の申し出に、眉に唾を付けて(狸が人をだます時、眉毛の数をかぞえるという)掛かるものだが、年の浅い濃墨は
「何か、いいのかなあ」と思ったがそれ以上のことを考えることはなかった。
矢野は身動ぐ濃墨に、
「いらっしゃいよ。家にはお父さんもお母さんも旅行に行っていないんだから、気を遣わなくていいの。むしろ、男の人がいてくれた方が私たち安心できるの」
「???」
またも言われた言葉の意味が解らず、躊躇っている濃墨に、
「ねっ」
と念を押すと同時に矢野はレストランに連れて入った時のように濃墨の腰の辺りに手をやり、同意を得ないまま、今来た方へ踵を返した。濃墨は矢野の言葉というか行為を理解する刹那もおかず、言われるまま付き従った。
3 旧 家
それから、電車、バスを乗りついで、とある閑寂な住宅街で二人は降りた。降りると矢野はまたも濃墨の腰の辺りに手を回し「さあっ」と促した。
濃墨は辺りを見回した。どの家も門構えで塀が高く、あちこちの塀の上から八つ橋状に折れ曲がった松の枝が塀の外に食み出している。通りから一歩入ると道幅は自動車が対向できる広さはなかった。
そんな道を二折れ、三折れして背より高い門構えの家の前に着いた。その門の表札は「矢野」の文字が真新しい。その門の扉は腰から上が唐草模様の作りになっていて、中が窺える。右には庭が広がり、大小の庭木の一本、いっぽん、枝の剪定が行き届いている。玄関は一間幅の立て格子。矢野は扉を押し、濃墨を促して中へ入った。飛び石を踏み、玄関の呼び鈴を押した。
「はあーい」
と老齢の女の声がし、中から玄関の戸ががらがらと開いた。
「お帰りなさい」
と声をかけ、伴っている濃墨に気付き、
「あーら、お客さんね。いらっしゃい」
と老女は応えた。見知らぬ男を伴っていることを不審にも不思議にも思っている素振りは感じられなかった。不審に思うどころか孫を見つめるような優しい眼差しだった。この人を、濃墨は「矢野のおばあちゃんや」と思った。
「入って」
と、矢野は濃墨を家の中に入らせ、今度は、
「上がって」
と、自分も靴を脱ぎ、濃墨を上がらせた。濃墨は、
「お邪魔します」
と蚊の鳴くような声ながら、言うには言った。この家は勿論初めて訪れる家なのだが、何かしら来るのが初めてではないようなそんな気がした。矢野は、今度は濃墨に先だって廊下を歩き部屋へと誘った。そこは居間で、二十畳くらいの広さ、天井からはシャンデリアが下がり、革張りソファの前に一枚板のテーブル、テレビ、サイドボードがあり、壁には畳、一畳ほどの大きな風景画が掛かっている。矢野は、
「掛けて」
と濃墨にソフアを勧めた。濃墨は腰を降ろし、矢野も向かいあって腰を降ろした。そこへおばあちゃんが、
「お疲れさん」
と、言いながら茶を盆に載せ持ってきて二人の前に置いて立ち去った。矢野は、
「どうぞ」
と言いながら湯飲みを口に当て、濃墨も無言のまま湯飲みを取った。矢野は湯飲みをテーブルに置き、
「きょうは痛い目に遭わせて本当にごめんなさいね。まだ、痛む?」
と聴いた。濃墨は、
「もう痛たーない」
と答え、打ちつけたところを手先で触れた、触ると少し痛かった。
矢野は、
「お風呂に入る?」
と促した。濃墨は顔を上げ、矢野を見た、「えっ、お風呂?」という面持ちであった。矢野は立ち上がって濃墨の側に行き、促すと濃墨は俯き加減で立ち、上着はそこに置いて鞄だけ持って矢野の後につづいた。矢野は風呂場のドアを開け、濃墨が入ると、
「そこのパジャマを着てね。ごゆっくり」
と言いながら閉めた。濃墨は湯船に浸かり、そこにあるパジャマを「お父さんのかなあ」と思いながら眺めた。
風呂から上がった濃墨は再び居間のソファに腰を降ろし、新しく入れられている茶を飲みながらテレビを見ていた。程なく矢野もパジャマ姿で腰を降ろした。湯上がりの香りと生乾きの洗い髪から発するシャンプーの香りとが辺りに漂い、濃墨にもその香りが届いた。
「おなか、空いたでしょ。こちらへ」
と、おばあちゃんは二人を、つづきの台所へ通した。そこには八人掛けのテーブルがあり、その上に夕餉が用意され、テーブルには料理で隙間なく埋め尽くされていた。濃墨は椅子に腰をかけ、品数の多さに目を見張った。矢野はおばあちゃんの方を向き「済みません、こんなに」というような顔つきをした。おばあちゃんの頬は緩み、「いいんですよ」という顔であごを少し引いただけだった。濃墨は、落としていた目をおばあちゃんに向け、そして矢野に向けた。驚愕という程ではないが目が、「ええんですか」と言わぬばかりに少し丸くなっている。おばあちゃんは
「さあ、どうぞ召し上がれ」
と言い、矢野は
「食べましょ」
と箸を手にした。濃墨は丸くした目をそのまま料理に注ぎ、箸を手にした。先ず、手前の魚に箸をつけた。すると、うまく包丁が入れられていて、すっと身が離れた。その魚は白身で塩焼き、頭と尾が皿の外にはみ出している。濃墨は思い出したように箸を置いて手を合わせ、
「頂きます」
