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中編

 ちらりと誰も座っていない席を見た。



「あいつはいつも遅刻してくるのか?」

「あいつって、橘さん? まあ遅刻が多いかなぁ。でも誰よりも早く来てる時もあるし、まちまちだよ。一日来ない日も結構あるしね」

「ふうん」



 昨日の夜、俺を家まで送っていった橘紫苑の姿はない。


 山から下りるまで橘は延々楽しそうに話をし続けた。

 先日は土着の河童と余所者の河童との縄張り争いに首を突っ込み、一緒に相撲をとったのだと。双方の河童の一団は、相撲で勝った方一帯の川を支配する、という話だったのだが、仲裁に入ろうとした橘も勝負の景品とされてしまった。しかしそこは橘紫苑。景品などという身分はかなぐり捨てて、選手として参加した。本来ならば、あやかしと人間の力比べなど勝てるはずもないのだが、なんと橘はどちらの河童も平等にちぎっては投げ、ちぎっては投げの快進撃を見せつけ、相撲で優勝してしまったのだという。見事王者となった橘は当初の目的である仲裁役として、殿田川以東をよそから来た河童、以西を土着の河童の縄張りとすることを指示した。



「昼は長くなっているし、陰は少なくなっている。あやかしも減っているのだから、同じ河童同士仲良くするようにって伝えたよ」

「あやかしって?」

「人でも獣でもないもの? 妖怪とかそういう類のことをあやかしって言うの」



 ちょうど河童との相撲大会の話の顛末を聞いたとき、山の麓へと到着した。

 最後まで俺たちは二人は無数の視線にさらされたが、ついぞ奴らが話しかけてくることも襲ってくるようなこともなかった。スニーカーがアスファルトを踏むと同時に、引きはがされるかのように奴らの気配が遠のいた。

 安心感に深く息を吐く。



「さて、行こっか。君の家はどこ?」

「……いや、さすがにここまででいい。ここからは道もわかる。お前を遅くまで付き合わせるわけには、」

「何を言ってるの?」



 橘は猫のような目を丸くさせた。



「君は夜が怖いのよね。ならここから家までの帰り道も安心できるものではないでしょう」

「……そう、だが」



 今更虚勢を張ったところで仕方がないとはいえ、夜道が怖いなどか弱い乙女のようなことを、この一見か弱い乙女に見える橘に言いたくはなかった。



「でしょう。なら送っていく。私は夜が怖くないわ」

「いや、怖い怖くない置いておいて。百歩譲って俺が送ってもらうとしよう。でも帰りはどうする? あんたみたいなのが夜道を歩いてたら犯罪に巻き込まれることだってある」

「大丈夫。夜は私の味方なの」



 いたずらっぽく笑うと早く道案内をしろとせっついた。


 それ以上何も言えず、彼女の隣を歩き出す。

 橘の言葉は夜遊びに慣れた者の戯言や、危機管理意識の低い慢心さの表れではないと感じた。“夜は味方”という言葉には確信と自信があった。



「次は、そうだね……うん、あの山にいるものの話をしましょう!」



 俺に付き合わされているはずなのに、橘は笑顔を絶やさず、明るく話し続けた。

 話せば話すほど、学校での姿とはかけ離れている。

 山の麓で出会ったときの冷たさや、目を覚ました直後の突き放すような態度もない。まるで気安い友人のように、橘は惜しげもなく自身の話をした。


 まるで狐につままれたような数時間だった。

 夜が明けて、いつも通り登校し、昼休みを迎えた今でさえ、あの時間が夢のように感じる。この教室に橘の姿が見えないことも、その印象を強めていた。



「また明日な!」



 玄関先で別れた橘はそう笑い、足取り軽くカンテラを揺らしながら去っていった。

 夜に親い橘のいる世界は、俺が幼い日夢見た非日常のようだった。





「なんかぼうっとしてるね。昨日も眠れなかった?」

「あ、いや、昨日は眠れた方だった」



 むしろ久しぶりに妙な夢も見ることなくぐっすり眠れた。山の中ではあれほど人でない者、あやかしの視線に晒され、精神的負荷がかかったにも関わらず、予想に反して穏やかに眠ることができた。

