第一章第七話
契約書やこの事務所の詳しい話は翌日話すということになり、今日のところは一旦ここまでということになった。愛実も、拓海と相談しなければならないので、それに従った。
愛実が立ち上がったとき、事務所のドアがノックされた。芽亜里が対応に出る。
「じゃあ、あたしはこの辺で」
「いや、アイミにもいてもらった方がいいかもしれない。」
「え、どうして?」
愛実が振り返ると、来訪者の姿が見えた。同時に、それが誰なのかも分かった。
「どうして、真がいるんだ?」
「彼女も団員だからだよ。この前言っただろう?」
「あの話、本当だったのか?」
「ああ。」
「そう。それで、相談があってきたんだが……。」
「この前の事件のことだろう?なんか、わかった?」
「ああ。和田の推理通り、殺人の線で一応捜査してるよ。身体にベランダの手すりに寝かされた痕が残ってたからな。」
「そう……、犯人については?」
「一応、和田の助言でだいぶ絞れたよ。まあ、今日は、その件で来たわけじゃなくて、院長室の机の上のパソコンについてだ。」
「あのパソコンか。なにか出てきたのか?」
「基本的には目立ったものはなかったが、ひとつだけ気になることが。」
「なんだ?」
「実は、ディープウェブにアクセスしていた痕跡があるみたいなんだ。」
「ディープウェブ……まあ、そりゃ、アクセスはするだろ?院長クラスになれば。」
「ああ。もちろん、普通のディープウェブなら問題はないよ。パソコンの復元をしていた捜査員の話によると、ディープウェブの中でも、犯罪に用いられるダークウェブに最近アクセスしていたようなんだ。」
「ダークウェブか……。」
「ああ。今、IDとパスワードの解析を行なっている。何か出てきたら、また知らせるよ。」
「そうか。」
ディープウェブとは、ワールド・ワイド・ウェブ上にある、通常の検索エンジンでは調べることができないページのことだ。パスワードが設定されているなど、情報収集を拒んだサイトであれば、クローラと呼ばれる検索エンジンの巡回プログラムに巡回されないため、検索エンジンでは出てこないのだ。
ダークウェブは、ディープウェブの中でも、アクセスするために特定のソフトウェア・設定・認証が必要なページのこと。大部分が無害ではあるが、犯罪目的のサイトも少なくないので、しばしば、「ネット犯罪の温床」などと呼ばれる。
「ダークウェブにアクセスしたのは、犯人なのか院長なのか。はたまた、何のためにダークウェブを利用したのか。」進次が独り言のように呟く。
「まだまだ、調べないといけないことがあるね、五十嵐刑事。活躍を期待してるよ。」
愛実が帰るとき、進次が言った。契約の件について、夫と相談して来るという話をしたあとだった。
「僕は、榊原真実の真実主義が、この探偵事務所をもっと理想的な形にしてくれると信じてる。いい返事を待っているよ。」
翌日、愛実は、和田探偵事務所について、進次から説明を受けていた。拓海から、許可が下りたのだ。
「この探偵事務所ができたのは五年前。ある事件がきっかけだ。まあ、その話はまたいつかするとして、設立当初から、この探偵事務所は、無料で相談・依頼にのることが原則としている。それは、この事務所が会社ではなく、ヴォランティア団体だからだ。」
「ヴォランティア?」
「ああ。市にもヴォランティア団体、NPO団体として登録してあるよ。まあ、最近になってきたら、ヴォランティアであることをいいことに便利屋扱いする輩も出てきているけどね。」
「ヴォランティアか……いい心がけだと思うけど、経営はどうやって成り立ってるの?ノンプロフィットだとしても、どこからも収入が得られないのなら、大損害で大きな負担になると思うけど。」
「その点も大丈夫。ずっと前に亡くなった両親の遺産が残ってて、その使い道に悩んでたから、この事務所のために使わせてもらっているよ。それに、僕の給料からも差し引いてるから。ありがたいことに、この事務所の常連さんから、いくらか援助をしてくれてるしね。」
「へえ……、」
「じゃあ、次。この探偵事務所の最大の特徴かな。それは、協力者の存在だよ。」
「ああ……、前に芽亜里が言ってたな。企業秘密だとかなんだとかって。」
しかし、その答えは返って来なかった。
愛実の質問に対し、進次が答えようとしたが、軽快なノイズが入り、それは塞がれた。
「おっと、だれか来たみたいだ。」そのとき、事務所のドアが叩かれたのだ。「ちょっとごめんね。はーい、どうぞ。」
ドアから入って来たのは、どこにでもいそうなおばちゃんだった。
「どうぞ今古川さん。お入りください。」
「いいえ、どうも。いつもお邪魔しちゃって、悪いわねえ。」
「いえ、いつでも来てくださって構いませんよ。それで、今日はどんなご用で?」
「実はね、前に空き巣に入られたって相談に来たでしょ?」
「ええ。それで、最終的には息子さんが防犯カメラを設置するって言って決定してましたね。」
「そうなの。それでね、春喜がネットショッピングで買ってきたのが、なんでしたっけ?なんかスマフォで遠くにいてもみられるってやつ……。」
「ええっと……、もしかして、ウェブカメラですか?」
「そうそう、それそれ!それが最近、勝手に動いているみたいなの。もう、ホント、気持ち悪くて気持ち悪くて……。」
「『勝手に動いている』とは、具体的にどういうふうなのですか?」
「玄関の棚の上に置いてるんだけどね、いつも必ず玄関の方を向いて置いているのに、気がついたらいつのまにか家の内側を向いてるのよ。」
たしかに、それは気味が悪い。愛実は思った。
「なるほど。わかりました。専門家に見てもらいましょう。現物は持ってますか?」
「ええ。ここに。」
今古川さんは持っていた大きなカバンの中からウェブカメラを取り出した。ちょうど小型の扇風機くらいの大きさだろうか?卵型のマシーンで、カメラの部分が一ツ目のように見えてくる。
「じゃあ、こちらの方で調べてみますので、しばらく預からせてもらいますね。」
「ええ。お願いします。」
今古川さんは頭を下げたあと、再度「お願いしますね。」と言って事務所を出て行った。
机の上に置かれたウェブカメラを愛実と芽亜里、そして進次で取り囲む。
「あの人は、今古川冬子さん。一度、彼女の財布を摺られたときに、偶然居合わせて取り返したことがあってね、それ以来頻繁に事務所を訪れる常連さんの一人だよ。」進次が言った。「話を中断させてゴメンね。」
「それは別にいいんだけど、どうやってこのウェブカメラを調べるの?」
「それが、さっきまで話していた協力者の話に戻るんだけど、この事務所には今みたいに、非常に専門的な知識を要する依頼を受けたりするんだよ。そんなときに、僕たちが頼るのが、協力者だよ。今のところ十人いる。いつか全員を紹介するよ。その中の一人はコンピュータのソフトウェアのテスト担当の一人なんだよ。その人に今から会いに行こうと思う。」
「へえ……、それは、あたしも一緒に?」
「ああ。是非。」