と小声ながら言った。矢野は初めて濃墨の言葉を耳にした。濃墨を見るともう魚は裏返っていて終りに近かった。矢野は思わず、咀嚼しつつも微笑みを濃墨に送った。が、濃墨には届かなかった。
魚を食べ終ったところでおばあちゃんが出てきて、目を細め、
「まあま、よく食べてくれて……」
と言ってその皿を下げた。この時、濃墨はおばあちゃんを見上げた。おばあちゃんは空いた皿の所へ肉の入った皿を引き寄せた。その肉は結構分厚かった。これを食べ終ると、見たこともない大きな伊勢エビ、あわびと次から次へと箸が渡った。さしもの濃墨もギブアップ、いや、ゲップアップとなった。この間、おばあちゃんの目が潤んでいったのを濃墨は気付くはずもなかった。そして、濃墨はふと矢野の方を見た。どの料理もあまり手はつけられていなかった。
「あ、あないようけ残っとるわ」と思った。
食べ終って居間へ戻り、テレビを見ていると矢野がやってきて、
「きょうは疲れたでしょう。そろそろ休まない?」
と言った。濃墨は矢野の顔を見てうなずき、上着と持ち物を持って立ち上がると矢野は前を歩んだ。廊下に出て黒光りのする螺旋状の階段を上がるとギシギシ音がした。矢野は掛かりの部屋のドアを開けた。その瞬間、濃墨はどきっとした。ところが、矢野は取っ手を持ったまま立っていた。その姿は「早く入るの」と言っているようだった。濃墨は矢野の横顔が目に入った。これまでは少しあごを引いていたがこの時はあごを少し突き出した格好をしており、丸い鼻がやけにつんとしていた。その時、「何か、収容されてるみたいやなあ」と思った。
「お休み! スイッチは枕元よ」
と言ってドアを閉めた。
矢野は濃墨に逢ってずっと微笑みを絶やさなかったが、ドアを閉めると肩から力が抜け「はあ」と思わず吐息が漏れ、初めて真顔に戻ったのだった。
濃墨の入った部屋は八畳ほどの広さ、でダブルのベッドと机がある。カーテンは既に引かれており、外の様子は判らなかった。壁には額に入った花の絵が飾られている。濃墨はベッドに腰を降ろしていたが掛け布をまくってベッドに入り電気を消した。
4 回 顧
濃墨は目を閉じ、東京へやって来た訳を思い巡らした。
物心がついてから自分には父親がいないことに気付き母親に尋ねていた。
「なあ、母さん、僕の父さんどこに居てるの?」
と。しかし、
「居る」
と返事されると、幼いころはそれ以上のことを尋ねることはしなかったし、それ以上の返事もなかった。
事ある毎に、「父さん、父さん」と言っていたが、小学校も高学年になると、
「僕の父さんはどこに居てるの」
「父さんはどうしていつも家に居てへんの? よそのお父さんは
いつも家に居てるのに」
などと責めた。母、節子からの答は、
「居る、居る」
とこれまで通り繰り返すばかりで、それ以上のことは〝決して〟答えてくれなかった。
自分もやがて大きくなり、強烈な口を利くようになった。
「俺の親父は何処におんねん。なあ、お袋っ」
「あなたのお父様はいらっしゃいます」
「何処にぃっ」
「今に解ります」
「今、今言うて聞き飽きたわ、ほんま。ええ加減にしてくれ」
「ほんまにおるんか、親父は」
「居ます」
「居る、居る言うて、ほんまは、居てへんのと違うか」
「そんなことありません」
「ほんまかっ? おんねやったら会わしてくれ」
節子は黙っていた。
「いつも『居る、居る』言うて! ほんま言うたら、若しかしたら俺っ、父無し子と違うか」
と言うが早いか、
〝パシッ〟
と気持ちのいい音がした。節子が柳眉を逆立て、びんたを飛ばしたのだ。
「痛っ、何すんねん」。
節子は、今の今まで、引き延ばしに引き延ばしてきた。しかし、
「遂にその時が来た」と思った。
「来なさい」
少し怒り口調であった。
「何処へー?」
びんたを食い、先程の意気はちょっと消沈したようだ。
「いいから来なさい」
濃墨こと考三郎は不貞腐れた顔をしながら、頬をさすりさすり母に従った。
母、節子は玄関を出て、自動車に乗ったので付いて乗った。
しばらく走った。
節子は目を右に左にやりながら運転しているようだった。考三郎はそれに気が付かなかった。やがて、然るべき所に着いた。節子は考三郎に自動車から降りるよう指示し、自分も降りた。考三郎は人気のない所に連れてこられ不審に思った。節子は四歩、五歩、歩くと立ち止まり振り返った。
「さあっ、あなたのお父様よ」
節子は言った。考三郎は辺りを見回した。もう一度よく見回した。が、誰もそこには見当たらなかった。
「何処にも居とれへんやんけ」
「そんな言い方はしないの。お父様が悲しみますよ」
「ふん 何が、おとう 様じゃい」
「おるんなら出て来い!」
「そこにいらっしゃるでしょ」
「何処に!」
と言いながら辺りを見回す考三郎に、節子は、
「ほらそこに」
「何? どこにも居てへんがなー」
「ほらっ、そこにいらっしゃるったら。解らないの?」
言われて考三郎はなおも辺りを見回すが本当に見えなかった。余りに節子の