 昨晩の頼もしいカンテラの明かりが、まだ自分の中に残っているようだった。



「そう? ならいいんだけど夏って色々変化するからね」

「変化?」

「うん。あったものが変質したり、拡散していたものが集ったり、新しいものにであったり、いろいろ。夏は非日常の入り口だからね。誰にとっても」



 誰にとっても、という言葉に含みがあるのはわかった。それは重々承知している。夏と冬は、トラブルに巻き込まれやすいと経験から知っていた。理はわからないが、元来夏と冬は人間にとって厳しい季節だからかもしれない。


 ふと、一瞬教室の話し声が止んだ。既視感のある光景に振り向くと、出入り口に橘紫苑が立っていた。

 いつも通りの鉄面皮。だが彼女と目があった瞬間、彼女の顔が輝いた。



「隣のクラスの君! また会ったね!」



 黒いスクールバックを持ったまま、橘は俺の前まで迷いなく歩いてきた。

 クラス内の静寂はざわめきに変わる。そして俺に視線が集まった。


 音を立てて顔から血の気が引いた。暑さが理由ではない汗が背中を濡らす。

 ここは俺のクラスではない。だがおよそ毎日飽海と昼食を食べていることで、周囲は俺の存在自体は認知していただろう。

 飽海の連れ。

 今日それに新たな情報が追加される。



「そういえば昨日話した河童との話なんだけど、あれには続きがあって、」

「橘さん」



 橘の言葉を、飽海が遮る。硬く、他人行儀な声色だった。橘は初めて俺のほかに人がいることに気が付いたように、乾いた視線を飽海に向けた。



「彼はそういう、不思議な? オカルトとでも言うのかな。そういう類の話が好きじゃなくてね。どうして君が彼に話しかけたのかは知らないけど、僕の友達を困らせるのはやめてほしい」



 のっぺりとした平坦な声。口元は笑っているのに、目がまるで笑っていなかった。



「誰、あんた」

「誰でもいいし、別に覚えなくてもいいよ。君がそういうものが好きなのは一向にかまわない。僕らには視えない何かと話をしようが遊ぼうが、僕らには何も関係ない。でもね、どうか巻き込まないでくれるかい?」

「私は別にあんたと話したいわけじゃない」

「僕もだよ。そして彼も同じ気持ちだ」



 飽海がわらって見せる。

 橘は鼻で笑って、それから俺の顔を見て、踵を返した。

 他のクラスメイトには見向きもせず、来た時同様迷いなく、橘は教室から出て行った。

 昨晩のような足取りの軽さはまるでなかった。



「飽海、」

「善弥、どこで懐かれたかは知らないけど、構わない方が良い。君にとって害はあれど利はない」

「だがあんな」

「言い方がきつかったかな? 善弥が何も言わないから同意してるかと思った」



 飽海は先ほど橘に向けた笑顔と同じ顔を向ける。



「善弥、嫌いだろう? ああいう類の話」

「……っ」



 飽海が何をしたいかは分かった。クラスの中のざわめきに混じって、好奇の眼差しが俺に向けられる。聞き耳を立てられ、横目で見て、噂する。

 口にせずとも、飽海の言いたいことは、わかった。



「あんな子供だましの絵空事」



 昔には戻りたくないだろう?

 俺たち二人だけの秘密。誰にも視えない、聞こえない。理解されない、認められない。



「……ああ、本当に」



 相も変わらず、偽り隠し、マジョリティになりきろうとするしかない、臆病な自分が。



「嫌いだ」





 5限6限ともに、ぼうっとしたまま時間が過ぎていった。熱気を孕んだ風がカーテンを揺らす。校庭からは陸上部の笛の音やサッカー部の声が聞こえた。楽器を持った生徒が教室に入って来て、俺を見てぎょっとするとそそくさと扉を閉めた。どうやら吹奏楽部が練習で使いたいらしい。部活の時間まで残っていたことなどなかったため知らなかった。

