第一章第十一話
「すみません。主人は今、どこかに出かけていて、帰ってきていないんですよ。」
愛実たちが小室泰三の自宅を訪れると、泰三の妻の藍凛がもてなしてくれた。
「え、どちらに行かれたのかは……?」
「いえ、見当もつきません。お力になれなくてすみません。」
「そうですか……。では夜分失礼しました。」愛実はすぐに辞退し、小室家を出た。
「また、お越しください。」藍凛が背後で言うのが聞こえた。
愛実と芽亜里は近くのレストランへ足を運んだ。日が暮れてしばらく経つのに、まだ中に客が何組かいた。
「まったく、拓海といい、ワトスンといい、小室といい、なんでこんな時間に、家族に何も言わずに出払っているんだよ!?」愛実は愚痴を吐いた。「まあ、ワトスンがいないのはまた違った理由だろうけど。」
「ねえ、アイミ。」芽亜里はカルピスにメロンソーダを混ぜた飲み物をほんの少し口に含んで呟いた。
「なに、メアリィ?」
「……私って、進次のこと、なにも知らないんだね。」
「なにも?」
「だって、進次の仕事に関して、なにも知らないし……、さっきの、上司の息子さんの話だって知らなかった。進次と九年前の事件に関係があったってことも驚きだし……。公安の刑事さんが進次の行き先に関して訊ねたときも、私、進次が行きそうな場所に、まったく心当たりがなかったの。進次のこと、なにもわかってやれていないの。それに……、それに、私、進次が描いてる理想も、どんなものなのか、まだ、見当がついてないし……。」
「ワトスンの理想?」
「進次、よく言ってるの。『理想を抱き、それに向かって最善の方法を考えなければならない。』とかね。なにかしらの理想を抱いて、それを実現させようと日々奮闘しているような感じなの。探偵事務所の経営を始めたのも、その理想に必要だからだと思う。」
「理想……か。」愛実は事務所での進次の言葉を思い出した。
「僕は、榊原真実の真実主義が、この探偵事務所をもっと理想的な形にしてくれると信じてる。いい返事を待っているよ。」
あのときも、進次は理想という言葉を使っていた。
「だから、私、アイミの……ううん、榊原真実の『真実主義』に対し、進次の考え方を『理想主義』って呼んでるの。」
「へえ……、面白いね。それに、九年前の事件や今回の爆破予告とかにでてくる『真実か理想の覇者』や『真実か理想の復讐者』とかに通じている。」
「あ!全く気がつかなかった……。それらって、どういう意味だったの?」
「別に、私やワトスンは関係ないよ。私が真実主義を掲げたのは九年前の事件より後だし。確か、『真実か理想の覇者』は、九年前の二〇一〇年に発売された二対のRPGゲームのテーマが『真実の英雄』と『理想の英雄』だったはず。そこからとられたっていう説が最有力ね。」
「ああ。あの人気な?」
「うん。多分ね。」愛実はクリームソーダの上に乗っかっているアイスクリームを慎重に掬った。「メアリィ、さっきの話に戻るけど、人が他人のことに関して知らないことがあって当然だよ。全て知るのは到底無理なことで、あくまでなんでも知り尽くすのは不可能だよ。」
「……でも、」
愛実は首を振って芽亜里の反論を遮った。
「メアリィが知らないワトスンの姿なんて、いっぱいあるわけだよ。知らないことなんて、いっぱいあって当然だよ。でもね、メアリィが知っているワトスンだって、一部だとしてもあるわけだよね。重要なのは、そこなんじゃないかなあ。知らないことよりも知っていること。だって、メアリィがワトスンのことで知っていることは、確実に、メアリィがワトスンの好きなところなんだから。知らない側面なんて、もっと愛せるところがあるってくらいにとどめておいた方がいいんじゃない?もっともっと、一緒に過ごして、もっといっぱい、色んなことを知って、もっとワトスンを、愛したらいいんじゃないかな?」
