第一章第十四話
愛実は、その時、コーフィ店Κάσασαγκι――吏が働いている店――に訪れていた。その日は、吏がシフトとして入れている日のはずであったが、なぜかいなかった。店長の鵲さんの話によると、一週間前くらいに突然、『次の日曜日、シフト外して欲しいんやけど』と言ってきたらしい。
夏休み以降、ずっと大学の授業やサークルで忙しく、久しくこの店には来ていなかったのだ。吏の姿自体は見られなかったが、店長の話で、彼がまだ働いていることを知り、愛実はほっと一息吐いた。
夏の頃と比べれば、だいぶ日が傾くのが早くなった。愛実は夕陽を眺めながら、コーフィカップに口を付けた。
優雅なひと時だった。
その「時」が来るまでは。
夕陽がさらに傾き、空一面が茜に染まったころ、愛実の携帯電話が店内に鳴り響いた。妙に哀しげな音だった。
画面には、「九十九吏」と表示されていた。
……吏君!?
愛実は通話ボタンを押した。『もしもし、吏君?』
『もしもし、』しかし、聞こえてきた声は明らかに吏のものとは別物だった。『突然お電話して申し訳ありません。実は私、警視庁交通安全課の酒井と申します。』
『警視庁……?どうして?吏君になにかあったんですか?』
『実はですね……、先程、――』
この携帯の持ち主、九十九吏さんが、交通事故に巻き込まれて、お亡くなりになったんです。
愛実は持っていたケイタイを落としそうになった。『亡くなっ……た……?』
『はい。それで、あなたにお見せしたいものがあるんですので、ちょっと、現場に来ていただけませんか?』
『え、ええ。わかりました。場所はどこですか?』
愛実は慌てて会計を済ませ、店を出た。
酒井警部が愛実に見せようとしていたものは、包装された小包だった。
『え……、これは……?』巻かれたリボンには、「愛実さんへ」とあった。
『おそらく、九十九さんからあなたへのプレゼントではないでしょうか?』
『あたしへの、プレゼント?』
『ええ。目撃者によると、そこの時計店から、幸せそうな顔をして出てきたそうですよ。歩道を乗り上げてきている車にも気付かないで。』
『そんな……。』愛実は思い出した。今日、二〇一二年九月一六日は、愛実の二十一歳の誕生日だったのだ。
『彼の、遺志です。受け取ってくれませんか?』
『はい……。』愛実はその小包を抱きしめ、そのあとで、ハンドバックに大切にしまった。涙が溢れてきた。
酒井警部は、愛実が落ち着くまで、近くのカフェに連れて行ってくれた。愛実はそれに甘えて、泣き続けた。
酒井警部の話によると、吏の携帯に登録されていたのは、愛実の連絡先だけだったそうだ。
吏には、両親も、親族も連絡がつかないそうだ。彼は、彼自身が言った通り、家族に見捨てられた子供だったのだ。
その帰り、俄雨が降った。夕陽が横から差し込み、雨粒が上から落下する。その自然の生み出した光のイルミネイションがとても美しかった。いわゆる天気雨、狐の嫁入りというやつだろうか。愛実は雨に濡れながら、人知れず涙を流し、歩いた。
愛実以外に、吏の死を嘆く人はいない。
愛実は、それが哀しかった。
愛実は彼の墓を作ってあげることにした。なんとしてでも。絶対に彼の生きていた痕跡を残してやる。愛実はそんな意気込みで、吏の墓を彼の地元に作った。
愛実は泣いた。流れの中で。
涙はすぐに溶けてしまう。それでも、泣き続けた。
愛実は毎年自分の誕生日、そして吏の命日に、墓参りに行っていたのだ。
結婚して、隣町に移ったあとでも。
目を覚ますと、愛実は涙を流していたことがわかった。夢の中だけでなく、現実でも泣いていたようだ。
「あ、墓参り行かなくちゃ。」愛実は思いついた。
その途中で事故に遭ったため、結局墓参りに行けていなかったのだ。
愛実は着替え、外出の準備をした。ハンドバックの中を確かめる。
どうして、女性にはハンドバックが必要なのだろう?それは、ポケットが少ない、あるいは小さいからだ。なぜ、女性服は小物を肌近くに置く性能に欠けているのだろう?
カバンに充電していたスマフォを入れようとしたとき、芽亜里からの着信があったことに気がついた。一時間前だ。
愛実は折り返した。「どうしたの、メアリィ?ワトスンに関して、なにかあったの?」ラインが繋がると、愛実は現在置かれている状況を思い出した。
『今ね、事務所の協力者の一人と連絡がついたの。』
「え、協力者?」
『そう、この日本の中でもかなりの腕前のハッカさん。鮫川慈英っていうんだけど、これから会うつもり。アイミも来て欲しいんだけど。』
「え、それってワトスンの件と関係ある?」
『うん。パソコンをどうやってハッキングしたのか、相談してみたの。』
「そうか。そっちの路線ね。オッケィ。そっちへ合流する。梅花駅でいい?」
『いいよ。じゃあ、あとで。』
電話が切れると、愛実は苦笑した。「墓参り、また先送りになっちゃうね。ごめんね、吏。」
「にしても、メアリィ、立ち直れたみたい。よかった。」愛実は独り言ちたあと、探偵事務所の最寄駅へと向かった。