 のそのそと重い気分とカバンを背負い帰路に着く。


 散漫な思考はいつものことだ。帰り道、何を視ても、何を聞いても顔色一つ変えてはならない。決して気取られていると思われないように。ふと、自分の態度が学校での橘紫苑のようだと気づいた。

 夜を親しいと宣う彼女にとって、昼は警戒しなければならない時間なのかもしれない。


 昼と夜の間。黄昏が訪れていた。

 この時間も、よくない。逢魔が時。夜の訪れを喜ぶものがあちらこちらから顔を出す。グリーンスリーブスが流れ出す午後5時。まだ夏なだけあって、まだまだ明るいが、それでも早く帰らなければ、と足を速めようとして、見慣れぬものが視界入った。


 グリーンスリーブスを流す時計、風に揺れる錆びかけたブランコ、赤いプラスチックのバケツが置き去りにされた砂場。公園の中に生えた木の上に、うちの女子生徒がいた。

 木の枝にしがみ付き、枝の先へ手を伸ばす。



「こっちへおいで。怖くないよ」



 橘紫苑がそこにいた。

 その木の根元にはスクールバックと薄汚れたスニーカーが置かれていて、どうやら木に登り降りられなくなったものを助けようとしているらしい。

風に枝が揺られ、橘の黒い髪がなぶられる。木に掛けられた足が不安定に揺れ、伸ばされた指先が震える。



「大丈夫、大丈夫だよ、おいで」

「……橘」



 そこでようやく橘はこちらに気づいたようで瞠目した。そして一瞬逡巡したあと、まっすぐ俺を見下ろした。



「隣のクラスの君、ちょっと手伝ってくれない。木の上で動けなくなっている猫を見つけたんだけど、見ての通り、枝の先の方へ逃げてしまったの。私が木を揺らすから、君が下で受け止めてくれない?」

「……猫か」



 枝先へと目を凝らす。確かにそこに猫はいた。気づいてしまった事実に唇を噛む。何も知らない方がきっと幸せだっただろう。俺も、橘も。俺が通り掛からなければ、あるいは昨日俺が声をかけていなければ、今日という日はなんでもない代わり映えしない一日で終わっただろうに。


 意を決して口を開く。



「できない」

「どうして!? あ、私は大丈夫だよ! 揺らした程度で落ちたりはしない!」

「……俺にその猫は触れない」

「……は? 何を言ってるの、君は。いや、アレルギーとか?」

「その猫は生きていない。身体を持たない動物霊に俺は触れない」



 橙色の入道雲を身体に透かす小さな猫は、何もわかっていないように、にゃあと鳴いた。




「ま、待って! 待ってほしい! 生きていないの、この子はっ、いや、そうじゃない! 君はっ」



 目を輝かせた橘が跨っていた木から足を滑らせた。

 あ、と短い声を上げて橘の上半身が大きく傾いで、絡んでいた足がぱっと枝から離れた。想定内だった反応と行動。枝をつかみ損ねた薄い手を掴み、頭から地面に投げ出されかけていた橘の身体を受け止め抱え上げる。


 目を瞬かせる彼女は状況を理解していないようでただ茫然と俺のことを見つめていた。いつまでも抱きかかえているつもりもなく、そっと降ろすと、橘は大人しく両足で地面に着地した。