「居る、居る」
と言う言葉に、父が幽霊となって現れているのかと思って薄気味悪くなった。
「ほら、あなたの後ろ」
考三郎は振り返った。
「ポスターが貼ってあるだけやん」
そこには、ある政党の大きなポスターが掲示されていた。ポスターの主はその政党の党首であった。
「そう。そのお方があなたのお父様よ」
そう言った瞬間、節子は「嗚呼、遂に明かした……」と思った。そして、ずしりと肩により重いものを感じるのであった。
「え、えええっ?」
考三郎は腰を抜かした。そして気を取り直し、貼ってあるポスターの 主を繁々(しげしげ)と見、母とポスターの主とを番る見比べた。その主は総白髪に近く、その髪は頭に鍋を被ったように見え、笑っている穏やかな目は三日月のようだった。
「こいつがクソ親父かーっ」 「ほんで、何処におんねん」
と言いながらポスターの顔にストレートパンチを食わせた。
「やめなさい。あなたのお父様でしょ」
「何で親父の肩を持つねや。お袋は今でもこいつのことが好きなんかーっ?」
節子は黙っており、やや、横を向いた。
「そやったら別れんといたら良かってん、ほんまに。
♪愛~しながら~別れ~た~♪」
「調子が外れているわよ」
「うるさい!」。
5 東 京 タ ワ ー (1)
突然、トントンとドアを叩く音がした。考三郎は音のする方を見た。なおもトントン、トントンと音がした。
「お早う。よく眠れた?」
矢野がドアを開けて立っており、もう身仕舞いは整えている。
考三郎は
「うーん」と言いながら起き上がった。
階下へ降りると、おばあちゃんがトースト、牛乳などを盆に入れて運んできた。おばあちゃんは夕べと変わらず考三郎に優しい眼差しを送った。考三郎と矢野は台所のテーブルに向かい合って座り、矢野は煮抜きの殻をむきながら、
「きょうぉお、どうするの? 何か予定があって?」
と、考三郎に話しかけた。考三郎は湯気の立つ牛乳を口にし、
トーストをガブとかぶりつき、その言葉を聞いていた。何を隠そう
「〝クソ〟親父に会いたい」その一心ではるばる東京にやって来たのだ。しかし、今、ここで「自分は誰々で何しにやって来たと言っても信用してもらえる筈がない。いや、信用してもらえるどころか、却って、
『この子、ちょっとおかしいのと違うか』と思われるに決まっとる」、考三郎はそう思った。「親爺に会いに東京へ来た」と声を大にして言いたい、そう心の中で有らん限りに大声を張り上げた。が、どう返事をしたものか。父親の居るその場所へ行きたいとは、ちと言い難いし、憚られる。来る前に社会科の地図帳を開いてそれがどこにあるか調べた。東京駅からそんなに遠くではなかったので駅から歩いて行けるようやった。しかしここは何処やらさっぱり見当がつかへん。「そや」、考三郎はふと思いついて言った。
「東京タワーへ行ってみたい(東京タワーに登ったら行きたい所が見えるやろ、見えたら行ける。社会科の地図帳を見たら東京タワーもそない離れてへんかった)」、考三郎はそう思った。矢野は、
「東京タワー?」
と訝るように言った。考三郎は、
「うん、修学旅行で行ったことがある」
とだけ答えた。矢野も、
「あ、そう。じゃあ、案内するわ」
とだけ、訝る声つき、顔つきで答えた。「修学旅行で行ったことがあるから行ってみたい」ということは一応は理解の範疇である。しかし、そのためにわざわざ東京へやって来たとすると、それは理解の範疇の外である。矢野はその訳は聞かなかった。
朝食を終えた二人は玄関を出、門を出た。矢野は昨夜帰った道ではなく、家の前の真っすぐな道を行った。おばあちゃんは考三郎の姿が見えなくなるまで見送っていた。
そして、二人は東京タワーへと向かった、またもバス、電車に乗って。
この間、二人は言葉を交わすことはほとんどなかった。
6 東 京 タ ワ ー (2)
見上げると東京タワーは天を突くように、すっくと立っている。大地に伸びている支柱はすらりとした脚線美を誇っているように美しい。
考三郎は一目散に歩きだした。矢野は小走りに後を追った。東京タワーの真下に来た。
考三郎は辺りを見回し、また一目散に歩いた。
「ちょっと、入口はこっちよ」
と矢野の言葉が考三郎を追った。考三郎は、
「うん」
と返事をしただけで矢野の言葉に耳を貸す様子はなく、ただ真っすぐ歩いた。矢野は追いすがりながら、
「エレベーターはこっちよ。何処へ行くの?」
と掌で指すも考三郎には一向に届かない。考三郎はとある場所に着き、少し上を見上げ、矢野には一瞥することもなく歩を進めた。
矢野は、
「そこは階段よっ」
と言うと、
「うん」
とだけ返事をし、考三郎は片足を階段にかけた。考三郎がすたすたと歩いてきたので、
「まさか、階段を上がる気なのっ?」
と矢野は言い放った。考三郎は相変わらず、
「うん」
と涼しく答えると、
「え゛え゛え゛ー っ 」
と柳眉を濤立て絶叫に近い声で矢野は言った。考三郎は、
「修学旅行で来た時、階段を上がった」
