第一章第二話
愛実の担当の先生は小室泰三といった。四十代後半くらいの歳で、非常に頼り甲斐のある人物だった。
泰三によると、愛実の左足が打撲しているだけで、一週間ほどで退院できるとのこと。
「(小室泰三って、小室泰六と一字違いだなあ)」
愛実はそんなことを思いながら、話を半分くらい聴き流し、次の小説の構想を練っていた。
愛実は、「榊原真実」というペンネイムで推理作家として活動している。推理小説自体は、彼女が中学のときから、よく書いていたのだが、作家を目指し始めたのは大学に行ってからだった。そして、大学に行ってる最中にネット上のミステリィ賞に見事受賞、デヴュ。叙述トリックを必ず使うことで、有名となる一方、作者自身の主義である真実主義も小説内に組み込んでいくことで、だんだんと世に知られていく。
「榊原真実」という名の由来はごく単純だ。「榊原」はミステリィでよく登場する苗字である。「真実」はそのままの意味である「トゥルース」と本名“真”愛“実”を掛けたダブルミーニングだ。
事故当時、愛実は樫谷姓になる前に作成したクレディットカードくらいしか、身元を証明するものを持っていなかったので、病院の人たちは愛実を真愛実として認識していた。また、事故時に持っていたスマフォが大破したので、愛実から知り合いに連絡することができなかった。
そして、しばらくしてから、芽亜里からの連絡を受けた拓海が、見舞いに来た。やはり、先の理由から、病院側も彼には連絡がとれていなかったようだ。
愛実は拓海に容態を伝え、大丈夫だと安心させた。そして、パソコンを自宅から持ってくるように頼んだ。無論、仕事をするためだ。腕が怪我をしなかったのは不幸中の幸いだった。
「(そういや、和田進一と一字違いのやつもいたなあ……。)」愛実が和田進次のことを思い出したのはこのときだった。
その後、漏田芽亜里が再度病室を訪れた。今度は仕事抜きで純粋に見舞いに来たらしい。
愛実は推理作家なので、芽亜里の探偵という職業に非常に関心を抱かないことはなかった。愛実は、目の前に存在する探偵にその仕事を訊ねた。
「私は、正確にいうと探偵じゃないわ。接客と事務的作業をしてるだけ。」
「へえ……、じゃあ、調査とかはどうしてるわけ?」
「所長が大方その任務についてるわ。でも、私も一応簡単な調査はするわ。」
「その探偵事務所って、何人くらいいるの?」
「正式には二人だけ。」
「え!二人だけ!?」
「ええ。その代わり、協力者が沢山いるの。」
「へえ……、協力者ね……。例えば、どんな?」
芽亜里は少し考えたあと、
「それ以上は企業秘密かな……。」と人差し指を口に当てて言った。
「あっそう……。」
場が気不味くなり、次に紡ぐ言葉を両者とも失ってしまった。
そのとき、上階の方から大きな声が響いてきた。男性の叫び声だ。
二人は驚いて窓の外を見る。男の声がドップラシフトにより、だんだん高くなる。
そして、そのシルエットが二人のいる窓の目の前を通過した。
「な!」
驚き声をあげたのは、二人のうちのどっちだっただろうか。
数秒もしない間に、肉体の潰れる音が下方から重く聞こえてきた。
「アイミ!救急車をお願い!」芽亜里は叫び、すぐさま部屋を飛び出した。
愛実はスマホが壊れていたことを思い出し、一瞬どうやって救急車を呼ぼうか悩んだが、ここが病室だということを思い出し、ナースコールを押した。
事態に気づいていない看護師がしばらくしたら入ってきた。愛実は非常に手短に説明し、指示をだした。
「この高さから落ちたらひとまず助からないので、だれかに警察を呼んでもらってください。外はあまり風がないことと、叫び声が聞こえてからここを通過するまでの時間から考えて、ここより五、六階ほど上の真上の部屋と思われるので、あなたはそこに行って、様子を見に行ってください。それと、警察の人以外だれも通さないようにしてください。」
「は、はい。ですけど、ここより五階上は院長室があるだけなんですが……。」
「じゃあ、院長室の様子を見に行ってください。」
「わ、わかりました。」
愛実は疲れから溜息を漏らした。そして、その左足の怪我を呪った。