「あのっ、あの子は生きてないって、君がそういうってことは、君はっ」

「いったん落ち着け」

「君にもあやかしが見えてるってことだよね⁉」



 黒い目を星空のように輝かせ、白い頬を紅潮させる。どうして唾棄したいほどの悍ましい事実を、こんなにも希望と喜びに満ちた表情で言えるのかがわからなかった。



「隣のクラスの君、いや違う、」



 小さな両手は、まるで逃がさないというように俺の手を握った。



「君の名前を教えてくれる?」



 薄暗くなりかけた道を、俺はまた橘と歩いていた。昨晩以上に橘は機嫌がいい。



「ぜんや、善弥か、覚えたよ」



 歌うように橘は繰り返す。見た目に似合わない浮かれっぷりはいっそ小学生にすら見えた。



「良い名前。遍く善、善が広がる。素敵な名前をもらったのね」

「……よくそう恥ずかしいことが言えるな」

「どこに恥じる要素があるの? 生まれて最初にもらう贈り物なのだから」



 橘の言葉を聞きながら、自分の名前にそんな意味があったのかと


初めて知る。ただ今の自分がその名にふさわしいかと言うと、忸怩たる思いに駆られた。



「そういえば私の名前を言ってなかった気がする。私は、」

「橘紫苑だろう。有名だ」

「有名?」



 どうしてそこでそんな言葉をもらうことになるのかわからない、という顔で俺を見上げた。言わなければならない言葉は喉のあたりでつっかえて、音にすることを拒んでいた。ただ何となく、紫苑とはいったいどう意味があって、どんな願いがあって両親はつけたのだろうかと、今不必要な思いが浮かんで、消えた。



「見えないものを視えるっていう、変な奴として」



 今自分がどんな顔をしているのかわからなかった。少なくとも清々しい顔はしていないはずだ。



「……ふうん。そう。まあそうだよね」



 橘は一瞬足を止めたが、すぐに憂いを振り払うように足を動かした。



「みんなには見えてないみたいだし? つまらないよね、彼らは人間しかいない世界しか知らないんだ。数百年生きる聡明なあやかしと関わることもできない。神様に会うことも、自然の本当の姿に触れることもできない。つまらない生活よ」



 それは彼女にとっての事実の羅列なのか、それとも自分を納得させるための負け惜しみなのか、視えるだけでなんの恩恵も受けたことのない俺にはわからなかった。



「でも君は違う。君には見えてる」



 輝く瞳が俺を見つめる。学校で初めて見た時の黒曜石のような目ではない。無数の星を閉じ込めたような、そんな瞳だ。そこには警戒も憂いも何もない。



「君は人と違う、特別なんだ」



 親愛と期待で満ちていた。



「ああ、嬉しい、とても嬉しい。どんな言葉を使えばより正しくこの喜びを表現できるんだろう。どんな言葉でもどんな詩でもきっと足りない。初めてよ、嘘つきじゃない、本当に私と同じものが見える人。私と君は、同じ世界を生きている」