と、後ろで足音のする矢野の方に初めて顔を向けて言った。聞いた矢野は二度びっくり。「だからと言って何も階段を上がらなくてもいいじゃない」と言ったが考三郎には届かなかった。
踊り場を過ぎた辺りから考三郎は今度は下を見ながら上がった。降りてくる人と当たりそうになることもあった。踊り場をいくつか過ぎた所にベンチが設えられている。
「ねえ、ちょっとぉ、休んで行こうよぉ」
矢野は堪らず、先を上がる考三郎に言った。
「うん」
と考三郎は答え、少し顧みて、
「あ」
と、ベンチがあるのに気付いた。ベンチに並んで腰を降ろした。矢野は「ああ(つっかれ たぁ)っ」と大きく息を呼くと同時に肩が下がり、頭を傾げた。
一方、考三郎は今までと打って変わって態度もでかく、左右に広げた両肘は背もたれの後ろにはみ出し、足を組んで座っている。そんな考三郎を見ていると、今度は矢野の方に
「このォっ」という感情がわいてきそうだ。そう思って考三郎の横顔を見た。考三郎の顔がこちらを向きだしたので、矢野はさっと真っすぐに向き直した。考三郎は手足を戻してさっと立ち、階段に向かった。
何度か休んで、矢野から見ればやっとの展望台だ。考三郎にしてみればようやく着いた展望台なのだ。考三郎は「さあ、着いた」と意気揚々であった。矢野を振り返ると、最後の階段を上がり、頭から胸と見えてきて、もう、今にも倒れそうになりながら歩いてきた。
矢野の唾液は固まる寸前の接着剤のように粘っている。座れるベンチがあるのを見つけ、そちらの方によろよろと歩いた。見ると、そうとは気付かない中年の夫婦も座ろうとして近付いている。考三郎は小走りに駆け寄り、その夫婦に「すいません」と声を掛け、同時に、階段から上がってきたばかりの矢野の方を一瞥した。それを察した夫婦は微笑んで席を譲った。矢野はまるでおばあさんのような仕種でその席にどっかと腰を降ろした。
「どっこいしょう」と聞こえてきそうだ。
がらがらがっちゃーんと音がした。矢野はその方を見た。考三郎が何か手に持って来る。考三郎はそれ、鉱泉飲料水を矢野に差し出した。疲労困憊の極みである矢野は手を出そうとはしなかった。考三郎はそれのキャップを取って、「さあ」と再び矢野の前に差し出した。矢野は考三郎を見上げ「ありがとう」という面持ちで受け取った。口にすると一気に半分ほどなくなった。
「こんなに親切なら、階段なんかより何でエレベーターで上がらないの」と目で訴えているのが解った。考三郎はそれに対して目で応えた。
考三郎はそんな矢野を背にしてつかつかと歩き双眼鏡の前に立った。そして、小銭を入れて覗いた。考三郎は双眼鏡を、壁にペイントを塗る時のように上下左右に動ごかし見入った。隣の双眼鏡へ移って覗き、また隣の双眼鏡へと次々に移った。そうしてしきりに双眼鏡を見ている考三郎の後ろ姿を、矢野は目で追っていたが、やがて視界から外れたので席を立った。がくがくする膝で考三郎のもとへ行き、話しかけた。
「熱心に見てるのね!」
「うん」
「何を見てるの?」
「うん」
考三郎はまたも「うん」とだけ答えた。今度は双眼鏡を動かさないで一点を見つめているようだ。考三郎は、ぱっと双眼鏡から目を離して矢野に弾けそうな声で言った。
「あの、ここ。ここを真っすぐ行ったら、ここへ行けるわなあ?」。
父親が居る所と同じように、もう一ヶ所、行ってみたい所があり、その方が先に目に入ったのだ。矢野にとっては唐突な話しかけに、
「えっ?」
とまたも柳眉を濤立てて答え、自分も双眼鏡を覗いた。考三郎が「行けるか」と言っている、そこには撮影所が像を結んでいる。矢野は
「そりゃあ、理論上は真っすぐ行くとそこに行くことはできるかも知れないけど……、そこへ行くための真っすぐな道があれば、のことだけど……」
「そんな道、ありゃあ(しないわよ)」
と言いかけたが、
「そこへ行きたいの?」
と聞いた。
「うん」
と、考三郎の声と顔は変わらず溌剌としているのに比し矢野は顔も声も、
「ええっ?」
と、その度に曇り、柳眉が濤眉になっている。その曇顔に考三郎は話した。
「ここで、義経、撮ってる所よねぇ」
「よしつね?」
「うん、今、テレビでやっている……」
「テレビで?」
「うん、義経」
「あ、義経ねっ? 判った。確かめるわ」
と答えて矢野は一人で歩いて行き、考三郎から見えなくなった。そんなに経たず戻ってきて、
「ええ、義経! やってるわ」
「あ、ほんまにっ」
とうれしそうに考三郎は言った。
矢野は「〝この男〟ときたら、ほんとに。東京タワーへは階段を上がるし、今度は、遥か遠くへ行きたいと言うし、きのうと打って変わって、何でこんなに元気なの? その後をついて歩かされたら…、もう付き合いきれないわ」と思ったがさりとて放ってもおけない。矢野は、
「いいわ、連れて行ってあげる!」
同じやるからには、と、にこやかに言った。二人はエレベーターで降りた。今度は考三郎を促す必要もなく、手を後ろにやる必要もなかった。
7 俠 ?
