第一章第五話
進次の話によると、東野院長は心臓に持病があり、ペイスメイカを使用しているのだそうだ。最近の折りたたみ式携帯電話やスマフォでこそ、影響はないとされているが、一昔前は携帯の電波がペイスメイカに悪影響を及ぼすと信じられていた。もちろん、院長は携帯は無害であることを知ってはいるのだが、やはり、植えつけられた先入観は取り外せず、携帯が身の回りにあることを嫌っていたのだ。
「理屈では危険ではないと分かっていても、身体が拒否してしまうことって、あるよね。先端恐怖症とか高所恐怖癖とかもそうだね。それと同じ状況だよ。」と進次。
「なるほど。」愛実は納得した。「そのペイスメイカのために、携帯を毛嫌いしていた院長が、胸ポケットにスマフォなんかを入れているはずがないってわけね。誰かが勝手に入れたはず、つまり、他人の故意が入っているということ。」
「そうだね。そして、胸ポケット、つまり心臓のある左胸にかなり接近した位置にスマフォがあるんだから、そのことが院長に知れたら、院長はどんな反応を示すだろうね、昌克?」
「……そりゃあ、パニックを引き起こすんじゃないか?」
「正解。じゃあ、パニックに陥った人間が、その場にとどまって何もしないでいられるかい、芽亜里?」
「逃げ惑うにしても、オロオロするにしても、何かしらのアクションを起こすわ。」
「そう、身近なところにその原因があればなおさらね。」進次は微笑んだ。
そのとき、愛実の脳内で閃くものがあった。
「……もしかして、手すりの上に寝かせたんじゃ……?」
「え、手すり?」芽亜里が疑問を口にした。
愛実が進次の方を見やると、進次はその口角を上げて笑っていた。愛実が考えている推理が彼のものと一致しているのを物語っているようだった。
愛実は頭の中の考察を言葉に変換していった。まるで小説を書くときのように。「……不安定な手すりの上に、生きている人間を寝かしたとしたら、その人物はバランスを崩せば一瞬にして手すりの上から落ちるでしょう?」
「……確かに」
「その手すりがベランダの手すりで、その上に横たわっていたなら?」
「……地上へ落下するか、ベランダ内部の方へ転倒するか。」
「でも、その手すりの内側に鉢が吊るされていたのなら、内部の方へは転がっていかない。つまり、空中へ放り出されることになる。……今回の場合もそうだったんじゃない?」
「だけど、仮にそうしたところで、どんなメリットがあるんだい?わざわざそんな手間取るようなことをする必要があるのか?」昌克が反論してきた。
「メリットは……遠隔殺人ができることかな?」
「遠隔か……。」
「今回、被害者の被害者の身体にかなり密着したところにスマフォが入れられていた。それが鳴れば、――着信だけでなく、目覚まし機能でも――自然と起きる。被害者はペイスメイカで携帯を毛嫌いしていたのなら、驚いてパニックを起こす。そしたら、ベランダの手すりの上なんかに寝かされているんだから、そこからバランスを崩して一気に地上へ落下してしまうってなわけ。」
「スマフォを鳴らす、着信や目覚ましの時間を調整すれば、」進次が推理を繋げた。「現場が密室になっている時間帯で被害者を殺害できるし、疑われてもアリバイを作ることができる。」
「確かにそうだけど、実際は被害者が部屋に入ってから誰も入ってないし、出てないんだぞ。どうやって被害者を手すりに寝かせられるんだ?」
「ああ。部屋は指紋認証でしか入ることができない。そして、入ったとしても記録が残る。ところで、入室時の記録は指紋認証時の記録だろうけど、退室時の記録はどうなっていたんだ?中からは自由に出ることができるんだろう?」
「あ、え?どうだったっけ?」
「……ちゃんと調べとけよな。室内側のノブが回されたときの記録だよ。だから、誰が出たのかは記録されない。それどころか、何人同時に出たのかさえも記録されないんだ。」
「へ、へえ……。それがどうなるんだ……?」
「つまり、いくらでも誤魔化せるってわけ。例えば、院長と一緒に入り、扉になにかを挟んでを少し開けておいた……とか。」
「あ、なるほど。そして犯行後、その隙間からドアを開けるから、ドアノブを回して記録が残るようなことはないってわけか。」愛実は納得した。
「ついでに言うなら、院長と一緒に入らなくても、院長の指紋を偽造することもできる。」
「し、指紋を偽造!?」その場の全員が驚いた。
「ああ。この前に放送協会がドキュメンタリィを組んでいたのを観たんだけど、今の時代こんなことまでできちゃうんだね。」
進次は、スマフォで保存していたサイトを引っ張り出してきて、芽亜里たちに見せた。
『映りすぎ社会』という題名で書かれたその記事は、その番組の内容をまとめたもののようだ。スマフォの画像高度化により、指先に映る指紋までカメラが捉えてしまうというもの。それにより盗まれた指紋が、簡単な技術で再現され、スマフォやパソコンなどの指紋認証を突破してしまう事例が発生していることを伝えていた。
「ここに書かれていることを信じるなら、院長の指紋を盗むことができ、あの扉を通過できてしまう。それだと、簡単に犯行に及べるね。」
「それだと、院長が中にいる状態で院長が入ってくるんだから、何かしらの不自由が起きないのか?」愛実が疑問をぶつけた。
「いや、さっきも言った通り、中から外への出入りに誰が通るのかを記録しないから、院長が外へ出たのか出てないのかを機械が判断していないんだ。だから、問題ない。」
「でもさっき、院長が中にいる状態でないと入れない人たちがいるって話だったけど、それはどうやって判断しているんだ?」
「ああ、それは部屋のライトだよ。」
「ライト?」
「ああ。ライトが鍵となっていて、部屋の電気が点いていないと院長、秘書、院長代理の三人しか入れなくて、電気が点いていれば、三人以外の指紋認証登録者も入れるって寸法。だから、院長が中にいても院長の指紋で中に入れるんだ。」
「ああ、なるほどな。」
「そうだとすると、」昌克が額に皺を寄せて言う。「容疑者を絞るのが大変そうだな……。」
「いや、六階以上にいた人物だけだよ。」
「え?何でだ?」
「この病院は五階までは自由に出入りできるが、六階以上は専用のエレヴェイタになる必要がある。階段も六階以上と五階以下で分裂してるんだ。だから、八階の院長室に行くには階段とエレヴェイタのいづれの手段を取るにしても必ず専用のエレヴェイタに乗る必要があるんだ。その防犯カメラの映像から、容疑者を絞り込める。しかも、六階と七階には防犯カメラがいくつかあるから、それでアリバイ確認すればいい。院長が最後に部屋に入ったそのタイミングの……ね。」