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峡の劔  作者: 北白川 司空
第五章 悪党の頭領
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悪党の頭領(1)

 陽が夕凪ぎの瀬戸内海に傾斜し、情景が茜色を帯び始める。

―日が沈んだ向こう側に西方浄土があるというならば、さぞ美しいことだろう。

 清太は、瀬戸内の多島海に沈んでいく韓紅の夕陽を天王寺砦から眺望して、阿波剣山の山頂から眺望する、焼けるような紅い夕空とは全く別趣の、儚さを含蓄した佳景に心を奪われた。この日も精神を透明にして凝然と美しい夕陽を眺めていると、清太の視界の隅を見覚えのある旅装束の武士が横切った。

―よしのを拐かそうとした悪党の頭領。

 その頭領が松永陣屋の門前に立ったあと、門番の案内で陣屋に入っていく。

 清太は門番に歩み寄り、掌に幾ばくかの銭を握らせて、武士の素性を尋ねる。門番は下卑た愛想笑いを浮かべ、銭を素早く懐に入れながら答える。

「わしも初めて会った武士じゃ。「久秀に兵法者の籐佐が茶を飲みに来たと伝えよ。」と言うておった。」

 久秀は織田氏の武将であるとともに、著名な茶人、数寄者である。

―怪しい。

 清太は直感する。

 幼少期から、時々刻々と転変する峡の厳しい自然の中で、清太は祖父や父から、

―逡巡は命を危機に曝す。そうならぬため、自らの直感を磨き、そして、その直感を信じて行動せよ。

と、繰り返し教授されてきた。清太は修業を通じて自身の直感を研磨し、さらに、実践を積み重ねて、様々な事象に躊躇なく、直感に従って行動できる心胆を練り上げてきた。

「少し探ってくる。」

 清太は隣にいる伝輔に言い残して駆け出し、夕闇に溶融し始めた松永陣屋の外側にある灌木の影に同化し、直後、軽々と(さい)(さく)を飛び越え、陣屋内に散在する小さな闇を素早く選び、残照を頼りに兵糧を使う雑兵を避けながら、陣屋の内部へと侵入し、一棟の建物の床下に滑り込む。床板の隙間から灯火の薄光だけが射し込む暗闇を、清太は気配を押し殺して匍匐で進む。耳を澄ませば廊下が軋む不規則な音に混じって、複数の会話が耳朶に流れ込む。清太はそれらの会話の断片から余人に気付かれることを恐れる密談を探り当て、慎重に接近する。

 清太は峡における鳥獣との接触を通じて習得した動物的な感覚で、人間を含めた動物が他者との接触を警戒するために備えている無色透明な結界を触覚できる。

 清太が幽かに漏れる会話との距離を計る。相手に自分の存在を気付かれないために確保すべき距離は、相手の他者に対する感度によって決まる相対的な尺度であり、相手の神経の鋭敏度によって変化する。清太は、匍匐で漸進する拳の先端に、軽い刺激を感じる。他者が持つ警戒の結界に触れたときの感覚である。

―あの頭領は腕が立つだけに容易には近付けぬ。

 常人ならば、太刀の定寸程度で他者の侵入を感知するが、修練を積んだ兵法者や忍びは常人に比べて他者の侵入に対する感度が格段に高い。

 清太は俯せのまま静止し、ひんやりと湿分を含んだ地面に頬を載せ、呼吸を最小限に抑制して、気配を消す。まだ遠くにあるその部屋から風炉の松籟に混じって、微かに漏れる二つの囁きが断続的に清太の鼓膜を微弱に震動させる。

「謙信は、流浪の足利義昭を憐れみ、天下に正義を示すため、いずれは逆賊信長征伐と室町幕府再興を旗印にして、上洛するかもしれぬ。しかし、越後から京までは謙信の宿敵一向一揆の勢力が根強い能登や加賀、さらに、織田支配下の越前、近江が控えている。特に、門徒衆が上洛する謙信を、指を加えて見過ごすとは思えぬ。また、謙信が上洛の途に付けば、その留守を狙って北条が性懲りもなく、謙信に味方する北関東の諸将を攻略する。謙信は、これもまた正義という名のもとに、関東の諸将を救援するために馬首を東に向ける。それがいつもの筋書だ。」

 初老を想像させる擦れた声には苛立ちが滲む。

―老人は久秀か。

 清太の予想では、もう一人が悪党の頭領「藤佐」となる。

 久秀の感情を無視して、もう一人が静かに茶を啜る。

「本願寺顕如が能登・加賀の門徒衆に謙信への協力を働きかけておる。能登では織田方に就いた畠山氏の重臣長続連らが七尾城を拠点に抵抗しているらしいが、軍神謙信の敵ではない。北条に関するお主の懸念は分からぬでもないが、北条には謙信の留守を突かぬよう、公方から手を回す。」

 久秀が苦笑とも咳払いともつかない小さな音を発する。

「北陸の諸将も、北条も、わしと同様、利で動く。お主とてそんな奴らに微塵の信も置いてはおるまい。謙信とて正義を振りかざしてはいるが、奴の行動も煮詰めていけば、自らの正義を顕示したいという欲心よ。」

 久秀が吐き捨てるような口調で反駁する。

「わしとて人間の欲深さは知っておる。利があってこそ人は動くもの。故に、公方様も諸将に相応の恩賞を示している。霜台殿は大和一国切り取り次第じゃ。」

 藤佐は久秀の官職「弾正」を漢名「霜台」と呼び、重みを加えようとする。

―落魄したとはいえ、前将軍からの恩賞を悪党の頭領ごときが示すのか。

 清太は訝しみながら、自分の直感に狂いがなかったことを確信する。

「皆が虎視眈々と隣人の隙を狙っているこの乱世に、そんな空手形を信じるお人好しはおらぬわ。」

 頑な態度を崩さない久秀に対して、藤佐は、再度、義昭を中心とした反織田勢力の利を解くが、久秀を翻意させる材料にはならない。

「今日はこのくらいにしておこう。とはいえ、謙信はじきに七尾城を落とし、さらに、北陸の織田軍を撃破して上洛する。その時になって、「お味方に馳せ参じました。」では、遅きに失するぞ。」

 別れ際の挨拶にしては辛辣な藤佐の台詞に久秀が語気を強める。

「お主に言われずとも、そのようなことは百も承知じゃ。」

 久秀が急に声を潜めて、

「まだ機が熟しておらぬ…。」

と、独り言のように呟く。

 藤佐が立ち上がる。

「馳走になった。また、よい知らせがあれば、喫茶に参る。」

 久秀は無言のまま藤佐を見送る。

 清太は、退出する藤佐が作り出す空気の乱れに紛れて、俯せのまま静かに後退し、床下から這い出て、松永陣屋を退去する。そして、小屋に戻り、久秀と藤佐の会話を弥蔵と伝輔に報告し、早速、伝輔を重治のもとに走らせた。

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