矢野は考三郎を連れて撮影所へ着いた。考三郎を守衛の手前で待たせ、考三郎を後目に守衛に何か言うとすぐに入れてくれた。奥に進むと薄暗い中、一際明るい所があり、そこで撮影が行なわれていた。しばらく見ていたが、或る役者の演技が終わると考三郎は突然、
「●●●●」
と、言葉はよく聞き取れなかったが大声で怒鳴った。ひげもじゃの男の鋭い目つきがサッと振り返った。慌てた矢野は「だめじゃないの」と言ってひげもじゃ男の側へ走りより、頭を下げ、考三郎の方を後目にしてまた頭を下げた。ひげもじゃ男は考三郎の方をちらっと振り返りながら「仕様のない奴め」という面持ちで、何か言ってメガホンを前に突き出すと撮影が始まった。
しばらくは大人しく見ていた考三郎は、また、
「▲▲▲▲」と怒鳴った。その瞬間、矢野は考三郎の口を掌で塞いだ。塞いだ手の薬指が口の中に入り、少し噛まれた。矢野は立ち
上がって考三郎を睨みつけ、指をハンカチで押さえながら、こちらを睨んでいるひげもじゃ男に謝り、考三郎を立たせ、外へ出た。
「もう、何てことするのよぉ。ほんとに、もぉ」。
矢野は考三郎を、柳眉を今度は逆立てて十時十分、睨みつけた。考三郎は、怒っている矢野を後目に平然と歩いている。平然というよりは清々(すがすが)しい顔つきをしているようにも見え、憮然とした矢野と対照的である。
二人は黙りこくって歩いていたが喫茶店が目に入り、どちらからということなく入り二階へ上がった。窓からは最前の撮影所が見えている。
注文したケーキが出てきたので食べていると、さっき考三郎が野次を飛ばした役者が通りの向こうを歩いてきたのが見えた。斜め後ろを女が付き添っている。目で追っていると行く手を三人の、人相風体のすぐれない男が立ちはだかった。その男は役者を指さし険しい顔つきで何か言っている。付き添っている女は役者の背後に身を寄せた。これはただならぬと気配を感じた考三郎は脱兎の如く階段を駆け降りて、そこへダッダッダッと走り寄り、
「兄貴」
と叫んだ。その場の男たちは一斉に振り向いた。声の方に向いた
役者は、
「あっ、お前は、さっきのっ」
と言う声と同時に、役者に指さしていた男が考三郎に殴りかかった。その腕を考三郎の左腕が遮り、右の拳がその男の頬を目掛けて弧を描いた。
「バチッ」と音がしてその男はのけ反り、もう一人の男の拳が考三郎を目掛けて襲いかかった。考三郎は頭をかがめるとその男の拳は空を切った。次の瞬間、考三郎の右の拳がその男の腹を捉えた。男は腹が引っ込んで、くの字に折れ、必然、顔が殴ってくれと言わぬばかりに突き出した。考三郎の左拳は誂え向きの左顎に炸裂し、男はツバキを噴きとばして引っ繰り返った。三人目の男はこの電光石火の早業を見て恐れをなし、転がるように逃げだした。考三郎は、
「こら、待てーっ」
と追おうとした、その時、考三郎は後を追ってきた矢野に腕を掴まれた。矢野は役者に深く腰を折り、なおも追おうとする考三郎の腕を両の手で掴んだまま強引に引っ張り、渡ってきた通りを戻った。直接、喫茶店には戻らず裏通りを一回りして戻り、食べ残しのまま支払いを済ませて喫茶店を出た。
矢野は並んで歩いている考三郎をちらっと見て「もう、どうしようない」という顔でまたも睨みつけた。怒っているから睨みつけられたと考三郎は思ったが、矢野のその顔に怒りは感じなかった。今度は考三郎が八時二十分にし、「済まぬ」という顔をして、
「俺、帰るよ」
と言った。
「そぉお」
と矢野は応えた。応えた矢野の顔は浮かぬ顔であった。
「じゃあ、駅まで送って行くから……」
と、その顔のままで言った。
「ええよ。俺一人で行けるから」
「いえ、送って行くわ」
「ええって」
「いーえ、どうしても……」 と二人は交わした。この時、矢野は応えるに、両手を胸の辺りに合わせ、体を小刻みに
ゆする仕種をした。考三郎は、
「あの時、指を噛んだからかー?」 と言うと、矢野は応えるに、口もとに手を当てて始めは俯き加減で、
「ほほほ」
と笑い、一呼吸入れて、今度は弓なりに反って中空に目をやり、
「はははは。はははは」
と声も高らかに笑った。考三郎は、「そんなに笑わんでもええやん」という顔つきをし、再び八時二十分、気を悪くした。
8 舞 い 戻 り
考三郎は家に帰ってきた。
玄関の扉は鍵がかかっていなかったのでそのまま開けて入った。
「おかえり!」
と、母、節子の明るい声が聞こえた。節子はもう一度、「おかえり」と言いながらやって来、何かを期待する目でついてきた。考三郎は自分の部屋へ入ろうと思っていたが台所へ一緒に入った。
「がちゃっ」と玄関の扉が開く音がした。節子は、考三郎が帰ってきたと思い、
「おかえり!」
と言って玄関へ急いだ。考三郎が、無言のまま自分の部屋へ入ろうとする姿が目に入った。もう一度、「おかえり」と言うと考三郎は節子の方を見、顔が会ったので台所の方へ踵をかえした。節子は何か期待を抱いて入ってきた。
考三郎はテーブルの椅子を引き、腰かけ、俯き加減で片方の手を旋毛の辺りの髪を掴んだりしている。節子も向かい合わせに座った。
「おかえり。何処、行ってたの?」
叱られるとばかり思っていた考三郎は優しく言われ、少し気が楽になった。
「とうきよう」
と、またも小さく答えた。その声は明るくもなく打ち沈んだ声でもなかった。
その前に、節子と考三郎は些細なことから言い合いになり、考三郎が出ていこうとするので、「それじゃあ、これを持って行きなさい」と小金を持たせたのだった。これから、家出するという息子に金を持たす親もそうそういまいが、もう子供ではないと考三郎を信じ、
