第一章第八話
「……ここって……!」愛実は目前に構える建物を見て、目を見開いていた。
そこは、国内でも知名度の高いテクノロジィ企業、ジェリィ・フィッシュ株式会社の本社だった。ジェリィ・フィッシュは検索エンジンの運営を始めとしたインターネット関連の事業を行うとともに、ゲーム・玩具・IT家電の生産なども行なっている。
「そう、協力者の一人は、ジェリィ・フィッシュで働いているエンジニアだよ。」進次は言った。
進次の案内で、愛実たちは社内へと入っていく。社内カフェのようなところで話をするのかと思っていたが、愛実の予想は外れ、研究室のある方向へと、進次は向かっていく。
「その人は、なんていう名前なの?」
「海月翔騎。」
「クラゲ?え、確か、ジェリィ・フィッシュって……。」
「多分、想像している通りだと思うよ。このジェリィ・フィッシュ社の創設者は海月鋼猩。翔騎の叔父に当たる人物だ。ジェリィ・フィッシュの由来は、苗字のクラゲの英語だよ。」
「やっぱり。じゃあ、その海月翔騎って人が、今後のジェリィ・フィッシュの後継者?」
「いや、確か、鋼猩の息子がいてたはず。彼が次の社長になると思うよ。……まあ、だから、翔騎は結構好き勝手できるんだろうね。」
「好き勝手?」
「ああ。僕んトコの事務所の協力者になってくれたりね。まあ、元から親友だったけど。」
「へえ……。」
「ほら、着いたよ。」左手に見えたドアを、進次は開けた。愛実は、壁に『ショウキ・クラゲ』というネイムプレイトを見て取った。
「それが、例のウェブカメラね。」
翔騎が言った。海月翔騎という人物は、進次が言ったような『好き勝手』しそうな人柄だった。思いついたことならば、なんでもやりそうなタイプ。そんな印象。
「あ、これ、うちの製品じゃん。こりゃ、ボクの責任重大だね。」
「なんか、見当はつくのか?」愛実は翔騎に声をかけた。
「えっと、君は?
「いくつかは。まだ、あらゆる可能性が考えられるから、一つだけに絞るのは難しいけど。」
「一番可能性として高いものは?」
「開発時のミス。なんども重ねられる精巧途中に生じるバグ、かな。」
「なるほど。事故ってこと?」
「ああ。あとはコンピュータ・ヴァイラスかな。製品にある脆弱性を突かれた可能性がある。まあ、バグでも脆弱性でも、テスト段階で気付かなかったボクの責任はあるけどね。」
「じゃあ、翔騎、頼んでいいか?」
「うん、任せて。」
「いつも悪いな。なにか分かったらまた連絡してくれ。」
進次たちは退出し、社内を歩き出した。「近くに美味しいラーメン屋があるから行こうか。」進次の誘いに愛実と芽亜里は賛成した。
「とまあ、だいたい分かってくれたと思うけど、」進次はラーメン屋のテイブルで塩ラーメンを待つときに、話を切り出した。「この探偵事務所は実質便利屋みたいなもので、依頼者の相談を解決するのに最も適している人物を、この事務所の協力者の中から提供してあげるのが大半かな。」
「へえ。協力者は何人いるの?」
「ざっと二十人くらいはいるかなあ。翔騎みたいにこっちから仕事を提供してあげる人もいれば、この探偵事務所の働きを知って、定期的に資金を援助してくれる人もいる。いろんな人がいるよ。あの昌克だって、協力者の一人だよ。」
「あ、そうなんだ。」
「まあ、依頼の大半は協力者に動いてもらうものばかりだけど、それ以外の、つまり、僕たちが直接動く依頼もあるんだ。例えば、浮気調査とか、殺人事件の調査などね。」
「それこそ探偵だね。でも、殺人事件の調査なんて、簡単にやっていいの?」
「この市内であれば、昌克の協力で調査できるよ。あいつは、警視庁のお偉いさんの息子だからね。実は色々できちゃうんだ。服務規程違反にならないようにある程度の自制はしているようだけど。」
「ふうん……。」
「アイミには、その調査関係の記録をやってもらいたいんだけど、どう?興味持ってくれた?」
そこで、愛実は、今日は事務所との契約を結びに来ていたことを思い出した。
「ええ、もちろん。」
「じゃあ、帰ったら契約書にサインしてもらうね。これから、よろしく。」進次は左手をテーブルの上に差し出した。
「ええ、こちらこそ。」愛実は進次に合わせて手を出し、握手した。
それを見た進次の隣の芽亜里も笑顔で手を出したので、愛実は彼女とも握手。
こうして、愛実は、和田探偵事務所のもとで働くこととなった。それが、普段は退屈極まりなく、たまに波乱万丈な、探偵生活の幕開けとなったのだ。
その日は暗い雨の降る日だった。愛実が朝早く探偵事務所に着いたときには、小雨程度のものだったが、時間が経つにつれてだんだん激しさを増していった。窓に打ち付ける雨の音がとても鬱陶しい。
執筆の手を止め、窓の外を眺めていると、扉がノックされた。
「アイミ、これからコーフィ入れるんだけど、アイミもいる?」芽亜里だった。
「ちょうど退屈してたところだから、お願いするよ。」愛実はそう言って伸びをした。
愛実は部屋を出、事務所のソファに座った。その目前に芽亜里がコーフィカップを置く。愛実は結局、探偵事務所の奥の書斎として使われている部屋を借りて執筆することにしたのだ。ここにある本も自由に読んでいいということなので、資料として使わせてもらっている。
「やっぱり依頼人来ないね。」一口飲んでから、愛実は言った。
「そうね。やっぱり、一日に一人いるかいないかくらいかな。」
「そんなに少ないのか……。」
「まあね。」芽亜里はコーフィを一口飲んだ。「ところで、執筆の方はどう?あ、話せないなら別にいいけど。」
「いや、大丈夫だよ。締め切りには大抵間に合ってるから。この業界に入って一番衝撃だったことは、締め切りには遅れるのが普通ってことかな。まあ、あたしは今のところ、締め切りに遅れたのは一個か二個くらいだけどね。」
「へえ……。」
「にしても、すごいねあの書物の数。」この探偵事務所には、進次や芽亜里が所有している大量の本が本棚に並べられている。その中でも二人が気に入っているものは事務所の机の近くに並べられているが、そのほかのものは全部、愛実が使わせてもらっていた書斎に仕舞われている。「正直、執筆なんかせずにそのまま読み耽っていたいほどだよ。」
「私も進次も、幼いときから推理小説が好きだったから、その手の本はかなり置いてあるからね。アイミの本も置いてあるよ。」
「え、マジで。うわあ……、それは嬉しいなあ。」
そこで、ある疑問が愛実の頭の中を過ぎった。「そういえば、二人って付き合ってるの?高校でもなんかよく一緒にいたイメージなんだけど。」
「そうね……。初めて恋愛感情が芽生えたのが、いつなのかさえもわからないくらいに、いっしょにいたからね……。今は結婚してるよ。」
「え、結婚してるの?」愛実は驚いた。「え、でも、姓は違……あれ?メアリィって今は和田姓に変わってるの?」
「ううん。今も漏田姓よ。進次の方が苗字変えたのよ。」
「へえ……、じゃあ、和田ってのは、仕事だけで使ってるパターン?」
「そういうことね。」
「でも、漏田進次って……。惜しいことしたなあ……。せっかく和田進一と一字違いなのに。」愛実は名残惜しそうにため息をついた。