第二章第三話
手強い相手ではあったが、進次は町の構造の知識を活かして簡単に追っ手である莉麒たちをふり撒いた。追跡を逃れるために、スマフォの電源は切ってある。
進次は考えを纏めたいと思った。そのためにはどこかに身を潜めなければ……。
進次が一番最初に隠れ先として閃いたのは、進次の医師としての上司、小室泰三だった。シャーロック・ホームズの和名、小室泰六と名前が似ているので、初めて出会ったときから、ずっと「ホームズ」と呼んでいるほど、進次は慕っていた。また、進次の名前がワトスンの和名と似通っていることや、進次の泰三への態度がホームズに対するワトスンのそれとそっくりなことから、泰三自身も進次のことを「ワトスン君」と呼んでいた。
進次が行き先を泰三の家だと決めかかったとき、思い出されたのが、莉麒の言葉だった。
――それにどうやら、彼はあのときの被害者と知り合いだったようですからね。
その言葉は、警察が加害者ではなく被害者を疑っているのだということを示している。九年前の事件は誤認逮捕が起きたものだった。本気でその事件の復讐者を名乗るとすれば、その復讐は加害者と被害者の両方の可能性がある。それは、どちらも逮捕によって人生が狂わされるからだ。加害者も被害者も自分が思い描いていた人生は絶対に歩めない。
もちろん、それをわざとネタにつかった第三者の犯行とも取れなくはないが、「サタンの母」の購入やIoT機器を利用したDDoS攻撃など、警視庁への攻撃が本気だ。(進次はこのとき、院長殺害、「サタンの母」購入、パレイドへの爆破声明だけでなく、警視庁へのDDoS攻撃も一連の事件だと確信していた。別のものと考えるには、あまりにもタイミングが一致しすぎていたからだ)九年前の事件を模すためだけに、その復讐者を名乗るとは思えない。
そのことから、今回の一連の事件が被害者もしくは加害者の関係者である可能性が高いのだ。そう、加害者側の関係者による復讐の可能性も充分にあるのだ。それなのに、警察は被害者側の人間を疑っている。つまりは、警察がその可能性が高いのだと考えているからだろう。
もし、被害者側の人間が今回の犯人の一部にいるのなら、院長殺害事件の関連から、その一人の可能性は容易に想像がつく。
被害者、猪尾真理央の養父であり、吾妻市民病院の医師でもある、小室泰三だ。
彼なら、東野院長の殺害は容易であるし、プログラムさえ指示されていれば、ダーク・ウェブへの侵入・「サタンの母」購入も可能だ。また、和田探偵事務所のことも認知している。自分と同じ条件を持つ進次に目を向けることもできるだろう。
探偵事務所のパソコンを踏み台にしてハッキングを行い、自分たちの犯行直前に事務所のパソコンが捜査線上に浮かぶように調整されたのは、進次がその直前も含めて犯行中ずっと拘束され続けるのを見越したためだ。進次が身動き取れないようにすることによって、なんらかのメリットを見込んだのだろう。
その拘束を免れ、犯人の意図から外れた行動を取っている今、そのことを犯人に知られるのは非常に危険なはずだ。
進次は匿われる選択肢から泰三を外した。
進次は、しばらくは隠れるのではなく逃げ続けようと決めた。ジャケットの内ポケットに常に潜らせていた黒いキャップを取り出し、目深に被る。そして、さらに霧吹きのミニボトルを同じ内ポケットの奥から引き出し、顔に吹きかけた。アルコール内に雲母粉をコロイド状にして分散させたものが中に入っている。こうすることで、乱反射が起き、赤外線高感度撮影を誤魔化せる。見た目にはそれほど目立った変化はないのだから、大丈夫なはずだ。
進次は街灯のない路線沿いを歩いていた。日没後数時間が経った街は静まり返ったように暗闇に包まれている。その包み込むような暗さが今の進次にはありがたかった。どこまでも広がっている闇。まるで、この先の未来の不透明さを示しているかのようでもあった。
ときおり、目の前から二つの光が近づいて来たと思うと、それは大きな騒音を立て、進次の身体に強い風をぶつけて過ぎ去っていった。音が先に聞こえ始め、周囲が光に包まれて、背後から通り過ぎて行くこともある。
どこまで続くのかはっきりしない暗闇を掻き分けるように進み続けた。ふと見上げた夜空は、雲がかかっているお陰で、月も星も見られない。進次はたった一人だった。永遠のような孤独感を味わった。
これまでずっと協力してきた警察を、信頼して事務所に入ってくれた愛実を、そして何より、愛する芽亜里を裏切った代償はあの一瞬に想像したよりも遥かに大きかった。心の中を半分以上ごそっと持っていかれたような感じだ。
だんだん足が前に進めなくなってくる。
「(僕が求める理想は一体なんなのだろう……?これまで理想の選択をしてこれたのだろうか?)」
一本の街灯が近づいて来た。電球が切れかけているようで、しきりに点滅を繰り返している。周期は消えている時間のほうが長い。
進次はゆっくりとその街灯に近づき、そしてその下で座り込んだ。直前まで暗いながらも光を保っていた街灯は進次が座るとともにその明かりを失った。
進次は空を見上げた。曇っていた夜空にはいつのまにか雲の絶え間が生まれていた。その隙間から美しい星々が輝きを放っている。
「(桝形星。秋の四辺形か)」
雲間に見えたのはマルカブ、シェアト、アルゲニブ、アルフェラッソの四星。それらが構成するのはペガサス座というトレミィの四十八星座の一つだ。その星座の元となったのは、勇者ペルセウスがメデューサの首を切り倒したときに胴体から生まれた、泉を意味するΠηγαιが由来である、翼を持つ天馬ペーガソス。べレロポーンの乗馬となってキメラを倒し、後にゼウスの雷電の矢を運んだという霊感の象徴だ。
「(ペガサス……か)」進次はズボンのポケットから財布を取り出した。そのファスナには、翼を生やした白馬のストラップがつけられていた。
それは、進次が九年前に亡くなった少年、猪尾真理央から受け取ったものだった。それは四つで一組のペアを作るセットものだった。
ペルセポネを象った乙女座のストラップ、『スピカ』。
オリオンを追いかけ回したサソリの形の蠍座のストラップ、『アンタレス』。
翼で天を掛ける馬ペガサスの星座のストラップ、『マルカブ』。
サソリに刺された傲慢な英雄オリオンのストラップ『ベテルギウス』。
進次が持つ『マルカブ』以外のストラップは、真理央が彼自身や、彼の大切な人に分け与えていた。進次は九年の時を過ごし、傷だらけで所々が欠けているそのストラップを握りしめた。