好きにさせたのであった。これまで、何かというと「父さん、父さん」、「親父、親父」と言っていたので、「若しや」と思ったからだった。
小さく答えた「とうきよう」という言い方に節子は「にっ」とした。
「そう、それで?」
「うん」
「どう、『うん』なの?」
「うん」
「『うん』だけじゃあ、母さん、判らない」
「うん」
「ゆうべは何処へ泊まったの?」
「うん」
「『うん』だけじゃあ、判らないって言ってるでしょ?」
「うん、お姉さんの家に泊まった」
「え゛ー゛? お姉さん家?」
節子は魂消た様子だったが、考三郎の単刀直入な答に節子の相好が崩れた。それは、お安くない噂を聞いた時の反応に似ていた。
「うん」
「あ、そぉお、で? どうして?」
「向こうへ着いて、ぼやーっとしとったら女の人につき飛ばされた」
「まぁ、」
「その人が昼飯を食わせてくれて、夕方になって、泊めてくれた」
「あ、そう。親切な人だったのねえ」
「う?うん」
考三郎は親切にしてもらったとは思っていなかった。
「じゃあ、そのお姉さんの家に行ってー?」
「うん、そこで風呂に入って晩ご飯食べた」
「うんまあ、その家の人に迷惑じゃあなかったかしら?」
「……、おばあちゃんとそのお姉さんしか居てへんかった」
「そうだったとしても……、晩ご飯、頂いたんでしょ?」
「うん。魚と肉と……、おばあちゃんが作ってくれたん違ゃう?」
「どんなお魚?」
考三郎は、聞かれるままに、首を傾げ、思い出しながら、両手の
人差し指で間隔を作り大きさを示した。
「まあ! 大きなお魚だったのね」
「うん、肉も大きかった」
「そぉお」
「靴の裏側くらいの大きさやった」
ビーフステーキの形が似ていなくもないが、その比喩に口許を綻ばせながらも、節子は言葉にならず、感嘆の意を頭と肩と背中で表した。節子は目が潤みはじめたがつづけて聞いた。
「それから?」
「寝た」
「一階? それとも二階?」
「二階へ上がった所の部屋」
「その部屋……、あのー」 と、その部屋の様子を聞きた気だった。考三郎は応えて、
「大きな花瓶があって、花の絵が掛っとった」
「何の花?」
「菜の花かなあ、黄色かったから」
節子にとって幸いなことに、そこへ電話が掛かった。節子は口を手でおおいながら電話を取りに隣室へ向かった。呼び出し音はすぐには止まらなかった。考三郎はその隣の部屋の方に目をやった。
それから何年か経った。
9 再 開
母、節子と考三郎は新幹線に乗っていた。考三郎の父の母、考三郎にとっては祖母、良子が亡くなったのだ。
節子にとって、考三郎にとって、その時が、来るべきその時がやって来たのだ。前は考三郎の願いは叶わなかった。できることならば、いや、今度こそは、考三郎を、父、淳一郎に会わせたい、会わせてやりたい。然し、夫であった淳一郎が会ってやってくれるだろうか。何せ、淳一郎は、今となっては一国の宰相なのだ。私人以上にこういうことは憚られるであろうことは想像に難くない。そう思う、節子の胸は痛むばかりだ。
東京駅に降り立ち、出ると一人の女が二人を出迎えた。その女はアップスタイルで前髪も上げ、黒っぽい男襟の上着に共布のタイトのスカートという出で立ちである。節子はその女に深々と腰を折った。その光景を考三郎は「何をしとんのや」と思って見、何故、辞儀をしているのか解らなかった。三人は節子を真ん中にして歩き始めた。節子は考三郎に、
「ご挨拶なさいよ」
と言った。考三郎はそれが飲み込めず、
「えっ?」
と答え、「何で? 誰に?」と聞きた気だった。
「お世話になったんでしょ?」
と言うと、その、男襟の女は節子を見て頭を半分横に振った。その目は微笑に満ちていた。考三郎はそれに気付かなかった。
式場近くで車から降り、歩くとそこには多くの人たちが詰めており、喪服姿の人もいる。そんな中で空いている所に節子は立ち止まり、一般の人たちに混ざった、後の二人はその後ろに控えた。
いよいよ、その時は間近に迫り、節子の胸中に去来した。都合よくその折は訪れるだろうか、若し、その折が訪れなければこちらから訪れなければならぬか。その時は、なんと言い始めようか、
「こんにちは」、「お久し振りです」、「久し振りね」
の方がいいかしら、
「お元気そうでなによりです」、「元気そうね」は? そう言って何と言葉が返ってくるか、その言葉によって次の言葉を用意しなければ……、或いは夫から言ってくるのを俟つか、そういう訳にも行かないだろうし、節子はあれこれ思い巡らしていると、
「おばちゃん! おばちゃん!」
と、何処からか声がした。その場に居合わせる人は声のする方を見た。節子は、初めは自分を呼んでいるとは気が付かなかった。その声が大きくなった。
「おばちゃん! やっぱり、おばちゃんね。多分そうじゃないかと思って探してたの。やっぱり、そうだったのね」
黒の式服で固めた、その女は声を弾ませていた。周りの人は
「おばちゃん」
と呼びかけながら来た女から目を離し前に戻した。節子は自分のことをおばちゃんと呼ぶ女、清美を懐かしそうに見、そのまま腰を折った。清美は、
「あなたが考三郎君ね。いい男じゃない」
と親し気に言い寄ってきた。清美は節子より若かった。考三郎はこの女を「親戚の人やな」と思った。
清美は小声で節子に言った。
「こんなとこじゃなくてあちらに行きましょうよ」
「うぅうん。ここでいいわよ」
「よかないわよ。あたしに会ったんだから。そうは行かないわよ」
