第一章第十話
一瞬、なにが起こったのか、愛実には分からなかった。突然白い光が部屋を包み込み、彼女の視界を奪ったのだった。
「なんだ!?」
「あ、待て!?」
莉麒や哲夫の叫び声は聞こえるが、なにがなんだか分からない。光が眩しすぎて目が開けられなかった。
「進次……。」
側で芽亜里の震えた声が聞こえた。
それが閃光弾によるものだと愛実が気付いた頃には、光は消え、進次の姿もまた、消えていた。突然の明滅によって、眩暈が襲ってくる。公安の刑事たちは進次の跡を追って去って行ったようだ。
愛実は芽亜里の鳴く声を聴いた。眩暈を追い払い、芽亜里に寄り添う。夫に逮捕状が出ていること、夫が逃げ出したこと。それらが目の前で繰り広げられたのだ。精神的ダメージは大きいだろう。
「とりあえず、座ろう。」愛実は芽亜里をソファに導いた。
座らせたのはいいものの、愛実にはどうすればいいのか分からず、ただずっと、芽亜里の背中を摩り、落ち着くのを待つことしかできなかった。
ずっと、ずっと重い沈黙が部屋に満たされていた。その空間で、その位置座標から全く動こうとしない愛実たちは、まるで時間軸においてさえも、世界に置いて行かれたかのようだった。
二人だけの、止まった時間が動き出したのは、慌ただしい足音が響いたときだった。
「進次!?」
その音を耳に捉え、芽亜里が突然立ち上がる。
彼女の期待を裏切るように、乱暴にドアを開けたのは公安の莉麒と哲夫だった。
「ちっ!逃げられましたよ。さあ、説明してもらいましょうか。なんなんですか?あの光は。」怒り狂った莉麒は芽亜里を責める。
威圧的に近づき、言葉で攻め入る莉麒に、芽亜里はすっかり怯えて縮こまる。
「どこへ逃げたのか、あなたならご存知じゃないんですか、漏田さん!?」そんなのは目に入らないかのように、莉麒は非情にも怒りを浴びせる。
たまらず愛実は莉麒の前に立ち、その行く手を遮った。
「いい加減にしてください!」
「退きなさい、榊原さん。君には関係のない話だ。」
「どの話が関係ないって言うんですか?この事務所のパソコンから犯行予告が発信されたことですか!?この事務所の一員であるあたしに、どこが関係ないっていうんですか!?」
「事務所の一員?君が?」
「ええ。あなた方がしなければならないことは、漏田進次の行方を追うことと、このパソコンを調べることでしょう?このパソコンからコンピュータ・ヴァイラスが発見されれば、ワトスンの容疑が晴れる!是非とも、このパソコンを調べなければならないはず。何も答えられない状態のメアリィに取り調べをしても、無駄であることは状況的に見ても明らかでしょう!?なら、もっとも優先順位が高いのはパソコンを調べることです。さあ、さっさと持って行ってください!」
愛実は一気に捲し立て、所長机の上のパソコンを押し付けた。
「ひとつだけ。漏田の行方に心当たりは……?」
「知りません!パソコンを調べ切ってからまた伺ってください。今日のところはこれで!」愛実は二人を事務所から閉め出した。
「……アイミ、よく、あの人たちに立ち向かえたね。」芽亜里は呟いた。
「そりゃあ、ワトスンの無実を信じてるもん。それに、あの明智ってやつの態度が、気に入らなかったんだよ。」
「すごいね、アイミは……。私なんか、何が何だか分からなくなって何もできなかった……。」
芽亜里の目には再び涙が浮かんでいた。ジーパンの上に置かれた手が、固く閉ざされ、握り拳を作っていた。このままだと、手の平に爪痕が残るのではないか、と思われた。
「だったら……、」愛実はある決意を胸にして、強く言った。「今から行動を起こそうよ!」
「え?」愛実は驚いて顔を上げる。
「私は真実主義。何が起こっているのかを、正確に知りたい。なんでワトスンが逃げたのか、なんで事務所のパソコンから警視庁に犯行予告が出されたのか、なんで東野院長は殺されたのか、なんで私は突き飛ばされたのか。全部が全部、繋がっているとは思えない。だけど、それらの真相を、真実を、知りたいの。メアリィも知りたくない?真実の答えを。」
愛実は芽亜里の強い視線を感じながら、自分の考えを述べた。芽亜里はその質問に対し、強く頷いた。
「だったら、まずは芽亜里自身と向き合おう。」
愛実は芽亜里の向かいの席に座った。
「公安の連中が言ってた、ワトスンと九年前の事件の被害者の関係、あれは本当なのか?」
芽亜里は首を横に振った。「分からない。ただ、進次の上司の中で、息子のことを話せるようなほど彼と仲が良い、人って、二人しか思いつかないわ。」
「誰と誰?」
「亡くなった東野院長と、進次がホームズって呼んでた小室泰三先生よ。」
「へえ。ホームズの和名、小室泰六に似てるなとは思ってたけど、実際にそう呼ばれてたんだ。どっちも被害者とは苗字が違うな……」
「それ以外は、あまり知らないよ。」
「よし、じゃあ、小室の方にさっそく話を訊きに行こう!そこからなにか掴めるかも知れない。」
「え!今から?それより、アイミ、時間大丈夫?」
「時間って何が?」
「もうすぐ七時だよ。旦那さんが待ってるんじゃ……。」
「ああ!忘れてた!」
愛実は急いで書斎においてきたカバンの中にスマフォを探す。
「あ、そうか!壊れてたんだった……。」
仕方なく、メアリィに頼んで事務所の電話を借りることにした。「あれ?出ない。」
「留守……?」
「たぶん、そうみたい。でも、どうしてこんな時間から……?まさか、浮気?」
「それはちょっと邪推し過ぎなんじゃあ……。」
愛実は念のため、もう一度掛け直すが、またも留守番電話。愛実は探偵の仕事が入ったこと、そのために帰りが遅くなること、夕飯の準備はいいということを伝言に残した。
「嘘はダメなんじゃない?」芽亜里は仕事が入ったという嘘をついた愛実を咎める。
「別にいいじゃない。事務所には仕事が来てないけれど、これからやるのは探偵の仕事となんら変わったところはないんだから。」
こうして、愛実と芽亜里は日の沈んだ夜の街へと身を乗り出した。