 ぐう、と声にならない音が喉の奥で鳴った。

 俺と橘は違う。

 けれど橘の使った言葉は、視える人と視えない人との世界の隔たりを如実に表していた。俺らと彼らでは、生きている世界が違う。そのとおりだった。

 だが、俺と橘は違う。


 夜が怖い俺は、視えていない世界を生きていたかった。



「橘、」

「なあに?」

「俺は、何も視ていたくはねえ」



 喜びに満ちていた瞳が揺らぐ。



「どうして? 私たちのいる世界は特別よ。他の人間に許されないものを見ることができる。知ることができる」

「俺は夜が怖いって言っただろ」

「大丈夫! 最初は怖いかもしれないけど慣れれば、」

「もうかれこれ17年これなんだよ。お前と同じだけ生きてんだよ」



 何となく感じていた。

 橘にはなんの恐れもない。

 飽海は神社の息子で、あやかしを視ることができる。そしてあやかしたちから嫌われ、避けられている。

 俺は普通の家の息子で、あやかしを視ることができる。そして何かとつかれやすく、被害を受けやすい。

 飽海はそれを体質と環境によるものだと言った。

 そしてこの目の前の橘紫苑は、おそらくあやかしから好かれやすい体質なのだ。

 あやかしたちとコミュニケーションをとることができるうえ、神とさえ接触することができる。どう考えても俺たちとは格が違う。



「お前と生きてる世界と俺の生きてる世界は同じじゃない」

「同じだよ! 大丈夫、私がいる」



 先ほど猫の幽霊に掛けていた言葉とよく似ている。



「一人じゃない!」

「同じ世界じゃないなら、それは一人だ」

「違うっ。いや、違うなら教えて、何が違うのか、何が視えて何が視えないのか。何が聞こえて、何が聞こえないのかっ」



 橘紫苑は、必死だった。

 小さな手が俺のシャツを握る。縋るように、助けを求めるように。

 その言葉はきっとすべて自身のための言葉だったのだろう。彼女自身が、一人だったのだろう。たとえは周囲に親しい夜がいたとしても、自分は一人だと思ってきたのだろう。

 初めて二人になれるかもしれない俺に、最大限の期待と親愛を寄せている。


 俺は臆病者だ。俺は弱く、逃げることしかできない。

 奴らと立場になれる橘と、ただの被食者にしかなれない俺とでは、視えている世界が同じなはずがない。



「俺は、視えない世界で生きていたい。他の人間と同じように、普通に生きていたい。こんて“特別”なんていらねえ……!」



 瞳の中の期待と親愛が砕け散った。孤独だと縋った橘を俺は振り払った。

 だがそれが俺の一番の望みだった。

 どうして好き好んで嘘つきなどと呼ばれたい。どうして説明できない体調不良に悩まされなければいけない。どうして夜道に怯えなければならない。


 この目さえなければ、俺はこんな臆病者にならずに済んだのに。


 歯を食いしばった瞬間、突如としてつむじ風が巻き起こった。

 ただの自然現象ではないことは明らかだった。

 夕暮れ時の伸びた影が揺れる。電柱の作る影が大きく震える。風に乗ってなにかが来ている。気が付けば頬から血が出ていて自嘲する。一方の橘は、風に守られるように棒立ちとなっており、無傷だ。



「ほらみろ」



 影の中で何かが蠢く。熱い風がまとわりつき、敵意のある視線が俺を囲む。

 橘を傷つけられて、奴らは怒っているのか。なんの根拠もなくそう確信した。

 “夜と親しい”とはそういうことだろう。



「もうやめてっ!」



 ガラスを割るような悲鳴だった。

 その声は空間を切り裂き、巻き起こっていたつむじ風は掻き消えた。異様に伸びた影は震えることなく元の位置に戻り、蠢く何かはどこかへ潜っていった。

 静かになった道で橘が肩を揺らして荒い呼吸を繰り返した。

 俺からかける言葉は持たない。原因は俺が突き放したことにあるのだから。



「……聞きなさい、いい? もうこの人には近づかないで。ついていくことも、傷つけることも許さない。……誰もこの人に触れないで」



 一人唾を飲み込んだ。橘の言葉は俺への言葉ではない。すでに鳴りを潜めたあやかしたちへの命令であり、懇願だった。

 あやかしたちは返事をするでも身体を震わせるでもなく、ただ近づいてくる夜に溶けるように姿を消した。



「ごめん」



 そう謝ったのは俺ではなく橘だった。



「ごめん、同類だと思って調子乗った。ごめんなさい」

「……いや、俺もきつい言い方で、」

「もうこの辺にいる奴は君に近づかない。視えてしまうことはあるかもしれないけど、危害を加えることはたぶんない」



 濡れた瞳はとうに輝きを失っていた。



「こういったものが嫌いだと聞いていたのに、近づいて悪かったわ」

「あ……」

『彼はそういう、オカルトとかの類の話が好きじゃなくてね』



 飽海の言葉など聞いてなさそうに見えたのに、覚えていたらしい。

 だが違う。河童の話が聞きたいと言い出したのは俺の方だ。


 あの時俺は、本当に楽しかったのだ。

 自分にはない世界のかけらに触れて、ほら吹きと一蹴された思い出を包むように橘は彼女の特別を語ってみせた。


 俺は俺の生きている世界が嫌いだ。俺を害し、襲ってくるあやかしが嫌いだ。

 だが幼いころは、あやかしたちによって違う世界を視られるのではないのか、新しい関係を築き交流することができるのではないのかと、夢見た。


 橘は、俺が幼少期夢に見た世界に生きていた。

 その夢のかけらに与えられることが、楽しくないはずがないのだ。たとえ自分には手に入れることのできない世界だとしても。



「今日は、ここまで。まだ日は落ちていないし、周囲のものも襲ってくることはないでしょう」

「橘、」

「話しかけて悪かったわね。もう、しない」



 長い足が駆けだした。

 背を押すように風が吹き、その頼りない背中はあっという間に山の方へと消えていった。


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