「私、もう、そういう立場じゃないんだから。ここでなきゃいけないの」
そう清美と節子は言葉を交わした。そして節子は目を足もとに落とした。
「でも、私が困るわよ。おじちゃんに叱られるわ」
「そう、言ってくれるのは嬉しいんだけどう……、」
と、節子はどうしてもその場を動こうとはしなかった。
節子は、離婚した今では勿論この濃墨家の一員ではない。だから、式に参列しなければならないことはない、かも知れない。ないのだがおばあちゃんこと義母には可愛がってもらっていた。だから「せめてもお見送りはだけはしたかった」のだった。どうしても動こうとしない節子をどうしても式場に連れていこうとした清美は、一計を案じ、片方の掌をメガホンのように当て、
「皆さん、こちらの方はねえ……」
と大声でその場を見回しながら言った。
「何だ、何だ、どうしたんだ」
という視線が一斉に三人に注いだ。観念した節子は清美を横目で
屹度、一瞥した。清美は上目遣いで、口許に手をあて、
「して、遣ったり」という、顔つき、手つきをしていた。節子は颯と身を翻し、俯いたまま先に立って式場の方へ歩き出した。回りの人々は
「えっ? 誰っ」とざわめき、その視線が歩き出した三人の背中を追った。
清美と三人は式場の後方へ至った。そこはパイプ椅子が横だけでも三、四十脚向こう向きに並んでいる。遥か奥には祖母の遺影が鎮座在しており、その前には何人も集まって立っていたり、座ったりしている。考三郎はその遺影の主を見て、何処かで見たような、とまでは思わなかったが言い表せないものを感じた。節子は先に文字通り末席、一番端に着き隣に考三郎を座らせた。清美は座ってしまった節子に前の方を指して行くよう促したが、
「ここへ来るだけでもとんでないのに前の方なんて……」
と清美を見つめながら頭を横に何度も振った。仕方なく清美は喪主、淳一郎の所へ足早に行き淳一郎に後方を指しながら何か言った。淳一郎は立って後ろを見たがその姿は、はっきりとは判らなかった。が、手を大きく振った。
空いていた席も次第に埋まってほぼ満席となり、何人もの僧侶の読経が始まった。やがて式典も終わり、清美がやって来て二人を小さな控室へ通した。
10 家 族
小一時間ほど経って淳一郎が息子、考太郎と考二郎を伴って現れた。節子は懐かしいような、少女のように照れたような、きまりが悪いような顔で腰を少し折った。これまでの不安が飛んだ一瞬だった。突っ立っている考三郎に淳一郎は笑顔で、
「お前が考三郎か」
と言って肩に手をさっと置いた。遂に父親に会った考三郎だが突っ立ったままで、硬さが増しただけだった。
淳一郎は目を細めたまま踵をとって返すと考太郎、考二郎がつづいた。節子と考三郎に後につづくよう、清美や周りにいる者たちが手を淳一郎の方へ差し伸べて促した。一行は地下に降り、それぞれ自動車に乗った。淳一郎と考太郎、考二郎がまず乗り、節子、考三郎が次の自動車に乗った。もう一台つづいた。清美はそれを見届けた。
大型乗用車はいずこかへと向かい、とある場所に着いた。淳一郎がまず降りて家の中に入り、一行はつづいた。考三郎はどこへ着いたのかと思っていたが、何か見たことがあるような気がしないでもなかった。
中へ入ると駅から付き添ってきた、男襟の女が居るので一瞬、不思議そうに見た。向こうはにっこりとした。「式場には一緒に居とったんかいな、それにしてもいつ来たんかいな」と思った。その女を矢野とは考三郎は気付いていなかった。矢野は頬を緩めて居間へ通した。玄関から周りを見ながら居間へと入り、何年か前に矢野と名乗る女に連れられて来た家だと判った。しかし、なぜ、再びこの家に連れてこられたのかということまでは思いもしなかった。
居間には膳が用意され、考三郎が入った時は奥に淳一郎、向かいに母、節子、淳一郎の隣に考太郎、考二郎が座っていた。考三郎も座ると、「食べよう」と淳一郎が促すとみんな箸を取った。
食べ終わって、茶を飲みながら淳一郎が、
「考三郎をここまで育ててくれて有り難う」
と堰を切った。
「いえ、あなたの方こそ、考太郎、考二郎をこんなに立派に……」
と、節子がつづいた。
「やあっ、家族っていいなあ」
と考太郎が言った。その言葉に、
「よかないよ」
と考三郎が投げ返した。視線が考三郎に集まった。
「兄貴らはええよ。ずっと父さんと一緒やってんから」
「何言ってるんだ。いいのはお前の方だ」
「何でや」
「お前の方こそ、ずっと母さんと一緒だったじゃないか」
「そらー、まあ、そやけど」
「僕、母さんがいなくなってどれだけ泣いたことか。どれだけ寂しかったことか。お前に解るか。解りゃあしないよう」
「そうかて、俺かて、生まれた時から父さんが居てへんかって、ずっと……、父さん、父さん言うて、母さんに言うとってん」
二人のやり取りを聞いていた淳一郎と節子は、始めはにこにこして聞いていたが次第にしんみりとした顔になった。そこへ考三郎が、
「何で、二人はずっと仲ようせえへんかってん」
と口を切り、淳一郎と節子の二人の顔を窺った。二人は顔を見合わせ、考三郎の方に戻した。考三郎はつづけて、
「ほんまに。仲ようしとったから、俺が生まれたんやろが」 「何でずっと仲ようでけへんかってん」
と二人を見つめた。この時、おかしさがこみ上げ、二人はもとより、考太郎も、考二郎も、矢野までもが禁じ得ずうつむいて噛み殺している。考三郎を見ると真顔なのがよけいにおかしさを誘った。それに気が付いた考三郎は間が悪くなったのか、
「二人とも来るねん」
