第二章第四話
九年前の四月。進次は正式に吾妻市民病院に勤務することになった。進次は初めて働く「職場」という「場」に緊張を覚えながらも、これから待ち受けるものへの期待に胸を膨らませた。これからの人生の半分以上をここで過ごすのだと思うと、始まったばかりなのにその「場」に愛着を覚えた。
『はじめまして、和田進次です。これからよろしくお願いします!』
『私は小室泰三。こちらこそよろしく』
握手を交わした後、互いに名前の漢字を確認した。
『へえ。和田って書いて、カズタって読むのか。漢字だけ見ると、ワトスンの和名と一字違いなんだね』
それを聞いて進次は、この上司に親近感を抱いた。これまでの人生の中で、進次とワトスンの名前の関係に気付いた人はいなかった。たとえ、大学のミス研にいたホームジアンでさえ、和名を知らなかったり、和名を知っていてもすぐに連想できない者ばかりだった。
『小室さんだって、ホームズの和名と一字違いじゃないですか』
『ほう!やっぱり君もシャーロキアンかい?』
『いいえ!シャーロキアンではなく、ホームジアンです!』なにが違うのかと言われればオタクとヲタクの違いと同じようなものなのだろう。(日本やアメリカでは「シャーロキアン」、イギリスでは「ホームジアン」と呼ぶ)
『はっはっはっは!面白いな。私の周りには一人もシャーロキアンもホームジアンもいなかったから、君と会えて嬉しいよ。聖典の中なら、何が一番好きかい?』
『そうですね……。僕は「最後の事件」が好きですかね。ジェイムズ・モリアーティと対峙したときの「君のいう僕の希望が実現さえすれば、僕はこの世のために、喜んで君の希望どうりになるつもりなのだよ」という言葉が一番好きですね』
『ほう……。なるほど。私はやっぱり「緋色の研究」の「人生という無色の糸枷の中には殺人という一本の緋色の糸が混じっている。僕たちの仕事はそれをほぐし、分解し、その端から端までを一インチ残らず白日の下に晒すことなのだ」だな』
『「緋色の研究」ですか。僕も好きですよ。あの作品の、脳内を屋根裏部屋に例える考えは、脳科学的にも注目されてますね』
『ああ、そうだな。なんだったかな……、「この小さな部屋の壁を、伸縮自在で無限に広がるものと考えるのは間違いだ。新しい知識を加えるということは、過去に覚えたものを忘れるということなのだよ。だから、無用の知識を取り入れ、有用な知識を追い出すようなことがないようにするのが非常に重要なのだよ」かな』
『ええ。そうですね。聖典はいい言葉が多いですもんね』
『進次君。君のこと、ワトスンと呼んでもいいかい?』
『ええ。いいですよ、ホームズ』
『はっは!ノリがいいね、ワトスン!まあ、ホームズは医者ではないし、私も頭脳明晰ではないがな』
こうして、進次と泰三は出会ったのだった。
進次はすぐに仕事の要領を得ると、着々と、時には臨機応変に仕事をこなしていった。そんな部下の働きに、上司の泰三は頼もしさとありがたさを感じていた。
人命を扱い、ミスが許されない職場。時には助けられない命も存在する。そんなプレッシャや無力感から耐え忍ぶ、そんな職業なのだ、医師というのは。進次は、泰三の元で着実に経験を積んでいった。もちろん、ミスで叱責されることや、人の死に無力感を味わい落ち込むことはなかったわけではない。進次はそれでも、患者と向き合い続けた。
あるときの連休、泰三と進次の休みが重なったとき、進次は泰三から自宅に来るように誘われた。進次は遠慮しながらも、断ることはせずに伺うことにした。
そのときに出会ったのが、泰三の養子である、猪尾真理央だった。
中学生の真理央は大人しめな子ではあったが、笑顔を見せることが多い子供だった。泰三の妻、藍里は近所で裁縫や英会話を教えており、普段真理央が家に帰ると、両親ともに帰っていないということが多いそうだ。
泰三は進次に、たまにでいいから相手をしてやってくれ、と頼んだ。どうやら泰三は、真理央が一人で家にいる時間が長いことを気にしていたようだ。進次は迷うことなく了承した。
