Side昌克&愛実
僕は誇りを傷つけられたよ、ワトスン君。もちろん、つまらない感傷に過ぎないが、とにかく誇りを傷つけられたのは間違いない。こうなれば、事件は、もう僕自身の問題だ。生命ある限り、必ずこのギャングどもを捕まえてやる!せっかく僕を頼ってきた者を、変える途中で死なせてしまうなんて、悪知恵に富んだ悪党どもだ!(『五粒のオレンジの種』1891年)
Side五十嵐昌克
容疑者は二人。昌克は梅花市民病院院長東野誠殺人事件を追っていた。和田探偵事務所所長の漏田進次の協力で、事件の大まかな流れを掴んだ捜査員は、防犯カメラの映像などから、容疑者をたった二人に絞り込んでいたのだ。
報告書をある程度書き終えた昌克は、残った容疑者のうちの一方の名前に眉を顰めた。
「(あいつが殺人なんて犯すはずがない……)」
しかし、そんな私情を挟むなど、捜査においては論外だ。先月歳のために組織から離脱した昌克の恩師が言っていた言葉だった。本当に罪を犯すはずがないと信じるのであれば、無実だと信じ得る証拠を集めるべきだ、と。
昌克は机に肘をつき、二等辺三角形を作るようにして両手を組んだ。過度な葛藤に痛む頭を組んだ両手に預け、さらに葛藤に潜る。友人として友人を信じ切れない自分と、刑事として友人を疑えない自分に嫌悪感を抱く。
昌克は溜息をついた。確認を取らねば。しかし、その返答が怖くて躊躇いが生じる。答えが聞きたくない。そしてまた、躊躇を覚える自分に嫌悪し、終いには電話をかけるその行為自体に嫌悪の対象が向く。なにもかもが億劫になり、また溜息をついた。
他方の容疑者については、もうすでに連絡を入れていた。何度か掛け直したが、仕事中だったらしく、繋がったのは夜遅くになってからだった。
「もしもし。警視庁の五十嵐と言います。吾妻市民病院で働く小室泰三さんですか?」
「ええ。そうですよ。」
「こんな夜遅くにすみません。実は、院長殺人事件においてまたお聞きしたいことが」
「え、なんです?もう、お話しすることは無いと思いますが」
「実は、事件が進展したんです」
「え、何か新しい発見でもあったんですか?」
「ええ。それの信憑についてあなたに確認していただきたいことがあるんです」
「わかりました。何時頃そちらにお伺いすればいいですか?」
「え?いや、それには及びません。こちらから伺いますよ、小室さんの都合のいい時間に」
「いえ。わざわざお越しいただくのもなんですから、こちらから伺いますよ。明日仕事の終わってからなので、六時二十分頃になると思います」
「あ、そうですか。わかりました。お待ちしています」
ふと、時計をみると、六時過ぎだった。もう十数分すれば泰三がやってくる。昌克はスマフォの画面に表示されている「和田進次」の文字を睨んだ。
「五十嵐さん、お客さんですよ」昌克の部下がデスクにやって来て囁いた。
「誰?」
「東野院長殺害の容疑者の一人です」
「小室?」
「ええ」
「早いな。わかった。ありがとう」
昌克はデスクから立ち上がった。スマフォの画面が暗くなり、「和田進次」の文字が消えた。まるで本人が消えるかのような不吉な予感が昌克を襲った。
昌克は再び電源ボタンに触れた。画面に光が灯り、進次の名前が浮かび上がる。昌克は意を決して通話の文字をタップした。
Side樫谷愛実
「はじめの東野院長殺害は、突き落とすときの小細工が細かすぎる。衝動的な犯行なら、あそこまで考えが及ばないよ」愛実は高速道路へのインタ・チェンジに車を滑り込ませた。
「ワトスンが逮捕された(実際には逃走しちゃったけど)タイミングが、警視庁へのサイバ攻撃の直前というのも都合が良すぎる。ワトスンのパソコンを解析し無実が証明されるまでにサイバ攻撃が始まってしまう。つまり、その間ずっと、ワトスンは取調室に拘束されるのだから、直接的な関与が否定できる。その後にパソコンの解析により、間接的な関与の疑いもかなり晴れるから、無実が証明されたのも同然」
三時半の方向で微妙に並走する車を横目に見、愛実はアクセルを踏んだ。愛実の車が加速し、並走車の前に完全に躍り出る。愛実はハンドルを切り、高速道路に合流した。
「他のものも含めて、どれももかなり計画されたものだね。そして、ワトスンにかなり近いところで発生しているのも共通している。それに、東野院長殺害犯が、院長のパソコンで『サタンの母』を購入したと推定されると同時に、その購入時の名義が爆破予告の名義と同じ。たぶんこれら全て、同じグループの犯行だよ」
「同じグループ?複数犯なの?」芽亜里が訊ねた。
「うん。だって、院長殺害時の容疑者リストと、事務所のパソコンの秘密を知っているもの、その両方に入っている人物はワトスンしかいないけど、先の理由から否定されるから、単独犯ではありえない。もちろん、ワトスンの自作自演の可能性はあるけれど、それだと逃げたことが不可解だ。逃げずにそのまま捕まったほうが、確実に無実が証明されるのだから。そういうわけで、院長殺害と事務所のパソコンのクラックの両方を行えた人物はいない。だから、複数犯だというわけだよ。」
だが、一つの懸念があった。その逃走さえも演技だった場合のことだ。逃走することで、裏をかいて無実だと思わせる。そんな可能性が頭の中に浮かんだ。その場合でも、おそらく犯人はグループだろう。
「なるほどね……。そういうことか……」
「ところで、どの写真だったの?」左手でカー・ナヴィをいじりながら愛実は訊ねた。
「え?」
「メアリィのスマフォを感染させた写真だよ。その写真を提供したクライアントが犯人グループの一人の可能性が高いんだから。」テレヴィをつけた。パレイドの様子が大々的に報道されている。
少し長い沈黙。
愛実はバックミラーを見遣った。運転中なので、ほんの一瞬しか見られなかったが、芽亜里と確かに目があった。そこには、躊躇と迷いの感情が見て取れた。
どうして、ここで迷う必要があるのか?
愛実は考え、すぐにその見当がついた。「(まさか……。)」
助手席の空気が変わった気がした。いや、確実に変わった。愛実には、芽亜里が覚悟を決めたのが、はっきりと感じ取れた。そして、それ自体が、愛実の見当が正しいことを示している。愛実は心の準備をした。
「実は、」芽亜里が口を開いた。「プログラムが仕込まれていたのは、アイミの写真だったの。」
予想が現実になった。「……やっぱりね。そうじゃないかって思ったわ。ということは、その写真を芽亜里に渡したのは、拓海ってわけね。」
「……うん。」
愛実はカー・ナヴィのテレヴィ画面を操作し切り替えさせた。愛実は拓海の携帯に電話をかけた。
「……やっぱり、出ない。」愛実はため息をついた。
「……どうするの?」
「このまま何度か電話を掛けつつ、警視庁に向かう。あと一時間半すれば、着くと思う。……そして、今午後四時だから、あと一時間半もすれば、パレイドが終わる。」
「パレイドが終わったら……」
「翔騎の情報が正しければ、その一時間後に、警視庁は攻撃される。」愛実は緊張を浮かべながら呟いた。「行こう、多分そこに、解決編は隠されている!」