と淳一郎、節子の手を取って立ち上がった。「何処へ?」と思いながら二人は顔を見合わせ考三郎に従った。考三郎は階段をギシギシと音を立てて上がり、掛かりの、以前自分が寝た部屋のドアを開け、二人を中へ入れ、ベッドの上に押しつけた。
「ここで、あしたの朝までこれまでの事を反省するねん。俺は外で番をしてるからな」
そう言うとドアを閉め、考三郎は部屋を出た。
考三郎の後を追った目を二人は戻し、淳一郎が言った。
「あれから何年経つかなあ」
「そうねえ」
「君には苦労をかけたなあ」
「いえ、あなたの方こそ。政治と……、大変だったでしょう」
「いやあ、うん。しかしなあ、一番大変だったのは子供たちだ」
「そう、よねえ」
「俺が悪かったよ」
「いえ、私の方こそ……」
「じゃあ、考三郎の言うように反省(仲直り)するか」
「はい。そうしましょう」
「しかし、そうなるとちょっと気恥しいなあ」
「私も照れるわ」
「口の悪い奴がいるからなあ」
「そういう人にかかったら叶わないわ。で、いつ反省の日にするの?」
と、嬉しそうな声。
「きょう。只今からだ」
「えっ、早いわね」
「うん。同じするなら早い方がいい」
「そうね」
「考えていると照れが先に立つからな」
と、今からもう照れている。
「はい」
節子も少し、はにかんだ。
「これも、お袋の思し召しだ」
「そうね、お義母様のお引合せよね。でも、このことをお義母様にご心痛を煩わせたのだから、もっと早くにねっ、お知らせできていたらきっと喜んで下さったでしょうに。悔やまれるわ」
「そうだな。やあ、女房っていいなあ」
「あらぁ」
節子は俯いた。
降りてきた考三郎は考二郎の向かいに座り、
「考二郎兄さんは何やったはるの」
「俺か、親父の運転手さ」
「そうかあ、いいなあ、ずっと父さんと一緒やったんや」
「あのなぁ、お前なあ、そりゃあ父さんといないから、父さんと一緒にいるって聞きゃあな、いいなあと思うだろうよ。だけどなあ
お前、ずっと母さんと一緒だったんだろ?」
「え、まあ」
考二郎は淳一郎と節子の居る部屋の辺りを見上げてから考三郎に、
「親父と一緒に居るのと、お母さんと一緒に居るのとどっちがいか、というと、母さんと一緒に居る方がいいに決まってるよぅ」
「そう、かなあ」
と、考三郎は思った。
考三郎は何を思いついたか、すっくと立ち上がって男襟の女の所へ行って座り、右手はテーブルに、左手は膝の上に置いて、
「あの、お袋が駅で『世話になったんやから挨拶せえ』(と、「あなた」の言葉の代わりに、掌をその女の方を指し)言うてましたよねえ」
「あ、はい」
「前に会いましたやろか」
と考三郎が言うと、その女はいたずらっぽい目付きで向こうを向き、上げている髪を留めたピンを外し、手鏡を出して額に髪を下げ、整え直して向き直った。
「ああっ、あの時の」
考三郎は驚き、矢野はニッコリうなずいた。考三郎は、今、目の前に居る女が矢野とは露気付かなかった。着ている服が違うとはいえ、髪型にすっかり惑わされてしまったのだ。第一、女は額を前髪で覆うか出しているか、それによって丸っ切り別人に変わるのだ。
「矢野さん、言うたはったよねえ」
「はあい、よく覚えて下さって……」
「そしたら、あの、この家におばあちゃんが、居たはったよねえ」
「はい。だから、きょう……」
矢野が、今度は「あなたの、ですよ」と掌を考三郎に向けている。
「ええっ?」
「はい。あのう、きょうの……。聞いてなかったんですか?」
「え、えっ?」
と考三郎は二度びっくり。
まだ、考三郎の頭の周りを星がいくつもグルグル回っている。考三郎は矢野に、
「『私の家に来い』、言わはったよねえ」
「いいえ、そんなこと、言ってません」
「ええっ? あの時、確かに私の家に来いと言うたよぉ。そやから来たんや」
「はい。『来い』じゃなく、『いらっしゃい』と言いました」
「あのねぇ、駄洒落やっとんねやあらへんねんから」
考三郎は急に何かを気付いたような顔をして、
「そやったら、(「あなた」の代わりに掌で指し)俺の姉さん?」
「いーえ!」
と、矢野はきっぱりと否定した。
「そやったら……、駅を出てからと言い、きょうと言い、何で?」
と尋ねた。矢野は考三郎を微笑みながら見つめた。そして、その目を伏せてぱっと見開き(さあ、誰でしょう。当ててごらんなさいと言わぬばかりに)顔をほころばせ、右に左に
傾げ、目を細めていた。
考三郎は自分の知らないことを矢野に訊いている。それは、本来は母、節子がすべてを話してしかるべきだし、聞かさなければいけないことなのだ。これまで、話さなければ、話さなければ、と思いつつ苦しみぬいてきた。
なぜ話さなかったのか。あっさり「どうして、こうして別れたのよ」と言えば済んだのかもしれないし、気が楽になっていたかも知れない。言いそびれたのは、話していないのは、別れたことが身を責めたからか。
考三郎の父が誰であるかは打ち明けた、それも問い詰められてのことだった。打ち明けはしたが、離婚したという言葉はどうしても言えなかった。それは、節子は別れたくなかったのか、別れたことを認めたくなかったのか、ということは、彼を、夫を、今も愛しているのかも知れないし、その訳は節子にも解らない。だからと言ってそれが言わなかった訳にはならない。どんな訳があるにしろ、夫婦が別れ々れになったことで、子供が一番の被害者になったことが申し訳ない、そう思うと胸が締めつけられる。こうしたことが節子の胸の内を一瞬に通りすぎたのだった。
その子供に引っ張られてこういう形になった、その巡り合わせを節子は不思議に思うばかりだった。