『真理央は、読書は好き?』進次は訊ねた。
『好きだよ!』真理央は進次の問いに即答した。『動物記とか昆虫記とか、図書館にあるやつ、みんな読んだもん』
真理央はどうやら、『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』など、生物の観察記を読むのが好きらしい。
『う〜ん、そういう話はあまり読んだことないなあ……』
『ふーん。そういえば、ワトスンさんて、シャーロック・ホームズの弟子と同じ名前だね。本名なの?』
『いや、あだ名だよ。それに、ホームズの弟子じゃなく助手だよ、ジョン・H・ワトスンは』
『へえ!ワトスンのフル・ネイム知ってるって珍しいね!義父さん以外じゃ初めてだよ!』
『じゃあ、君もコナン・ドイル好きなのかい?』
『うん、もちろん!僕が一番好きなのは『恐怖の谷』!』
『“The Valley of Fear”か。ジェイムズ・モリアーティとホームズが対決した一八八〇年代終わりの事件と、一八七五年の事件を描いた物語だな』
ジェイムズ・モリアーティ。『最後の事件』でホームズの目の前に現れ、ライヘンバッハの滝に落ちて死んだホームズの宿敵だ。『恐怖の谷』では、事件の背後にジェイムズ・モリアーティが黒幕として存在することが明かされているが、このとき、ワトスンのセリフが『最後の事件』と矛盾する。モリアーティが死んだ『最後の事件』でワトスンはモリアーティの存在を知らなかったのに対し、モリアーティの生前の事件である『恐怖の谷』においてはワトスンはモリアーティを認知しているのだ。
『モリアーティなら、同姓同名の人物が登場する『最後の事件』も好きかい?』進次は言った。
ホームジアン(あるいはシャーロキアン)の間の解釈の一つが、二つの作品内に登場するモリアーティが同姓同名の他人、あるいは兄弟であるとするものだ。進次はそれを信じる派だった。
『うん!『空き家の冒険』で復活する話も含めて好き!』
『空き家の冒険』は、ファンの熱い要望を受けて、『最後の事件』でモリアーティとともに死んだとされていたホームズが帰還する話だ。
二人のホームズ会談はその後半時間ほど続き、そのあとは一緒にテレヴィ・ゲイムやカード・ゲイムなどをした。初めは警戒心らしきものを抱いていた真理央も、距離感を掴めずにいた進次も、しばらくすれば自然に打ち解け合うことができた。
真理央は大人しいながら、好奇心旺盛で多趣味な子供で、読書を通じてさまざまなものに関心を持っていた。動植物、コンピュータ、元素、数学、物理の光や音の波、免疫、ミステリィ、SF、語学、宇宙の神秘、歴史、気候、地理、地震や火山などの災害……。進次は接していて、真理央が本当に興味がないのは童話やファンタジィ、オカルトのような非科学的なものと、恋愛だけなのではないだろうか、と感じていた。
何度か真理央と遊ぶために、休日を潰していた頃、泰三から天体観測をしに旅行へ行くのだが、一緒に来ないか、と誘いを受けた。なんでも、真理央の提案だそうで、彼が進次も一緒にと言って希望していたそうだ。進次は迷いなく同意した。
世田谷区の砧公園。園内中央に谷戸川が流れる、桜の名所。東京で天体観測ができる場所を検索した際に、一番にヒットしたところなのだそうだ。三人家族の中に加わらせてもらいながら、進次も夜空に輝く星々を眺める。この日は天気予報通り、雲一つなく、天上に広がる星座を確認することができた。秋の最も有名な星座、ペガサス座も見える。進次が個人的に一番好きな星座だった。
真理央はそのことを知っていたのか、後々に例のペガサスを模したストラップをプレゼントしてくれた。泰三を通じて渡されたため、そのお礼を直接言うことができないでいるうちに数週間が経過、例の誤認逮捕事件が発生し、真理央は自殺してしまった。その一方を聞いたときは、進次は心に大きな穴が空いたように巨大な喪失感に苛まれた。




