第一章第十二話
その後、なんと言って別れたのか、愛実は覚えていなかった。ただ、最後の言葉が引っかかっていた。
次の日、再び同じところに行くと、昨日と同じ服装で、同じように野球ボールを壁に投げ込んでいた。
『吏君。』愛実は呼び掛けた。
吏は振り返り、不機嫌そうに愛実を見た。邪魔されて少し腹が立ったようだ。しかし、愛実の左手を見て、その表情も変化した。
『キャッチボールしよう。』愛実はグローブを掲げて微笑んだ。
愛実は吏の投げたボールを危なげなくキャッチした。
『へえ。愛実さん、結構うまいんやな。』吏は感心した。
『小学校のとき、男子に混じってやってたし、』愛実はそこで吏に投げ返す。『中・高は文芸部と女子ソフトを兼部してたしね。』
吏からの返球がやって来る。
『楽しい学校生活送ってたんやな。俺とは大違いやわ。』
愛実は今度は天に向かって投げた。フライ。
『人の人生なんて、それぞれ違うんだから、人との違いを意識しても無駄だよ。』
吏は天から降って来る球を見事キャッチした。『俺、親に見捨てられたんや。しばらくは、残ってた貯金使うて生活出来んやけど、一寸先が闇っていう状態や。そろそろ働かんとあかんわ。』
吏の手から離れた球が空中に滑り出す。逆光で黒く映ったボールの影を追い、愛実は少しずつ後退した。
『……私が代わりにバイト見つけて来ようか?』愛実はフライボールを手中に収める。『そういや、駅の近くのコンヴィニ、バイト募集してたな。』
『俺、コンピュータ見るとあかんねん。せやから、パソコンないとこでないと……。』
『パソコン、嫌いなの?』愛実はソフトボールの投球フォームの後、ボーリングのように球を地面に転がした。
『いや、そういうわけやないんやけど。ちょっとな。』吏はゴロを受け止めた。
『ふうん。じゃあ、あたし、この町でパソコン使わなさそうなバイト、いくつか探して来てあげるよ。』
『あ、や……。』
『大丈夫。こんなに田舎っぽくても、ここは一応東京。バイトなんて、いくらでもあるんだから。』
『あ、そん……、あ、あんがとうございます……。』
『別にいいよ。明日もここにいる?』
『もちろんや。』吏は愛実に全力投球でボールを投げた。
『おわ!』愛実はなんとか球を受け止めた。
「ねえ、アイミ、聞いてる?」気がつくと芽亜里が愛実の顔を除きこんでいた。
「あ、ごめん。ちょっとボーっとしてた。」
「大丈夫?もう、帰る?」
「大丈夫、大丈夫。で、なんの話だっけ?」愛実はいつのまにかテイブルに届いていたチーズケイクに取り掛かる。
「今回の犯人の狙い。九年前と同一犯かなって話。」
「うーん、どっちかって言うと、前回の被害者が今回の犯人って言う方があたしは納得できるかな。」
「え、つまり……?」
「まず、使っている名前が『真実か理想の復讐者』で、前回の『真実か理想の覇者』を意識しているのは確かだけど、全く同じじゃないのは『復讐者』っていう部分。その『復讐者』って部分を踏まえると、九年前の被害者が復讐しているっていうイメージが湧くな。」
「でも、被害者って……」
「九年前の被害者、猪尾真理央は、あの事件をきっかけに自殺している。だから、被害者遺族の復讐なのかな。公安がワトスンに目をつけたのも、九年前の被害者と関係があったのが一つの理由だし。」
「でも、なんでパレイドなんて爆破するんだろう?ダークウェブに侵入して『サタンの母』を購入してまで。」
「……復讐したい相手が、警視庁だから?」愛実はケイクを食べる手を止めた。
「え?」
