第一章第三話
とても長い時間が過ぎた。その間にも、警察の到着を知らせるサイレンが聞こえたり、階下からの野次馬の声が騒がしくなったりと、騒ぎがすぐそばで起きているのを肌で感じるのだが、治りかけといえど未だに痛む足では、調査・取材が出来ず、もどかしい思いしかなかった。
「亡くなったのが、ここの院長ってことで、かなり大騒ぎになってるわ。」帰ってきた芽亜里がくたびれた様子で言った。
「事故?それとも自殺?」
「さあ……、それは分からないわ。落ちたのは、院長室かららしいわ。」
そのとき、病室のドアがノックされた。
そこから白衣の小柄な男性と、背広を着た眼鏡の男性が入ってきた。愛実にはどちらも、見覚えがあった。
「あ、進次、仕事終わったの?」芽亜里が訊いた。
「いや、ついさっき新しく仕事が入った。」白衣の男性が答えた。
そのやりとりを見て、愛実はその白衣の男性の正体に気付いた。
「お前、まさか、ワト――和田進次!?」
「ワトスンでいいよ、真アイミさん。久しぶり。」
和田進次。彼もまた、愛実の高校時代の知り合いの一人だ。和田進一――シャーロック・ホームズ・シリーズに登場するジョン・H・ワトスンの和名――と一字違いなので、愛実は彼のことをワトスンと呼び、それが周囲にも定着していた。
そして、進次を認識したことで、もう一人の背広の男性の方も、容姿と名前が一致した。
「っで、こっちは五十嵐昌克ね。」
高校時代、和田と大抵ともに行動していた人物だ。よくだれかと喧嘩していたことを覚えている。
「ワトスンって、医師だったの?」愛実は訊いた。
「そうだよ。この吾妻市民病院で働いてる。」
「へえ……。もしかして、こんなときに、あたしのお見舞い?」
「いや、それは二日後の退院のときにしようかと思ってたよ。今回は別用」と進次。
「用があるのは俺の方だよ。」昌克が胸ポケットから警察手帳を取り出し、提示した。
「あ、五十嵐って刑事だったんだ。それで、ここにきたんだね、事件発生時のことを訊ねるために。」
「それなら、話が早い。聞かせてくれるか。」
愛実はなるべく丁寧に、叫び声が聞こえた頃から看護師を呼んだところまでを、話した。
「なんで五、六階上から落下したと思ったんだい?」
「ほとんど感覚的に計算したんだけど。説明すると、声が聞こえてからここを通過するまでに約二秒ほどだった。自由落下の場合、時間と落下距離の公式はx=1/2・at²。xは落下距離,aはこの場合重力加速度で、約9.8|m/sec²,tは落下時間、2秒。公式に代入すると、有効数字を考えなければ、x=19.6m。ビル一階の高さはだいたい3.5m〜4.0mだから、だいたい、五、六階分ってなわけ。」
「あ、なるほど。じゃあ、そこに看護師を行かせたのは、なぜ?」
「あのときは、殺人の可能性もあると思って、犯人を逃がさないためと、現場保存のために、誰かいた方がいいと思って……。あたしは、この通り、だいぶ動けるようにはなったけど、まだ走ることはできないので、代わりにと思ってね。」
「そうですか。」
そこで、進次が口を挟んだ。
「なあ、昌克。院長室はどんな感じになってるんだ?」
「部外者には教えられないに決まってるだろ。」昌克は愛実を横目に見て言った。
「じゃあ、彼女も団員だとして、話してはくれないか?」
愛実は、進次の言っていることがよくわからなかった。
「どういうこと?団員って?」
「和田探偵事務所の探偵団の一人ってわけだよ。」
「和田探偵事務所?」
「ああ。僕と芽亜里が経営している事務所さ。彼女から聞かなかった?」
そこで、芽亜里は合点が言った。芽亜里が話していた探偵事務所の所長とは、進次のことだったのだ。
「ワトスンが探偵って、なんか面白いわね。」
「まったく。」昌克がため息をついてから言った。「毎度毎度、危ない橋を渡らされてるのは俺だよ。一歩間違えれば、服務規程違反なんだからな。」
「いや、すでに服務規程違反だろ。」
「うるさい。とにかく、ここでの話は他言無用な。真もいいな。」
「ええ。もちろん。」
愛実にとって、真と呼ばれたのは本当に久しぶりのことだった。