芽亜里は愛実の瞳を見つめて、ずっとその声に、言葉に耳を傾けて聴き入っていた。その表情がだんだん、落ち着いて、喜びが混じっているものへと変化していった。
「……ありがとう、アイミ。元気が出た。」
「メアリィが元気になってくれれば、あたしも嬉しいよ。」
愛実たちはデザートのケイクを頼んだ。愛実はチーズケイク、芽亜里はチョコレイトケイクだ。
愛実は、ウェイタが料理を持って来てくれる間に、ジュースのお代わりに行った。今度は野菜ジュースとカルピスソーダの組み合わせだ。
「そういえば、『真実か理想の覇者』事件の犯人って、だれだっけ?」芽亜里が訊いてきた。
「十三歳で未成年ってことで、名前は伏せられていたよ。今じゃもう、二十二歳かな。」
そう言っているとき、ふと思い出したことがあった。
「(あいつも、生きてたら、ちょうどそのくらい……か。)」
愛実はある少年との思い出がフラッシュバックした。
七年前。愛実がちょうど二十歳だったときだ。
愛実は、春休みで大学での授業がない間で、灰土町に帰省していた。なにか小説のネタがないかと、今は上に高速道路が走っている、川辺を彷徨いていると、一人の青年が川辺の倉庫の壁に向かって、ボールを投げているのが見えた。
しばらく見学していると、青年の方が愛実に気がついた。
『……なんや用か?』
眉間に皺を寄せ、睨みつけるような目で愛実を威嚇しているようだった。
『特に用はないけど、少し見学させてもらってもいい?』
愛実は努めて笑顔を見せた。
『別に。勝手にしたらええ。』青年はまた球を壁にぶつける。
愛実はしばらくその運動を眺めていた。青年の投げる球速がだんだん速くなっているように感じた。
『まだ、おったんか?』しばらくして青年が言った。
『もしかして、福井の人?』
青年は驚きで目を見開いた。
『なんで、わかったんや?』警戒心が顔に現れている。
『そのユニークなプロナンシエイションでね。』
『カタカナ語並べられても、よう分からんのやけど。』
『まあ、気にしないで。にしても、だいぶ長い間ブランクがあったようだけど、自分では調子はどうなんだ?』
『な、なしてブランクがあったって分かるんや?いっこも話してへんやろ?』
『グローブとボールがそんなに汚れてないし、傷付いているような感じでもない。多分、新品で最近買ったのね。で、その二つを一緒に買うんだから、最近始めたってところ。使い込まれていて、もう使えないほどボロボロになって買い換えたとしたら、二ついっぺんに変えるのはちょっと違和感があるからね。でも、君のフォームや球の安定感、球速とかを考えたら、初心者とか小学校の休憩時間で少しやったっていう程度じゃ考えにくい。だから、昔野球をやっていたけど、なんらかの原因で数年のブランクを経験して、また最近戻ってきたんじゃないかって考えたの。』
『へえ。そういうことに気ぃつくん、すごいんやね。』
『ありがとう。あたしは真愛実っていうの。真実の真が苗字で、ファーストネイムは愛の果実って書くの。君は?』
『俺は……、九十九吏。字は、数字の九十九に使うっていう字の右側。』
『ああ。九十九神の九十九に、官吏の吏ね。カッコいいね。』
『……あんがと。』
『吏君って、学校どこなの?』
『学校は……行ってへん。』
『え?なんで?吏君、歳は?』
『いろいろあったんやよ。十五やで。』
『そっか、だから昼間なのにこんなところに居られるんだね。誕生日は?』
『十二月の二十日や。愛実さんは?』
『え?私?九月の十六だよ。』
『へえ、そうなんや。歳はいくつなんや?』
『女性の歳を訊くって、失礼だね。ちょうど今年で二十歳だよ。吏君はどこかで働いているの?』
『いいや。全くそんなこと考えへんかったわ。』
『ふーん。それで大丈夫なの?』
『大丈夫やあらへん。けど、しばらくは、こないしておるしかないねん。』