「九年前の事件で猪尾真理央が自殺したのは、警視庁の刑事が誤認逮捕をしたから。そう、考えたとしたら、パレイドの爆破にも説明がつく。予め爆破予告を送っておくことで、警戒を促した上で、爆発が起これば、警視庁に汚名が被せられる。しかも、その爆破予告に関して、誤認逮捕が発生すれば、それに関する落ち度も発生する。そういうことなのかな?」
「なるほど……。」
「ただ、気になるのは、東野院長を殺害したことかな。ダークウェブに侵入する程度なら、わざわざ殺害しなくても、ワトスンにしたように、他人のコンピュータをクラッキングして利用すればいいんだから。自殺に見せかけはしてたけど、バレたときのことを考えたら、無駄なリスクを負うことになってしまう。」
「院長自身を殺害する動機があるってこと?でも、ダークウェブに侵入した人物と院長を殺害した犯人は、同一人物とは限らないよね。」
「まあ……、ね。」
愛実はベッドに倒れ込んだ。今日はもう、執筆する気にはなれない。今受け持っている仕事は、締め切りまでしばらく猶予があるので、今日くらいは休んでも大丈夫だろう、そう、愛実は考え目を閉じた。
芽亜里とレストランで話した後は、次に向かう当てがなく、だいぶ夜も更けってきていたので、芽亜里は事務所兼自宅に、愛実も拓海のいない家に帰ることにしたのだ。
明日、なにかが起こる。
そんな予感がずっと、心の中にあった。しかし、なにをすればいいのか、愛実には思いつかなくなっていた。さまざまな出来事が一度に押し寄せてきたため、頭の処理が追いつかなくなっていたのだ。
真実を知るための手がかりが、全て他人の手にあるのだ。
愛実には、もう、憶測をするしか、ない。
東野院長の事件、昌克は進次のヒントをもとに、どこまで容疑者を絞っているのだろう?進次のパソコンから、公安の連中はなにか、掴んだのだろうか?進次は、今、なにを思って、どこをほっつき歩いているんだろうか?
だれか、この状況を打開できる、なんらかの情報を持って来てくれないだろうか。タイムリミットがあるのに、待っているしかない、そんなもどかしい状況だ。こんなとき、ミステリィに出てくる探偵役たちは、どうするのだろう?愛実は、ただのミステリィ作家でしかないのだろうか?
愛実は、思考することで、まるで海に放り出されたかのように、もがき続けたが、やがて力尽き果て、眠り沈んでしまった。
『愛実さん?』その海の中で、夕方に思い出していた少年の声が反響して聞こえた気がした。
東京で聞く言葉とは、また違ったイントネイション。懐かしさを含むその声に、愛実の閉じられた瞼から、涙が一滴、流れ落ちた。
落ちた涙が空気に、――いや違う、海に、――溶け込んでいく。
記憶の、思考の、
さまざまなイマジネイションが溶け込みあった無色の海。
それらはある一定の流れに従い、
未来へと流れている。
流れに従うにつれ、その水の量は多くなる。まるで、川の上流から河口へと流れていくように。
流れ、――まるで、それは無数の糸のよう。
『人生という無色の糸枷』――そう言ったのは誰だったのか?
そうだ。あたしが尊敬するキャラクタだ。
あの天才、――鋭き観察眼をもつ、最高の探偵。
『無色の糸枷のなかには、殺人という一本の緋色の糸が混じっている。』――ということは、有色の糸を含んでいながら、全体は無色であるというこのなのか?
この流れと同じだ。
無限の色彩をもつ記憶を、映像を、そして、想像を、含有するこの流れは無色だ。
この流れは、人生。
あたしと、あたしに関わった全てのひとの。
夢の中では、流れは穏やかだ。
自由に泳ぐことができる。
だから、あたしは、起きている間は行くことができない方向へと向かう。
流れに抗う。
『愛実さん?』再び聞こえる少年の声。
今度は気のせいではない。はっきりと聞こえる。
哀しみと歓びの感情が湧き上がり、また一滴、涙が海に溶け込んでいった。




